見出し画像

1748年初演『仮名手本忠臣蔵』と二.二六事件は白い雪景気だった

雪の降らないスキー場はタダの雑草地か

(画像 文春オンライン)

二百年前の雪景色といまの「桜田門」景色とでは比ぶべくもない

2月26日は、その200年前の2月26日とでは、まったくリンクしない歴史の断片だか、「おのおの方」が観て聴いて知っている映画の雪景色は、「柘榴坂の仇討ち」、並びに忠臣蔵など、白雪の「白」は、2月のさ寒さと相まって臨場感を醸し出していた。

ところで、忠臣蔵とか桜田門外変はともかくとして、その2.26事件を知っている人は、この令和SNS時代に、いま居るのでしょうか、という最大級の疑念は、私も含めた自虐論でもあります。

ましてや、「おいおいこのポカポカ陽気(2月)にどこが雪だよ」、というネットのコメントでも出そうな雰囲気で、なにやら怪しい雰囲気が漂います。

その大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』は1748年だった歌舞伎、浄瑠璃の演目ですが、個人的に1948年生を計算して、ちょうど200年という潮目で、なんとなく合点がいく(夢根拠)ことでもあったのです。

この話せば長い「2.26事件」は、これまで何度も書いているので、その過去記録をここで開示することにします。

昨日の「ロマノフ朝」と同様に、国家丸抱えの壮大なスケールの歴史話で、映画にもなっていますが、国家間の覇権争い、即ち「戦争」そのものであり、その本旨を理解することが難しく、また始まった動機も、よくわからないという点で、世界を困惑されるネタの一つです。

2.26事件にしても決起した「青年将校」たちは国家の為、と決起したものの、その最中に「逆賊謀反集団」として粛清され、全員処刑(生残り組は満州建国に派遣)されたのでした。(いまだにそれは事件解明に至っておらず、そうした中、昨年だったか2.26事件「極秘書類」(海軍)が発見され現在分析中になっている。)

そうした多くの資料を読み漁ってみると「青年将校」等は、トップ階級の軍上官に、嵌められた、という筋書きが見えるのですが、如何せん素人の浅学では限界があります。
ですから、これを説明するには紙本の上・下二巻にしないと説明できない膨大な量になるでしょう。
でありますから、ここでは、その一部分だけを掲載して゛時代読物゛と考えております。

その他の「桜田門外の変」や『仮名手本忠臣蔵』など時代劇の定番になっており日本人の好きな説話の重要なターニングポイントはやはり白い雪でした。

雪の日の決闘シーンはなぜ「迫真」になるのか(赤い血?)

忠臣蔵は、 人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつで、1748年に大阪で初演された『仮名手本忠臣蔵』の通称。また歌舞伎や演劇・映画の分野で、江戸時代元禄期に起きた赤穂事件を基にした創作作品。 なお、脚色された創作であるため、史実としての赤穂事件とは異なる部分もある。 桜田門変検証 (東京とっぷり)~

井伊直弼は、強権を発揮し、粛清を実施(安政の大獄)。尊王攘夷急進派の水戸藩士は藩を脱藩して、大老・井伊直弼の暗殺計画を練るのです。
徳川幕府の終焉の時代と、広く世の中が認識した幕末の大事件が『桜田門外の変』。江戸城西の丸入口、外桜田門で、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸藩からの脱藩者らが、時の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を殺害するという事件が起こります。その現場は、今も往時の名残をとどめていますので、現場検証には絶好!
事件からは早くも160年近い歳月が流れていますが、桜田門(外桜田門)は、江戸時代のままに残されています。

検証「松の廊下」刃傷事件 2021年12月10日 08:58
江戸時代元禄15年(1703)12月14日、ご存じ元禄赤穂事件。「赤穂浪士の吉良邸討ち入り」その日である。

二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した日本のクーデター未遂事件。


毎日新聞


「2・26事件」が現代社会に鳴らす警鐘とは
 栗原俊雄  毎日新聞 2023/2/26 05:00 1936(昭和11)年、“昭和維新”を目指す20~30代の陸軍青年将校たちが兵士約1500人を率いて首相官邸などを襲撃し、高橋是清蔵相や斎藤実内相らを殺害した「2・26事件」から26日で87年となる。「日本近現代史最大のクーデター未遂事件」はその後の日本にどんな影響を及ぼしたのか。そして現在へとつながる教訓とは何か。 毎日新聞

保阪正康さん「軍事主導確立したテロの恐怖」
 1930(昭和5)年の浜口雄幸首相狙撃事件以降、2・26事件が起きる36年までテロとクーデターの未遂、既遂が10件以上あった。その最終的な出来事が2・26事件だった。つまり暴力の総仕上げだった。
 この事件で日本の軍事主導体制が確立した。青年将校があれだけのことをやったら当然、軍の指導者は責任を取り、軍の大掃除をすべきだった。だがそういうことを一切せず、それどころか新たな権力構造を作っていった。冒頭引用記事


昭和天皇実録 その表と裏  二・二六事件・日中戦争の時代
著者 保阪 正康 毎日新聞 エコノミスト
宮内庁が公開した『昭和天皇実録』を丹念に読み抜き、昭和という時代、昭和天皇という存在をさらに深く記録する、昭和史研究者としての著者が満を持した試みの第3巻。
今回は二・二六事件と日中戦争の時代を扱う。日本社会がテロとファシズムに覆われ、軍部の台頭に誰も抗えなくなり、日本が中国に進出してゆく時期である。戦争が拡大してゆくこの時期、天皇がいかに生きたかを、『昭和天皇実録』を歴史を追って読み込みながら、その都度、著者の昭和史への識見により史実を拡充して語っていく。

その後太平洋戦争へと進展してゆく日中戦争の時代に、天皇と軍部との間ではすでに軋轢や齟齬が様々に表面化しており、それが西園寺公望ら側近や近衛文麿や政治家をも巻き込んで権力の内部で複雑な関係を形成していたいたことが明らかにされる。天皇は国際政治を冷静に見つめる視点を保持しており、戦争に批判的な立場をとりつつも、徐々に軍部の動向を追認せざるを得なくなっていく。天皇個人の時代経験を丹念に調べ上げ、書き込むなかから、天皇と天皇制が軍事に利用された時代を批判的に振り返ろうとする著者の意志が浮き上がってくる。
天皇と「戦争の時代」を、2016年の翼賛的状況のなかで再考する瞠目の論考も収録。

画像 文春オンライン 毎日

2.26事件 岡田啓介(内閣総理大臣) 明治1(1868).1.20. ~1952.10.17. 生 東京  海軍軍人,政治家。父は福井藩士。
二・二六事件時の首相。 1889年海軍兵学校,93年海軍大学校卒業。1924年大将となり,海軍軍事参議官,第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官を経て,27年田中義一内閣および 32年斎藤内閣の海軍大臣となった。

ここから先は

1,285字

¥ 300

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?