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日本の歴史はすべてここにある「古事記」高天原・高千穂

西・東のロジック分岐

西・東のロジック分岐 (2017-10-20 12:16:26 自著ブログ採録部分改定
画 nippon.com )

ギリシア哲学と中国道教(五行陰陽思想)の差異

いまどきこんな話しを題材にあげても誰も読まない~。数日前、出版物編集の動向で編集者の放った文言。

゛そんなもん誰も読みゃしね~よ゛というフレーズは、これも同様の趣旨にあてはまる。
今時ギリシア哲学書読んでどうすんねん、共産党マルクスレーニン主義崩壊で国も崩壊だ、昨今プロレタリアート独裁なんて、だれも信じやしないじゃん。

とまあ、いまのご時勢資本民主主義の昨今、富裕と極貧の極大差でこれもいずれ崩壊か? 

では何を信じたらいいのか。それを各々の思想体系に準じて探ってみよう。
「温故知新」とは言い尽くされた言葉だが、すべてのモチベーションはここにある。というか~ここにしかない、どうしてか。

人間は人間の枠からまったく逸脱できないからである。(2017年付著のため世相表現が合わないこともある筆者)

一昨日の「ウンブキ遺跡」記事の反響と、いまだ解明されていないというウンブキ人骨のDNAがもたらした、各界研究者の注目度は、尋常ではないように思われた。
また、個人的にそうした古代史を研究をしていた身として、やはり「ウンブキ」は寝耳に水、青天の霹靂であるし、昨今、歴史話題に関心のない社会風聞説に一石を投じたようだ。
といっても興味の無いものにとっては猫に小判、馬の耳にネンブツ(念仏と云っても知らない世代多数)同然で、いくらボリームをマックスにしても効果はない。

だから、゛そんなもん誰も読みゃしね~よ゛という敏腕編集者の助言は一里も二里もある。(実際そんなフレーズ無駄口をたたき出す無頼編集者はすでに65年前に絶滅している)

で、その゛そんなもん読みゃしね~よ゛という「ウエストコース―ト」からみた真逆の「東」こち風でも吹かせてみようかと、一計を画策した。それが今どき『古事記』だった。

ある人に寄ればそれは暴挙であり、なにを血迷ったか、という批判反論は、云うに及ばずまた意にも介さずして唯我独尊でやってみようと思う。
そもそも題名からして難解だし、すべて漢文筆記(和文、漢文記紀の別)の訳本を頼りに進める訳で、特に古事記の場合は、漢字表記の意味付けではなく、当て字表記という変則になっていて、中には誤訳もあるだろうし、注意が必要と思われた。

「古事記」翻訳は、江戸時代「本居宣長」によって訳された。

古事記、本居宣長と解読

奈良時代の初めに古事記が誕生して今年は1300年ということです。文字がなかった時代から口伝えで伝承された帝紀・旧辞を天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記しており、それから数十年も経ってから元明天皇の命を受けた太安万侶(おおのやすまろ)が中国から伝来した漢字を使って筆録したものと言われております。
さらにはその後1000年以上が経過した江戸時代の中期になって本居宣長(もとおりのりなが)が約35年もの歳月をかけて古事記を解読し1798年に注釈書である古事記伝を完成させました。この本居宣長による半生をかけた解読の取り組みがなければ712年という古代に誕生した古事記は理解されないままに残ったであろうということです。
解読は翻訳に通じるところがあるわけではありますが、想像を超える困難さが伝わってきて感嘆の一言に尽きます。なお、古事記と本居宣長については、福永武彦氏の現代語訳、古事記(河出文庫)と 国武忠彦氏のご講演を参考にさせていただきました。 武田曉明ブログ 12日 7月 2012

現代語訳「古事記 」岩波書店 
『古事記』は、古代の神々の世界を描いた雄大な叙事詩であり、日本最古の文学書でもある.本書は、詩人国文学者,蓮田善明31歳の作品である.早熟の天才の筆には微塵のためらいもなく、自信にみちた堂々たる完成度に達している.詩人の情熱と国文学者の精確さを兼ね揃えた独自の格調高い現代語訳で、神話の世界を味わう.(解説=坂本勝)

今でも多くの読者に読み継がれている日本古典文学の名作を、戦後・現代の作家が、分り易く味わい深い文体で現代語にしたものを選んで、文庫化する.原文の読みづらさから敬遠されがちな日本古典を、現代の読者に現代の小説、随筆を読むように、味わい楽しんでもらう.
 天武天皇の発議を受け継いだ元明天皇の詔によって太安万侶が、和銅五年(712)に完成したとされる日本最古の書.人間味ゆたかな神々の世界から、日本国の成立していく生命力あふれる過程を伝える最も雄大な叙事詩であり、日本人の魂の故郷ともいうべき、神話、伝承,詩魂の精髄を伝える.その表現は、口誦と歌謡の韻文、詩文を踏まえた豊かな文芸性に富んだもので日本最古の文学書と言える.
 イザナギ(陽)とイザナミ(陰)の二神の結婚と日本国土の誕生、アマテラス(姉)とスサノオ(弟)の闘争と、天の岩戸による天地の開闢、ホオリ(山幸彦)とホデリ(海幸彦)の物語、スサノオの八岐の大蛇退治、オオクニヌシの因幡の白兎の物語、日本人なら誰でも一度は聞き、記憶に留めている古代の神々、英雄の葛藤、闘争、恋愛の劇的な起伏をもつ物語の世界.
 42歳で亡くなった国文学者・詩人蓮田31歳の作品である.早熟の天才の筆には微塵のためらいもなく、自信にみちた堂々たる完成度に達している.
 『古事記』の現代語訳、意訳は、これまでに鈴木三重吉、石川淳、福永武彦等多くの文学者が試み、それぞれの特色があるが、久保田淳氏によれば、それらの中で蓮田善明の訳は、詩人の情熱と国文学者の精確さを兼ね揃えた独自の格調高い、すぐれたものである.


『古事記』の物語 家庭画報

【日本人の教養】神社の絵図で辿る、『古事記』のあらすじ
日本の成り立ちや日本人の原点を知ることができる神話の宝庫、『古事記』。平藤喜久子先生に伺った名場面をおさらいしましょう。

『古事記』のあらすじ
日本最古の歴史書『古事記』。飛鳥時代、天武天皇が国の成り立ちを国内外に示すため編纂を命じました。知識が豊富で、さまざまな書物に通じていた稗田阿礼(ひえだのあれ)が語った「帝紀(天皇の系譜)」と「旧辞(神話や伝承)」を太安万侶(おおのやすまろ)が編集し、712年に完成。
「まず混沌とした世界が始まり、そこから神々が生まれます。天皇の祖先は最初に山の神様と繫がり、後に海の神様の娘と繫がりをもつようになっていく過程がわかります。山と海を治めた神々の系譜が天皇家へと結びついていく物語が伝えられています」と平藤喜久子さん。
古事記は『日本書紀』が正史とされたことから、次第に知られなくなりますが、江戸時代に入って、国学者の本居宣長が約35年かけて研究をした解説書『古事記伝』が発端となり、重要性が再認識されるようになります。
〔特集〕日本の絶景神社巡り 
01 日本の絶景神社巡り
02 大地真央さん「古事記」ゆかりの故郷の地を訪ねて1
03 大地真央さん「古事記」ゆかりの故郷の地を訪ねて2
04 「古事記」の神様の名前一覧
05 『古事記』の物語の名場面をおさらい
取材・文/小倉理加 ●特集内の表記、ふりがなは各神社、著者の指定に準じます。
『家庭画報』2023年1月号掲載。

古事記 712年(太安万侶著) 古事記の神話 記事
そこで、天の高天原の神々が、
イザナキ神とイザナミ神の男女二神に
「この漂っている国をつくり固めよ」と命じて、
天の沼矛(ぬほこ)を授けて、
国づくりをお任せになりました。
そこで、イザナキ神はイザナミ神に
問いかけました。
「イザナミよ。あなたの身体はどのようにできているのか」と。

イザナミ神は答えました。
「私の身体はよくできているけれど、
よくできあがっていない部分が一カ所あります。」と。

それを聞いたイサナキ神は答えました。
「私の身体はよくできているけれど、
一カ所だけ余っている部分があります。
私の余っている所と、
あなたのよくできあがっていない部分を刺し塞いで、
国土を生み出そうと思いますが、いかがですか?」と。

イザナミ神は答えました。
「はい。それはよいお考えです。」

そこでイザナキ神は、
「それでしたら、私とあなたで、
この天の御柱で廻り逢ってから、
寝所で交わりを行いましょう。
あなたは右からお廻りください。
私は左から廻ってあなたにお逢いしましょう。」
と、イサナミ神と国を生むお約束をなさいました。

約束し終わって、天の御柱を廻った時、
イザナミ神が先に言いました。
「まぁ、なんと愛しい男神よ。」と。
その後にイサナキ神が言いました。
「まぁ、なんと愛しい女神よ。」と。
言い終わった後に、
イザナキ神は
「女性が先に言うのは良くないだろう。」
と言いましたが、二人は婚姻を行いました。

こうして生まれた子は水蛭子*2だったので、
葦(あし)の船に乗せて流しました。
次に淡島(あわしま)を生みましたが、
これも子には数えません。

そこで、二神は相談しました。
「今私たちが生んだ子どもは良くありません。
やはり天の神々のところへ参上して申し上げましょう。」と。
すなわち、天の高天原に行って、
天の神々の言葉をうかがうことにしました。

天の神々は占いをして
「女性が先に言葉を話したのがよくないようだ。
また帰って先に言う方を改めなさい」と。
こうして、地のオノゴロ島に帰り降りて、
再びその天の御柱を前にと同じように廻りました。
今度は、イザナキ神が先に言いました。
「まぁ、なんと愛しい女神よ。」と。
言い終わった後に、イザナミ神が言いました。
「まぁ、なんと愛しい男神よ。」と。
以下割愛


「高天の原とアマテラス」古事記を語る講演会 第1回 御所市
2013年12月8日(土)13時30分~15時00分
古事記は3つの巻からなり、上巻が神話、中巻は神武天皇から応神天皇まで続く。
この中巻の間の2代目天皇である綏靖天皇から開化天皇までを欠史八代と言うが、その中に御所市に宮をおいた天皇が何人かいると『古事記』には書かれている。
例えば綏靖天皇の葛城の高岡宮については御所市森脇に石碑があり、孝昭天皇については、葛城の掖上宮伝承が、孝安天皇に関しては葛城の室の秋津嶋宮(宮山古墳周辺)伝承がある。
また、宮山古墳に近い秋津遺跡で、神を祀る場所であったと推察される遺跡も発見されている。しかし、御所市に高天の原があったという説は、とることができない。もちろん、御所市には「高天」とつく高天彦神社があるが、この「高天」は金剛山に由来するが、高天の原のことではない。

高天の原の神として『古事記』の冒頭に記されるのは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)である。

天の香具山は、飛鳥王朝における天を結ぶ神として位置づけられ、天から降ってきた山という物語が作られた。高天原は持統天皇(和風のおくりなは高天原広野姫天皇)が34回、吉野に行幸したことに関連させて考えることができる。
中国の『水経注』にある皇天原(高い山々の上に天上の神々を祀るという表現あり)から高天原という言葉が作られたと考えられる。
持統天皇の高天原というおくりなとともに、おくりな広野姫の広野という地名が吉野宮の南面するところにあることなどから、吉野の金峰山を高天の原と見立てたのではないかと考えられる。日本書記の本文には高天の原は一言も出てこない。
つまり高天の原は古事記独自の神話的な世界観で書かれたものではないだろうか。

次にアマテラスであるが、対馬の阿麻弖留神社(あまてるじんじゃ)は万葉仮名的な表記をしていて、その成立の古さを推定させる。

朝鮮半島の影響をうけた対馬あたりにアマテル信仰の原点があり、天を祀る神が西の方に伝わり、天武朝に伊勢に皇祖神としてのアマテラスを祀る神社が鎮座したのであろう。このアマテルの神を信仰したのが太陽を目印に航海する海洋民(天武天皇は海洋民族である尾張の海部氏に育てられた)である。天岩屋戸籠りの神話は、天武朝におけるアマテルの神のアマテラスとして皇祖神化する物語を投影したものであろう。

【講師プロフィール】千田 稔(せんだ・みのる)/奈良県立図書情報館館長
帝塚山大学特別客員教授、国際日本文化研究センター名誉教授、文学博士。
1942年奈良県生まれ。京都大学文学部史学科卒業、同大学院博士課程(地理学専攻)を経て、追手門学院大学助教授、奈良女子大学教授、国際日本文化研究センター教授を歴任。
監修の『古事記(別冊太陽 日本のこころ194)』(平凡社)は、奈良県主催の「平成24年度古事記出版大賞」を受賞。著作、監修多数。


「古事記」にまつわる雑文 
2023年12月10日より連載「古事記」の掲載がはじまります。歴史的書物として神代の物語ですから、長丁場が予想されます。また期間内の、慢性感発生も否定できないので、その時は無断で休載されることもあります。
これによって日本歴史10000年(縄文より)が解明されることを自身も期待するものです。

鏡【斎】(いつき)とは
古くは、神に関連のある名詞に付いて,「神聖な」「清浄な」の意を表す。 「 -垣」 「上つ瀬に-杙(くい)を打ち/古事記 下」
心身をきよめて神に仕えること。また,その人。特に斎宮・斎院。

上の鷦鷯(さざき)取らさね/日本書紀 仁徳」
※鷦鷯とは?。 ミソサザイの異名。「 鷦鷯」. 読み方:サザキ(sazaki). 燕雀目の鳥。 短編小説作品名辞典 ... ミソサザイ(鷦鷯、学名 Troglodytes troglodytes (Linnaeus, 1758) )は、スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属に分類される鳥類の1種。画|仁淀ブルー通信


心身を清浄にして無事安全を祈り神をまつること。
「 -の返り事の神賀(かみほき)の吉詞(よごと)奏したまはく/祝詞 出雲国造神賀詞」

神をまつる所。また,神をまつる人。 「是の皇女伊勢の大神の-に侍り/日本書紀 雄略訓」さい 【斎】


自画ストック画


汚れを清め,行為をつつしむこと。八戒の中心をなす戒で,正午を過ぎて食事をとらないこと。仏事の際の食事。とき。おとき。(画像玉前神社所蔵銅鏡「斎鏡」伝1500年鋳造神楽舞使用)

バーチャル.体系 "virtual hole"

魑魅魍魎(チミモウリョウ)
チミモウリョウとは、人に害を与える化け物の総称。また、私欲のために悪だくみをする者のたとえと称している。「魑魅」(ちみ)は山林の気から生じる山の化け物。「魍魎」(もうりょう)は山川の気から生じる水の化け物。

それを西洋式理論で展開すると~

ブラックホール(black hole)とは、極めて高密度かつ大質量で、強い重力のために物質だけでなく光さえ脱出することができない天体である。

大質量ブラックホール

"black hole"という呼び名が定着するまでは、崩壊した星を意味する"collapsar"[1](コラプサー)などと呼ばれていた。光すら脱け出せない縮退星に対して "black hole" という言葉が用いられた最も古い印刷物は、ジャーナリストのアン・ユーイング (Ann Ewing) が1964年1月18日の Science News-Letter の "'Black holes' in space" と題するアメリカ科学振興協会の会合を紹介する記事の中で用いたものである。一般には、アメリカの物理学者ジョン・ホイーラーが1967年に "black hole" という名称を初めて用いたとされるが、実際にはその年にニューヨークで行われた会議中で聴衆の一人が洩らした言葉をホイーラーが採用して広めたものであり、またホイーラー自身は "black hole" という言葉の考案者であると主張したことはない。

特徴

ブラックホールはその特性上、直接的な観測を行うことは困難である。しかし他の天体との相互作用を介して間接的な観測が行われている。X線源の精密な観測と質量推定によって、いくつかの天体はブラックホールであると考えられている。

事象の地平面

周囲は非常に強い重力によって時空が著しくゆがめられ、ある半径より内側では脱出速度が光速を超えてしまう。この半径をシュヴァルツシルト半径、この半径を持つ球面を事象の地平面(シュヴァルツシルト面)と呼ぶ。この中からは光であっても外に出てくることはできない。ブラックホールは単に元の星の構成物質がシュヴァルツシルト半径よりも小さく圧縮されてしまった状態の天体であり、事象の地平面の位置に何かがある訳ではなく、ブラックホールに向かって落下する物体は事象の地平面を超えて中へ落ちて行く。

ブラックホールから離れた位置の観測者から見ると、物体が事象の地平面に近づくにつれて、相対論的効果によって物体の時間の進み方が遅れるように見えるため、観測者からはブラックホールに落ちていく物体は最終的に事象の地平面の位置で永久に停止するように見える。同時に、物体から出た光は重力による赤方偏移を受けるため、物体は落ちていくにつれて次第に赤くなりやがて可視光領域を外れ見えなくなる。

特異点

「重力の特異点」

ブラックホールには密度、重力が無限大である重力の特異点があるとされる。角運動量を持たないシュヴァルツシルト・ブラックホールでは中心にあり、回転するカー・ブラックホールではリング状に存在する。

「降着円盤」および「活動銀河」

連星系を形成するブラックホールは降着円盤を形成する場合がある。円盤は膨大な熱とX線を放射する。多くのものは宇宙ジェットを伴うが、ジェットの生成メカニズムははっきりとは分かっていない。ブラックホールの観測において非常に重要である。

ブラックホールの理論的可能性については、18世紀後半に先駆的な着想があった。ピエール=シモン・ラプラスは、アイザック・ニュートンの提唱した光の粒子説とニュートン力学から、光も万有引力の影響を受けると考え、理論を極限まで推し進めて「十分に質量と密度の大きな天体があれば、その重力は光の速度でも抜け出せないほどになるに違いない」と推測した。また、イギリスのジョン・ミッチェルも同様の論文を発表した。しかしその後、光の波動説が優勢になり、この着想は忘れられた。

K・シュヴァルツシルト

現代的なブラックホール理論は、アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論が発表された直後の1915年に、理論の骨子であるアインシュタイン方程式をカール・シュヴァルツシルトが特殊解として導いたことから始まった。シュヴァルツシルト解は、時空が球対称で自転せず、さらに真空であるという最も単純な仮定で一般相対性理論の厳密解を導くことで得られた。アインシュタイン本人は一般相対論で特異点が有り得ることを渋々認めていたものの、それはあくまで数学的な話であって現実には有り得ないと考えていた。

1930年に、インド出身でイギリスに留学に来ていた当時19歳のスブラマニアン・チャンドラセカールが、白色矮星の質量には上限があることを理論的に導き出し、質量の大きな恒星は押しつぶされてブラックホールになると、ブラックホールの存在を初めて理論的に指摘したが、当時の科学界の重鎮アーサー・エディントンがまともに検討することもなく頭ごなしに否定した。

R・オッペンハイマー

1939年、ロバート・オッペンハイマーとその大学院生のハートランド・スナイダーが、アインシュタインが成功を収めることになった流儀を真似て一つの思考実験を行った。二人は、大質量の星が燃え尽き、突然自重で潰れる時に何が起きるのか自らに問いかけてみたのである。当時、太陽のような軽い星の場合は地球サイズで鉄の密度にまで収縮することが分かっており、より重い星はさらに収縮が進み直径10マイル(16km)程度のボールに収縮すると、フリッツ・ツビッキーとウォルター・バーデが仮説を立てていた。
オッペンハイマーらは、当時の物理学界を賑わせていた中性子星存在の議論の中で、恒星の崩壊後にできる中性子星の質量には上限があり、超新星爆発の後に生成される中性子の核の質量がその上限よりも重い場合、中性子星の段階に留まることなくさらに崩壊する重力崩壊現象を予言した。しかし彼は、ここまで研究を進めたところで原子爆弾開発を目的とするマンハッタン計画の責任者としてロスアラモス研究所の所長に任命され、ブラックホール研究からは遠のくことになった。

ほとんどの物理学者はこうした説明を何一つとして真剣に受け止めていなかったが、フレッド・ホイルは別だった。突飛な説明をすることにかけては一流のホイルは、太陽の何百万倍もの超星(スーパースター)は熱核反応ではなく重力によって電波銀河にパワーを供給していると提唱した。そして、超星ほどの巨大な物質の集まりを自重で崩壊させてみれば、その質量の90%までがエネルギーに変換され、クエーサーの燃料となり得ると指摘した(これはシュミットがクエーサーの正体を暴く前のことだった)。

J・ホイーラー

物理学者ジョン・ホイーラーは特異点と重力崩壊の問題を考え続けていた[17]。彼は計算の結果、物質とその本質をなす様々な属性(例えば、物質と反物質との違いというような、物理法則を支えている根本的な属性)は、特異点で単純に消えてしまうと確信した。1963年、ロイ・カーが軸の周りに一定の角速度で回転するブラックホールについての厳密解(カー解)を導いた。

ホイーラーが「最終状態の問題」とデリケートな言い回しで表現した問題を、ロジャー・ペンローズは強力な定理やエレガントな証明を用いて、まるで四次元における幾何学問題であるかのようにアプローチした[22][注 3]。一般相対性理論に対しては多くの科学者が、特異点というのは架空のものであり数学的な理想化の産物と考えており「星は回転で物質は跳ね飛ばされ、中心の周りで渦を巻き、一体になって特異点を形成するようなことはない」信じられていたのである。ところが1965年に、ペンローズが星の崩壊は特異点に収束することを証明した。物質とエネルギーが充分に集まっている所ならどこでも時空に終わりが来ることがあると証明したのである。シアマはこれを「一般相対論にとって最も重要な貢献」と呼んだ。

S・ホーキング

ホイーラーは数年の間「物理と宇宙の窮地」「重力の黙示録」とも言える天体を研究していたが、より劇的に表現する方法を探し続けており、1967年にニューヨークで開かれた会議において「ブラックホール」(black hole)という言葉を採用し、研究のPR面に役立てた[5]。後にホイーラーは「時に患者は、いくら医者が病気だと言っても病気に名前をつけてくれないうちは信じないことがあるんだ」と説明したといわれる[5]。

1960年代の終盤から、イギリスの理論物理学者らは活発に刺激を与え合い理論を生み出すようになり、ペンローズとシアマ・グループは、特異点、時空の構造、物質の末路に関する定理を数多く生み出していった[22]。例えば当時生み出された有名な定理を一つ挙げると、崩壊する物質もしくはブラックホールに落ち込むものは何であれ、特異点にぶつかって存在が潰滅してしまうか、ブラックホールが回転しているとすれば、中心のワームホールに命中して別の時空や宇宙にホワイトホールとして噴出すると結論を下している。

ホイーラーは、ブラックホールは飲み込む対象が何(青色巨星・星間塵・ニュートリノ・放射・反物質)であれ、それに関する情報を破壊して経過を隠してしまい、そこから出てくるものは同じものになるという撹乱能力を備えていることを示し、「ブラックホールには毛がない(ノーヘア)」と表現し(ブラックホール脱毛定理)、カーターも別な定理としてノーヘアを提唱した。この定理はブラックホール物理学に革命を起こした。ホーキングはこの定理のことを気にしており、こうした研究の多くをジョージ・エリスと共同で執筆し、1971年に出版されたLarge Scale Structure of space time『時空の大規模構造』にまとめている。これは後に古典の一つに数えられるようになった。

ホーキングが1974年にホーキング輻射の公式を考案すると、シアマはそれを高く評価し「自分の優秀な教え子の業績」として自らの講義で紹介したが[27]、後にこの公式から導かれるブラックホールの蒸発に伴う情報喪失のパラドックスは物理学界に激しい論争を呼んだ。

想像図

観測された諸事象を織り込み、ブラックホールとその伴星GRO J1655-40を描いた想像図。伴星GRO J1655-40は我々の銀河に存在するマイクロクエーサー。ブラックホールがガスを吸いとっており周囲には降着円盤が形成されている。青色のトーチのように描かれているのはブラックホールから光の90%のスピードで噴出するとされるジェットである。(HUBBLESITE、2002年)

ブラックホールの存在はあくまで理論的な存在に過ぎなかったが、1970年代に入りX線天文学が発展したことで転機を迎える。宇宙の激しい現象からはX線が放出されるが、X線は地球の大気に吸収されてしまうことから人工衛星で観測する必要があった。

アメリカのマサチューセッツ工科大学を中心とするグループがケニアから打ち上げたX線観測衛星“ウフル”は4年間、数々の天体を継続的に観測し、X線の発生源が中性子星や超新星の残骸、パルサーであることを突き止めるが、数々の天体の中でもはくちょう座X-1のX線データは不規則で激しく変化し、どのデータにも当てはまらず科学者の注目を集める。

その後の精密な観測と分析の結果、太陽の30倍の質量を持つX-1が自己重力によって潰れた星を周っている事が判明した。X線が極めて早く変化している事象により、見えない天体の大きさは大変小さいと推測されるものの、質量は太陽より遥かに大きいという事実を受け、“ウフル”打ち上げ担当者のリカルド・ジャコーニは一般相対性理論に基づき、その天体は“ブラックホールである”と述べている。このX線は晩年を迎えたX-1の膨張により星の表面が引力圏に達して吸い込まれることにより、ガスの温度が1000万℃以上にもなる降着円盤が発するX線波形だと結論づけられた。

その後の観測で、四つの天体がブラックホール候補に挙げられたが、中でも地球から最も近い銀河で16万光年の距離にある、大マゼラン雲内の二つの天体は、いずれも太陽の10倍程の質量に対し直径は50kmと極端に小さく、先のX-1と同様のX線を放出している事が確認された。他の銀河系にも同様の天体が複数発見されている。

1990年代、銀河中心部から放出される電波の観測や銀河系中心付近の恒星運動の長期に渡る追跡観測が行われた。VLAの観測では、銀河中心を取り囲む直径1200光年の暗黒星雲の内側に円筒状の激しい物質の流れがあり、その中には球状のガスの塊、さらに内部にはもう一つの暗黒星雲から中心に向けて3本のガスが流れ込んでいることが確認された。

カイパー空中天文台が実施した銀河中心核の観測では、太陽質量の300万倍にもなるガスが中心部分に向けて3方向から秒速200kmの速さで流れ込み、膨大なガスの一部は溢れ出て宇宙に放出されていることが判明した。観測の中心人物であるチャールズ・タウンズは銀河系中心がブラックホールである可能性は極めて高いと語っている。また、数多くの銀河の中心部に太陽質量の数百万倍から数十億倍という大質量のブラックホールが存在することが確認されている。

2011年9月5日、国立天文台とJAXAは、世界で初めてブラックホールの位置を特定することに成功した、と発表した。これは地球から約5440万光年彼方にあるおとめ座A(M87)銀河に潜む超巨大ブラックホールの位置を、電波観測により観測したもの。

2011年8月25日には、JAXAが国際宇宙ステーションの全天X線監視装置(MAXI)を使って地球から39億光年離れた銀河の中心にある巨大ブラックホールに星が吸い込まれる瞬間を世界で初めて観測したと発表した。

ヘルツシュプルング・ラッセル図(HR図)は縦軸に絶対等級、横軸に表面温度を表すスペクトル型をおいた恒星の分布図である。ブラックホールを形成できるほど重い恒星は、進化に伴って図の右下から左上に移動し、その後、右方向に向かって折れ曲がり、巨星に進化する

質量が太陽程度から太陽の数倍までの星の場合には、主系列星の後に赤色巨星の段階を経て、白色矮星となり次第に冷却して一生を終える。星が若い間は、水素の原子核が互いに結合してヘリウムが生まれる。この時のエネルギーによって星は自らの大きさを支えている。

質量が太陽の約8倍よりも重い星の場合は、巨星に進化した後も中心部で核融合によって次々に重い元素ができ、最終的に鉄からなる中心核が作られる。
鉄の原子核は結合エネルギーが最も大きいため、これ以上の核融合反応は起こらず、星の中心部は熱源を失って重力収縮する。

収縮が進むと鉄の原子核同士が重なり始め、陽子と電子が結合して中性子へ変化し、やがて星の中心部がほとんど中性子だけからなる核となる。この段階では核全体が中性子の縮退圧によって支えられるようになるため、重力収縮によって核に降り積もる物質は激しく跳ね返されて衝撃波が発生し一気に吹き飛ばされる。
これが超新星爆発で、爆発の後には中性子からなる核が中性子星として残されるが、中性子星が光やX線を激しく放出するパルサーとなることもある。

質量が太陽の約30倍以上ある星の場合には、自己重力が中性子の核の縮退圧を凌駕(重力の強さで中性子が潰れ始める)するため、超新星爆発の後も核が収縮(重力崩壊)を続ける。この段階になると星の収縮を押し留めるものは何も無いため永久に縮み続ける。こうしてシュバルツシルト面より小さく収縮した天体がブラックホールである。

大質量ブラックホール

「中間質量ブラックホール」および「超大質量ブラックホール」も参照

銀河系(天の川銀河)の中心部にある電波源複合体いて座A*には太陽の370万倍の質量を持った巨大なブラックホールが存在すると多くの天文学者によって考えられている。1995年にはNGC4258(M106)銀河の中心に太陽質量の3,600万倍のブラックホールがあると推定された。

しかし、このような大質量ブラックホールの起源についてはあまり良く分かっていない。
1970年代後半に考えられていたシナリオは、巨大なガス雲が一気に収縮してブラックホールを作るという説、高密度の星団の中心部分が重力熱力学的に進化してブラックホールとなるなどといった説であったが、いずれも理論的・観測的な困難があった。

しかも、通常の恒星進化の果てに生み出される恒星質量クラスのブラックホールと銀河中心に見られる大質量ブラックホールの中間的な質量を持つブラックホールが20世紀末まで全く発見されず、両者の間に関係があるかどうかも不明であった。

しかし1999年から2000年にかけて、日本の研究者グループによる電波やX線での観測から、M82銀河の内部に太陽質量の1,000倍程度のブラックホールがあるらしいことが初めて明らかになった。これを受けて牧野淳一郎は、以下のような大質量ブラックホールの形成シナリオを考えた。

銀河同士の近接遭遇や衝突などによって銀河内部で爆発的な星形成(スターバースト)が起こり、若くて密度の高い星団が大量に出来る。

星団中の重い星同士が合体してさらに大きな星となり、ますます合体しやすくなるという「合体不安定」という過程が進行する。

これらの重い星が超新星爆発を起こし、太陽の数十倍から100倍程度の質量を持つブラックホールが生まれる。

このブラックホールが合体することで103太陽質量程度の中間質量ブラックホールが生成される。

このような星団が銀河の中心に向かって沈む過程で星団自体が潮汐破壊され、残された中間質量ブラックホール同士が合体することで大質量ブラックホールが生成される。

さらに巨大な超大質量ブラックホールは、銀河同士の衝突により核である大質量ブラックホール同士が合体して生じるのではないかと考えられている[37]。2008年にはOJ 287というクエーサーが太陽質量の180億倍と1億倍という、極めて質量の大きなブラックホール同士の連星系であることが判明した。

2005年にはチャンドラX線観測衛星によってM74銀河にも約10,000太陽質量という中間質量ブラックホールが発見されており、今後観測データが蓄積されることでこの仮説の妥当性が検証されていくものと考えられている。

蒸発

古典物理学においては、ブラックホールはただひたすら周囲の物体を呑み込み質量が増大していくだけである。しかし、一般相対性理論に量子論を加えた理論を開拓したことで知られるスティーヴン・ホーキングは1974年、ブラックホールから物質が逃げ出して最終的にブラックホールが蒸発する可能性を指摘した。その理論は以下の通りである。

量子力学ではエネルギーと時間は不確定性関係にあり、時空の微小な領域で粒子と反粒子の対生成・対消滅が絶えず起こっているとされる。ブラックホールの地平面の近傍でこのような仮想粒子対が生成すると、それらが対消滅する前に片方の反粒子がブラックホールの地平面内に落ち込み、もう一方の粒子が遠方へ逃げ去ることがある。
地平面内に落ち込んだ反粒子は負のエネルギーであるため、ブラックホールのエネルギーは減衰する。この現象が繰り返されることによって、粒子がブラックホールから次々に地平面を通り抜けて飛び出してくるように見え、ブラックホールは徐々にエネルギーを失っていくように見える。

この粒子の放出はブラックホールの地平面上で確率的に起こるため、巨視的にはブラックホールがある温度の熱放射で光っているように見える。これをホーキング輻射(またはホーキング放射)と呼ぶ。
この輻射によってエネルギーを失うと(エネルギーは質量と等価なので)ブラックホールの質量は減少する。ホーキング輻射の温度はブラックホールの質量に反比例し、以下の公式で表すことが出来る。

{\displaystyle T={\frac {\ hc^{3}}{16\pi ^{2}GMk}}} T = \frac{\ hc^3}{16\pi^2 GMk}

通常の恒星質量程度のブラックホールではこの効果は無視できるほど小さく(M=5太陽質量の時、T=10-8K)、仮に地球質量程度のブラックホールがあってもTは1Kに満たない。
しかし、陽子質量程度の微小なブラックホールではこの量子効果は無視出来ない。ホーキング輻射で質量が減るとさらにこの効果が強く働いて輻射の強度が増え、加速度的に質量とエネルギーを失い、最後には爆発的にエネルギーを放出して消滅する。消滅直前のブラックホールでは、T=1032Kにも達する。

これがブラックホールの蒸発である。「この蒸発の最後のプロセスがガンマ線バーストとして観測される」とする説もある。通常の赤色巨星からできたブラックホールが完全に蒸発するまでには1068年ほどかかると考えられている。

1976年に、ホーキングはブラックホールに吸い込まれた情報はホーキング輻射に反映されず、ブラックホールの蒸発によって完全に失われてしまうという説を発表した。質量Mのブラックホールに質量mの物体が吸い込まれた後、ホーキング輻射によってブラックホールが質量を失って再び質量Mに戻るという過程を考える。ここで、ホーキング輻射は完全な熱放射であるため、その輻射は各時点でのブラックホールの質量から決まる温度以外に全く特徴がない。

よって、最初に吸い込まれた質量mの物体がトマトであってもオレンジであっても、最終状態は「質量Mのブラックホール+質量m分の光子」という全く同じ状態になる。

しかしこれでは初期状態が異なっているにもかかわらず同じ最終状態に達することになり、量子力学の時間発展のユニタリ性と矛盾する。
このパラドックスは「ブラックホールの情報喪失問題」ブラックホール情報パラドックス」と呼ばれて長年議論されてきたが、1998年までにはひも理論やホログラフィック原理などの新たな理論を駆使することによって、ブラックホールに吸い込まれた情報は失われないことが説明できるようになった。2004年7月21日にはホーキングも「情報はブラックホールの蒸発に伴って何らかの形でホーキング輻射に反映され、外部に出てくる」と従来の自説を修正したことを発表した。

地球上での極小型ブラックホール生成

以下のように地球上で極小型ブラックホールが生成された、あるいは生成される可能性があるとする論があるが、2015年4月現在ブラックホール生成が確認された客観的な報告はない。

2008年運転開始の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)で、極小のビッグバン再現実験が予定されていたが、その過程で極小型ブラックホールが生成される可能性を懸念する声もあった。余剰次元理論に基づく計算によれば、LHCの衝突エネルギー(7TeV)で極小ブラックホールの生成が不可能ではないとされ、余剰次元理論の検証ができる可能性があると期待された。但し、これは理論中のパラメータが観測から許される限界ぎりぎりの値である場合の結果であり、より穏当なパラメータの場合は(たとえ理論が正しかったとしても)この程度のエネルギーではブラックホールの生成は起こらない。余剰次元モデルが正しくなければブラックホールは生成しないが、仮に生成した場合、ホーキング輻射によってブラックホールは直ちに蒸発すると考えられた。

CERNは「宇宙線の中にはLHCよりもエネルギーが格段に高い陽子が存在し、大気の分子と衝突して様々な粒子を生み出している。もし本当にLHCでブラックホールが生成できるなら宇宙線によってもミニブラックホールが大気圏内で生成されているはずだ。にもかかわらず、地球はブラックホールに呑み込まれていない」とコメントした。

詳細は「ブレーンワールド」、「超弦理論#宇宙論への応用」、および「Dブレーン#ブレーンワールド宇宙論」を参照

1999年にMario RabinowitzはAstrophysics and Space Science誌において、球電現象を原始ブラックホールを用いて説明する説を提示した。

2009年10月、大阪大学・中国・韓国で構成する国際共同研究チームが高出力レーザーを用いて、ブラックホールとされる天体の周辺で実際に観測されているデータとほぼ同じ光電離プラズマを実験室で発生させることに成功した。研究チームは「将来的にブラックホールそのものを生成できる可能性が高まった」としている。

この乱暴な態度が、その後40年間ブラックホールの研究が滞る結果を招く要因となる。また、このやりとりはチャンドラセカールのその後の人生にも暗い影を落とすことになった。

なお、カー解は、ブラックホール唯一性定理により、軸対称定常・真空かつ無限遠平坦という仮定のもとでのアインシュタイン方程式のただ一つの解であることが示されており、ブラックホール脱毛定理(無毛定理)の描像とあわせて、物理的に形成されるブラックホールの最終段階と考えられている。1973年に京都大学の冨松彰と佐藤文隆が発見したトミマツ・サトウ解はカー解を歪めたもので裸の特異点が存在する。

ペンローズ本人は幾何学を専門としており、デニス・シアマにその才能を一般相対性理論の領域で活かすべきだと誘われている。

なお、ホイーラーはダラス会議から1年と経たない段階で、スティーヴン・ホーキングと出会っている。ホーキングは後に、事実上ホイーラーの最良の教え子となり、ブラックホールの研究を最も確固たる形で受け継ぐことになった。ホーキングは飲み込みの良い学生で、ペンローズの手法を全て吸収し、逆向きの星の崩壊と考えることができる、開いた宇宙(永久に膨張し続ける宇宙)に手法を応用した

出典[ウイキペディア]

nippon.com 画

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