見出し画像

white-outに消えたオンナ~

「ヤタ、ガラス」という不明な飛光体「ねェ好きな子、いるの?」

何気ないその「ねェ好きな子、いるの?」がとても気になった。これがどこで使われていたのか、まったく忘れてしまったそのフレーズが脳で疼く。

それが広告か、ネットかテレビか、そしていつもの記事の中の一フレーズ、キャッチコピーかも判らない。それほど、ありきたりな語句だったが、これだけで一編の映画ができると思った。

もしできたら「Netflix」あたりに売り込むのもいいじゃん、今風だし。いまどきの、あり来たりの純愛恋愛小説でもないし、といって大都会ビル一角に棲むサラリーマン家庭の一人っ子少女(中1)「真那華」が読んでる人気キャラクター漫画ヒロインに投影した、その声優ハスキーVoiceとも違う、そのすこし外れた違和感を醸していたとか。(もしかして好きな子ってアレだったの?)

また、とんでもない地方田舎の風景の中の一軒家、冬になると一面の銀世界が広がる風景より隔絶した暖炉の部屋で、自家製パン窯で焼いたピザを食べ一時の幸福感に浸る。それとは大幅に違った「映画」プロットじゃなきゃいけないし。

そんなことを中一少女「真那華」に訊いたら、なんていうのか、幾通りの答えを用意してみた。

その一つが「白拍子」という鎌倉時代にいたシャーマンの巫女(また男)だった。

「もしかしてもしかして、そーなの、違うの、どうなの」???

そんなこと云いたそうな顔してた。だいたい「マナカッカ」が、喋ると何か予感がするんだ。

予感・・・

そう、よ、か、ん。空気が動く、でも風じゃない。空気、空気なんだ、気というか、目にみえない透明な粒子の気(け)、みたいな。

ほら、煙りだってアレ、粒子なんだ、それに雲とか水蒸気とか、みんな細かい粒なんだ。だからその「気」なのさ。

いつも「マナカッカ」のそばにピッタリ寄り添っている「フワリート」が、そういった。

「あしたはアメか」、南西の黒い雲空を見上げて、そう叫んだ。

こんなとき古代記などに登場する鳥がいた。それが黒い「カラス」だ。


八咫烏(やたがらす)は、日本神話に登場するカラス。導きの神とされる。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。一般的に三本足の姿で知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。

画像 熊野本宮大社の鳥居の横に掲げられた八咫烏 旗とレリーフ

画像1


八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。『古事記』では高木大神によって遣わされ、『日本書紀』では天照大神によって遣わされたと伝わる。『古事記』では兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟に神武天皇への帰順を求めるために遣わされるが、兄に鳴鏑(めいてき,なりかぶら) で追い返されたとされる。一方『日本書紀』では兄磯城・弟磯城兄弟にそれぞれ帰順を求め、兄には「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。」と言われ弓矢で追い返されてしまうが、弟はこれに恐れて「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」と言い、葉盤八枚に食べ物を盛って烏に献上した。それで烏は神武天皇のもとへ戻り、兄磯城に反抗の心がある旨を報告したと伝えているなど、両書の伝承に若干相違がある。

その後『日本書紀』においてはその功が労われ、頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主(かづののとのもりのあがたぬし)となり、劒根は葛城国造となっている。なお、八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される。また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているが、実際は神武天皇と同世代の関係から考えて、記紀に登場する八咫烏とは生玉兄日子命のこととされる。

熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが[7]、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。

三本足の意味
八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。三本足の意味が、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説もある。 しかしながら、『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったと思われる。 元々日本神話にあった「神の使いとしての鳥」の信仰と中国の「太陽の霊鳥」が融合した可能性がある。 ウィキペディア


黒い「カラス」・・・、白いカラスっている。みたことないけど。

・・・ ・・・

11/18.


***

白拍子.2

白拍子(しらびょうし)が歌舞関連の語であることは、知識が無くても予想できるかと思うが、筆者は舞については不案内なので自分が納得できるよう詳細に調べてみたのだが、実態はビデオでも見ない限り判り辛いものかと思う。
本項に関しては、白拍子とは云々と説明できるほど情報が多く見つけられなかったため、一息に読めるよう概要を述べ、白拍子に関する逸話などをなるべく多く紹介することにする。

白拍子は、平安時代末期頃に成立し、室町時代にかけて流行した歌舞の一つで、演ずる芸人も白拍子と呼ばれ、男装の遊女が今様などを即興で歌舞を演じるもの、と一般的に言われている。
通常、鼓が伴奏に用いられ、笛なども時として用いられたようだ。男巫(巫女の男版)が神楽として歌舞を演じていたのを女性が行ったのが始まりのようで、男女問わず舞われ、男性・僧侶・稚児(ちご)により舞われる場合もあったが、後には芸に秀でた傀儡女(くぐつめ)などの遊女の芸能となり、白拍子という職業として独立していったものと考えられている。
一説には、巫女舞が原点にあり、巫女が布教の行脚中、舞を披露するうち芸を主とする遊女へと転化し、そのうち巫の伝統を受け男装したとも言われている。この芸能の伝播の担い手として主に遊女が挙げられるので、遊女について少し触れる。

狭義の遊女(売春婦)は、俗には世界最古の職業とも言われ、諸外国に存在した神殿娼婦と同様、日本にも古くから存在し、巫女として神に仕え寺社などで歌踊を行っていた者が、後に諸国を漂泊することとなり、営利のために宿場・港など人が集まる場所で歌踊を行いつつ、枕席に仕える職業になったと考えられている。
「万葉集」では遊行女婦(うかれめ)の名で登場し、宴席に侍り貴族を祝す歌を詠むなど社会的地位の高い、教養のある女性もいたようだが、一方で、山間の旅宿などで宿を貸し旅人の相手をする類の遊女もいたようだ。

その後の奈良~平安時代には、水運の要所周辺に定住し生業を立てる遊女が出現し、特に大阪湾と淀川水系の水運で栄えた江口・神崎の遊女が有名になった。群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近付き、客を呼んでいた。

一方で諸国を漂泊し、宿駅で傀儡子(くぐつ・男)が人形劇を披露する傍ら「傀儡女(くぐつめ)」が売春で生計を立てる、傀儡と呼ばれる集団もいた。遊女・傀儡女は職業柄、全国にネットワークがあり、交通の要衝に本拠を置き芸能に携わったため、結果的に芸能の伝播・伝承の担い手として重要な役割を果たすこととなった。

彼女らは後に都市部・町に定住したが、院政時代頃から白拍子が流行し、また京都に遊女屋街ができたことで衰退していったとされる。

当初、白拍子は武士層の支持を受け、貴紳に愛される者も多く、広く愛好された全盛期には芸が本分であったが、衰退に伴い、次第に売春婦化していったと考えられている。貴族の屋敷に出入りする機会にも恵まれていたため、芸達者で見識の高い人が多かったといわれる。その後、遊女らは鎌倉時代に職業権を認められ、徒弟制度に基づく遊女組織を形成し、後の遊郭へと繋がってゆく。

さて話は本筋の白拍子に戻る。
その名の起源は、伴奏を伴わず平音域の素声(しらごえ)で歌舞を演じたことから素拍子(しらびょうし)と呼ばれたことに起因する説と、白い装束(水干・長袴)を着けて演じることに起因するという説の二つがある。

また素拍子と書く場合は、特に無伴奏での即興舞を指すという説もあるが、いずれにしても白拍子の特徴からその名が付けられたようだ。

白拍子の装束は、下げ髪に立烏帽子を被り、白小袖・紅の単・紅の長袴・白水干を着け、白鞘巻の刀を佩刀し、蝙蝠(扇)を持つという、男性の格好であり、源義経の愛妾・静御前の姿で知られている。
後には色物の衣装を着るようになったというが、単なる男装ではなく稚児の要素も含まれた、凛々しく美しい姿だったようだ。
男装で舞うことから「男舞」(おとこまい)とも呼ばれていた。何故、男装だったのか?巫の伝統を継承して男装したとも言われるが、当時、最先端の歌謡として流行していた今様(いまよう)を、男装の麗人が演じることは斬新であり、流行に敏感であった貴族・武士階級においてこの新奇の歌謡・衣装が人気を博し、宮廷にまで流行した。
白拍子と今様は密接であり、この二つの流れはほぼ平行であるため、今様の詳細に少し触れることにする。

今様とは、現在は雅楽の中の謡物(うたいもの)と呼ばれるジャンルに含まれており、平安時代中期頃に和讃(わさん)・神歌・催馬楽(さいばら)・朗詠などから生じたとされる新興歌謡で、特に宮廷で流行し、長い院政を行ったことでも有名な後白河法皇(1127~1192年)という支持者・理解者を得、最盛期を迎える。

後白河法皇は芸に秀で、自身も喉を痛めるほど熱狂的に今様を好み、乙前(おとまえ)という青墓(現・岐阜県大垣市、中世宿場町があった)出身の傀儡女を特に今様の師と仰ぎ、師弟の契りを結んで御所に住まわせ、彼女から歌の伝受を受けた。
乙前は当時70歳を超える老女であったが、今様の名手として名高く、宿場町・青墓は多くの今様の名手を生んでいる。
法皇は、傀儡女のみならず一般市民・端者(はしたもの)・雑仕(ぞうし)・傀儡子(くぐつ)、白拍子などの遊女など、あらゆる人々の側について習ったそうである。

法皇が行った、1174年の「承安今様合」の頃が今様隆盛の頂点といわれ、今様は「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)という書として編纂され集大成された。こうして後世に伝えられている訳だが、今様は即興だからこそ粋であったので、伝承が行われ始めて以来衰退の蔭りを見せ始め、それと供に白拍子という職業芸人も次第に表舞台から消えていったようだ。

元来、民衆芸能であった今様は、「現代風」と名付けられたとおり、時流に乗って京の都に伝えられ、宮廷で大流行を呼んだのだが、その興隆の様子は、現代にも名を残す二人の女流作家、清少納言と紫式部も書に残しているので、雑学として紹介してみることにする。

清少納言は、彼女の有名な随筆「枕草子」で風俗歌や神楽歌の次に「今様」を取り上げ、
「うたは、風俗。~神楽歌もおかし。今様歌は、長うてくせついたり」と書いている。長い歌で節回しにはクセがある、とのことだ。

紫式部は、「紫式部日記」で、若い貴族らが宿直で内裏に泊まり込みの時、遊びとして「読経あらそひ」(読経の声を競う)とともに「今様」が歌われていたと書き留めている。

現代風に言えば、巷で流行歌(ポップの類)が歌われているが、俗っぽいので学者肌の女性らは冷ややかに見ていた、という趣である。
女性にはうけなかったのかも知れない。しかし、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前など名君に庇護され、愛された者も多く、静御前・佛御前、妓王、妓女・亀菊・千寿などの名が現在まで有名である。これらの名を残した白拍子について触れることにする。

まず一番有名な「静御前(しずかごぜん)」であるが、史実として名が登場するのは「吾妻鏡」のみで、生没年は不詳とされる。
香川県東かがわ市小磯の小さな漁村で、磯禅師の娘として生を受けるが、6歳で父を亡くし、母と京都へ上京した。母は舞の道を極め、禅師の称号を授けられるほどの名人で、静も幼少より舞を修め、京の地で、その巧みな舞と美しさで屈指の白拍子に成長した。
1182年、神泉苑で雨乞い神事を行った際、静が舞を披露した直後に大雨となり後白河法皇から日本一と賞賛され、一躍有名になった。源義経(幼名:牛若丸)に舞姿を見そめられ、側室となるが、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、兄・源頼朝に追われる身となり、静もそれに同行したが、女人禁制の吉野山に静は入れず、別れて京都へ戻る途上捕らえられた。鎌倉に呼ばれ尋問を受けるが応じず、義経の子を宿しており、1186年の懐妊6ヶ月の頃、奉納舞を懇請されて鶴岡八幡宮に召され、源頼朝の前で白拍子の舞を披露した。
 「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
 「しづやしづ賤のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」

敵である義経を恋い慕う歌を堂々と唄いながら舞い、鎌倉武士の度肝を抜いた逸話は有名である。頼朝の怒りに触れ、幽閉されて男児を生むが、赤子は生まれた日に頼朝により由比ヶ浜に棄てられ殺されてしまった。子を失った後の静は、禅尼となった母と共に、故郷に戻った説、自殺・客死など諸々の伝承が全国各地にある。

次に「平家物語」に登場する、平清盛(1118~1181年)の寵愛を受けた白拍子たちの逸話に触れる。

平清盛は「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどの平氏の全盛期を築いた人物で、絶大な権勢を誇り、出家後も平氏一門の総帥として強い発言権を持ち続けた。

彼が頂点に上り詰めた頃、都で評判の白拍子の姉妹がいた。妓王(ぎおう)と妓女(ぎじょ)である。滋賀県野洲市の生まれで、保元の乱で父を亡くした後、母・刀自(とじ)とともに上京し、その美貌と気品ある舞により姉・妓王は清盛の寵愛を一身に受け、西八条の屋敷を与えられ、親子は人も羨む暮らしをしていた。
妓王の願いで、妓王の故郷・野洲の村人のために水路(現・祇王井川)を掘らせたことなどからも清盛の寵愛ぶりが想像できる。3年後のある日、清盛に歌舞を披露したいという若い白拍子・仏御前(ほとけごぜん)が現れ、門前払いを受ける彼女を哀れんだ祇王のとりなしで、清盛の前で歌舞を披露することとなった。

時に仏は16歳、若く美しく、声も綺麗な上、歌も上手く舞姿は比類ない…ということで、あっさり寵愛が移ってしまった。祇王に遠慮して退出を願う仏を清盛は許さず、祇王に追放を言い渡したため、祇王は襖に歌を書き残して実家へ戻り、泣き伏したという。

 「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に逢はで果つべき」
翌年、清盛から仏御前を慰めるため歌舞を披露することを強要され、祇王は今までよりずっと低い場で、哀切に今様を披露する。
 「仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ」

あまりの屈辱に、生きてまた憂き目を見るならと、母・刀自、妹・祇女とともに剃髪して嵯峨野の山里の草庵で仏門に入った。時に祇王21歳、祇女19歳、母・刀自45歳であった。

同年、尼となった仏御前もこの寺を訪れ、一緒に念仏の日々を過ごしたという。仏御前17歳、祇王の運命を己自分に重ね世の無常を思い、清盛の下から抜け出し、皆で極楽往生を遂げたという。この説話は清盛の傍若無人な振舞いを批判して後に平家物語に付加されたとも言われている。

次に静御前と同期の白拍子・千寿(せんじゅ)の悲話について触れる。
千寿(千手)前は源平の乱世に、当代一の白拍子とも言われ、美女として名高く、平清盛の五男・重衡との悲恋が「平家物語」で語られている。

駿河国手越(現・静岡県静岡市)で長者の娘として生まれ、白拍子として成長し、源頼朝に仕えた12人の白拍子のうちでも一際美しかったらしい。捕虜となった平清盛の五男・重衡の世話を頼朝に命じられ、その死が目前とも知らず千寿は思慕を抱く。

二人は出会った日から恋に落ちたという。しかし重衡は奈良・木津川で斬首刑となり、千寿は死後もなお想い続け、21歳で尼となり、遠江国豊田郡(現・静岡県磐田市)で彼の菩提を弔うが、重衡を追うように23歳の若さでこの世を去った。「平家物語」では、亡き重衡を恋慕して憂死したと人々が噂したと記されている。
磐田市には千寿に因んだ地名が残っており、また「千寿白拍子」という地酒は地元に残されたこの逸話から命名されている。

最後に、後鳥羽上皇(1180~1239年)が寵愛した白拍子・亀菊(かめぎく)について触れる。上皇の愛妾・伊賀局(いがのつぼね)の名でも知られ、恐らく歴代の白拍子の中でも社会的に高い地位を得た方だと思われるが、上皇には愛人が多かったので、その生涯が幸福であったかは分からない。

亀菊は白拍子出身であるが、上皇の寵愛を特に受け、摂津国(現・大阪府)の長江荘・椋橋荘の荘園2ヶ所を分け与えられていた。しかし、荘園の地頭が彼女の領地を横領したため、上皇は亀菊の訴えを受け、地頭を罷免するよう強く申し入れたが、幕府の執権・北条義時はその申し入れを武力をも辞さない姿勢で拒否した。
このことが「承久の乱(1221年)」の一因になったと言われている。この逸話は、彼女の名と供に「吾妻鏡」「承久記」などに登場する。承久の乱の後、上皇は隠岐の島に配流となり、同地で亡くなるのだが、亀菊は最期まで上皇の側に仕えていたそうだ。

最後に白拍子の、その後に触れる。

徐々に猿楽などへ変容してゆくのだが、鎌倉時代末期頃、あるき白拍子と呼ばれる者により、全国に広められた。
後年の芸能に与えた影響も大きく、その命脈は歌舞伎に継承され、早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起源ともなった。能や延年にも取り入れられ、室町時代初期まで民間芸能として残っていた。
猿楽同様、白拍子を現在見ることはできないが、美しく昇華され、その面影は能など他の芸能に見ることが出来る。

華々しく流行し、都で注目を集めた白拍子たちは、上流階級の出身では無かったが故に一般庶民の共感を得、いずれも哀話が数多く伝えられ、全国に散在している。それだけ同情を集め、大衆に愛されたからだろうと思われる。若くして歴史の表舞台に登場し、あっけなく散ってゆく様は一輪の花の如くである。

和名に「白拍子」と名付けられた椿がある。白く、大輪で、八重の牡丹咲きの花を咲かせるその椿は江戸生まれだという。椿の品種は多く、花姿がしっとりと和の趣があるためか、和名が故事に由来するものも多い。名付けた人の想いも重なり、白拍子は、時を越えて現在も生き続けている。

(日本舞踊):日本事典

***

アイデンティ形成戦略 フロイトの晩年においては、精神分析はエス―自我―超自我の葛藤による心的構造論という心的理解によって神経症は治されるようになった。
この心的構造図式ではうつ病や精神病まで範囲に入り、それらの理解に寄与する事になった。またフロイト自身は晩年に文化や歴史や宗教に対しての心理的理解を深めるようになる。
こうして精神分析は人間の心や精神を理解する包括的な心理学として台頭し、様々な近接学問や人文学思想に影響を与える事になった。

概念 精神分析学 photograph 

自己同一性(じこどういつせい、アイデンティティ、英: identity)とは、心理学(発達心理学)や社会学において、「自分は何者なのか」という概念をさす。アイデンティティもしくは同一性とだけ言われる事もある。当初は「自我同一性」(じがどういつせい、英: ego Identity)と言われていたが、後に「自己同一性」とも言われるようになった。エリク・エリクソンによる言葉で、青年期の発達課題である。

心理学において
青年期において、自分は誰なのかを知ることを自我同一性を確立すると言う。 心理学辞典(1999)による定義は、 「『自分は何者か』『自分の目指す道は何か』『自分の人生の目的は何か』『自分の存在意義は何か』など、自己を社会のなかに位置づける問いかけに対して、肯定的かつ確信的に回答できること」 である。

エリクソンによる正確な定義は様々に存在しているが、アイデンティティ獲得の正反対の状態として、役割拡散や排除性が挙げられている。アイデンティティが正常に発達した場合に獲得される人間の根本的な性質としてエリクソンは「忠誠性」を挙げている。この忠誠性は様々な社会的価値やイデオロギーに自分の能力を捧げたりする事の出来る性質である。これが正常に獲得されないと、自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごしたり、逆に熱狂的なイデオロギーに傾いてしまうと考えられている。

自我同一性を獲得するために社会的な義務や責任を猶予されている準備期間を心理社会的モラトリアムと言うが、これはアイデンティティが確立するまでの猶予と言う意味を表しているに過ぎず、エリクソン自身は青年が様々に葛藤したりする戦いの時期として捉えていた。
この時期に青年はそれまでに獲得してきた様々な自己の部分を整理しなおす。その結果、青年には適切に選ばれた忠誠を誓えるような対象と自己の活動が残り、また否定的な部分は捨てられてアイデンティティとして確立する。

エリクソン自身の問題
この概念は、エリクソン自身が、その生涯を通して自らのアイデンティティーに悩んだことから、生み出されたとされている。ローレンス・J・フリードマン著『エリクソンの人生』によると、エリクソンはユダヤ系の母親の初婚の相手との間の子で金髪碧眼であり、再婚相手のドイツ人医師の風貌とは似ても似つかない容姿であった。そのためにインポテンツに悩んだという。自分は誰で、どこにその存在の根を持っているのかという疑問が、彼の自らの心の探求の原点になった。

同一性拡散の問題
自我同一性がうまく達成されないと、「自分が何者なのか、何をしたいのかわからない」という同一性拡散の危機に陥る。同一性拡散の表れとして、エリクソンは、対人的かかわりの失調(対人不安)、否定的同一性の選択(非行)、選択の回避と麻痺(アパシー)などをあげている。またこの時期は精神病や神経症が発症する頃として知られており、同一性拡散の結果として、これらの病理が表面に出てくる事もある。

自我同一性は青年期だけの問題ではなく、中年期や老年期において何度も繰り返して再構築されるものなので、上手く行けばアイデンティティは構築されたまま人は過ごす事が出来るが、上手く行かない人は人生において何度もこの同一性拡散を経験して、二次的に精神病理にまで落ち込んだり、人生の停滞を経験する事となる。

社会心理学において
一般的なレベルでは、自己心理学は、個人的自己がどのように社会環境に関係していくかという課題を探求する。これらの理論が"心理的"社会心理学の伝統に置かれている限り、精神的事象や状態に関してグループ内の個人の行動を説明することに焦点を当てられる。しかし、いくつかの"心理学的"社会心理学の理論においては、個々の認知レベルと集団行動の両方のレベルでアイデンティティの問題に対処しようと試みている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』精神分析学のシリーズ記事 



#みんなの文藝春秋
#文藝春秋
#三人の卓子  

#創作大賞2022  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?