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学歴その歴史は「科挙」に始まる

人間の価値は、学歴でほぼ決まる??

その歴史は驚くほど旧い。中国で隋(ずい)の文帝の587年ごろから清朝末期の1904年まで行われた高級国家公務員資格の認定試験制度。普通、文帝の次の煬帝(ようだい)の時代に始まるとされるのは誤り。科挙とは科目による選挙の意味で、選挙とは官吏登用法のこと、科目とは試験に数種の学科目があることをいう。[宮崎市定](ニッポニカ)

それが未だに人間尺度の一つの基準として、浸透しているのは、やはり知識リテラシーが大切であることを物語っている。

その学歴は選挙にも必要で、立候補者の一つのステータスになっているようだった。
その反作用かどうかわからないが、もてあます高学歴が邪魔をして、落選してしまった若き候補者(高学歴エリート女子の落選)の記事か目につくようになった。それはっまたく、この記事を書く意味もないほどに、学歴社会を否定するような、結果論だが、それにつては、もっと「人間心理学、臨床心理学」を分析必要があるだろう。
まここでは、そこまで深堀りはしないで、その「科挙」以来の学歴(知識リテラシー)のことについて考えてみた。

その筆頭が、暴挙的に政治世界に躍り出た「スーパ―クレージー君」というキャラクターを抜きに語れない。
今現在、その「当選無効」という決定に、議員ではなく、日大で勉学しているという。それなど、学歴に対して一念発起して、再度政治を目指す、という現れと思われた。

35歳で大学進学のスーパークレイジー君氏、学生証を公開…日本大学で政治学を学ぶ 2022年4月5日 20時5分スポーツ報知

 スーパークレイジー君氏(本名・西本誠、35)が5日、自身のインスタグラムを更新。8日に行われる日本大学の入学式を前に、学生証の画像を公開した。スーパークレイジー君氏は3月の投稿で高等学校卒業程度認定試験に合格したことと、大学進学することを報告。「政治学をメインに学びます。やる気と気合い根性はあるつもり。あとは、知識と経験を積むのみ。人生はまだこれからだ!」などとコメント。 部分抜粋

明治の政治と今の政治スタイルの差
では、政治また選挙における学歴リテラシーは、実際どの程度必須なのか検証してみた。

 ■そもそも日本社会は、特殊な近代化をへたためか、学歴に対する強い関心を維持しつづけてきた。総じて学歴・学校歴を特別な意味を有する経歴と見る「学(校)歴社会」は、近代化に遅れて着手した国々の特質と見なされるようだが(ロナルド・フィリップ・ドーア『学歴社会――新しい文明病』岩波現代選書、103頁以下)、日本では、近代化のかなりの成熟をへたにもかかわらず(これを可能にしたのは日本国憲法である)、いまだにその尾を引いている。 学(校)歴社会では、出身校(大学)が第一義的な基準とされて社会的地位や評価などが定まる。そのため、学校教育はおのずとゆがむ。高等学校は、それ以前に小中学校さえ、「名門」あるいは「比較的よい」大学に進むための通過点にすぎなくなり、各学校がもつ個性ではなく特定大学への進学率の高さを基準に選ばれる傾向が生まれる。学校は、一方に受験競争に(しばしば余儀なく)まい進する子どもを、他方に落ちこぼされて自尊感情をもてない(あるいは失った)子どもを、大量に生む。そしてその影響は、子どもたちにとって生涯つづく。こうした学(校)歴偏重社会の問題は、何十年にわたって論じられてきた。けれども、これが解消されたとはとうてい言えない。
「国連・子どもの権利委員会」は、以前から、日本における学校の競争的環境を変えるよう勧告を出してきたが、最新の勧告(2019年)でも、日本政府に対し、「ストレスの多い学校環境(過度に競争的なシステムを含む)から子どもを解放するための措置を強化すること」を、求めている。
 学(校)歴が偏重される社会では、学(校)歴は根づよい差別の道具となる。大学生の就職活動においても、それは深刻である。

かつての「指定校」制度はなくなったとはいえ、いまだに隠微な「学校歴フィルター」が、「2流」「3流」大学出というレッテルを張られた青年の大きな足かせとなっている

(福島直樹『学歴フィルター』小学館新書、32頁以下)。~~~

とあるように、民主的な政治をするには、事細かな個人の立場を勘案した政策を打ち出す必要がある昨今の政治のようだ。

知識また文は、時として歴史を動かすこともある。

桜田門外の変 井伊 直弼(いい なおすけ)は、幕末の譜代大名。近江彦根藩の第15代藩主。幕末期の江戸幕府にて大老を務め、開国派として日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した。また、強権をもって国内の反対勢力を粛清したが(安政の大獄)、それらの反動を受けて暗殺された(桜田門外の変)。

「桜田門外の変」
この政策は尊王攘夷派など反対勢力から強い反感を買った。安政6年(1860年)12月15日、直弼は若年寄の安藤信睦とともに江戸城において徳川慶篤に3日以内に戊午の密勅を返上するよう申し渡した。この催促は数度にわたって続けられ、遂に慶篤は父の斉昭と相談の上、勅を幕府に返納することにした。12月20日に水戸城で大評定が開かれ、勅諚の幕府への返納は已む無し、と決した。ところが水戸藩士民は勅書の返納を阻止、あるいは朝廷に直接返納すべきとし、尊攘激派は勅書の江戸降下を阻止しようと、小金宿、長岡宿といった水戸街道上の江戸への要路に駐屯して気勢を上げた。

安政7年(1860年)1月15日、直弼は安藤信睦を老中に昇進させ、この日に登城した慶篤に対して重ねて勅の返納を催促した。そして1月25日を期限として、もし遅延したら違勅の罪を斉昭に問い、水戸藩を改易するとまで述べたという。 これが水戸藩の藩士を憤激させるのに決定的となり、水戸を脱藩した高橋多一郎や関鉄之介らによって直弼襲撃の謀議が繰り返された。水戸藩脱藩浪士らの不穏な動きは幕府も察知はしており、2月28日にはかつて水戸藩邸に上使として赴いたことがある吉井藩主・松平信和が直弼を外桜田邸に訪ね、脱藩者による襲撃の虞があるため、大老を辞職して彦根に帰り、政情が落ち着いてから出仕すべきと勧めた。また辞職・帰国が嫌ならば従士を増やして万一に備えるように述べるも、直弼は受け入れなかった。

万延元年(1860年)3月3日5ツ半(午前9時)、直弼を乗せた駕籠は雪の中を、外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。供廻りの徒士、足軽、草履取りなど60余名の行列が桜田門外の杵築藩邸の門前を通り過ぎようとしていた時、関鉄之介を中心とする水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門の計18名による襲撃を受けた。最初に短銃で撃たれて重傷を負った直弼は駕籠から動けず、供回りの一部は狼狽して遁走し、駕籠を守ろうとした彦根藩士たちの多くは、折から降り始めた雪を避けるために鞘に取り付けていた柄袋に邪魔をされ、抜刀する間も無く刺客たちに切り伏せられた。刺客は駕籠に何度も刀を突き刺した後、瀕死の直弼を駕籠から引きずり出し、首を刎ねた。享年46(満44歳没)。この事件を「桜田門外の変」と呼ぶ。

この日、彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の駕籠を見送った後、机上に開封された書状を発見した。それには、水戸脱藩の浪士らが襲撃を企てている旨の警告が記されており、宇津木が護衛を増派しようとした時、凶報がもたらされた。直弼の首級は現場から有村次左衛門によって持ち去られたが、戦闘で重傷を負っていた有村は若年寄・遠藤胤統邸門前で自刃したため、首は遠藤家に引き取られた。事件後、井伊家はこれを供侍の首と称して取り戻し、胴と縫い合わせた。

事件直後から直弼の死を秘匿するための工作が行われた。同日中に直弼名義で幕府に提出された届書には「負傷したので、一先ず帰邸した」とある。将軍・家茂からは見舞いとして高麗人参、氷砂糖、鮮魚が届けられた。この間、幕府は彦根藩に対し水戸藩への報復など過激な行動に走らないよう何度も慰留している。3月晦日、直弼は大老職を正式に免じられ、閏3月晦日にその死を公表された。 ウキペディアウキ

「桜田門外の変」解説
この物語りは「柘榴坂の仇討ち」(浅田次郎著)で克明に再現されていたので、とても参考になった。まあ、映画だから監督脚本の色付けはあるとしても、時代的思想感はよく理解できた。

井伊直弼、暗殺については国家存亡の危機をはらんでいた時期でもあり、とても複雑な経緯と、それに関わった朝廷、徳川政権、その配下にある地方藩の思惑と、頻繁に取り交わされた「文書」の誤訳とか、フェイク文、怪文書が入り乱れて、現状を把握する困難さがあったと思われた。
今でいうインターネットのサイバー攻撃とまったく同じで、相手と身内と、外洋に待機する外国陣を攪乱するのに、あの手この手を使ったと思われた。

そのことは、第二次世界大戦を終結させたイギリス諜報部のエニグマ暗号機を解読アラン・チューリング、にも通じるアナログ諜報戦と思われた。


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