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“パンドラの箱”開くとき 帝国国家負の文化財返還

「パルテノン」の名称はギリシア語の(処女宮)から来ており、パルテノン神殿内にはその名称がつけられる由来となった特別な部屋が備えられていたという。

パンアテナイア祭(en)でアレフォロス(en)[3]が仕立てたペプロスをアテーナーに献上するため、4人の少女が服を選ぶ部屋だと述べた。
クリストファー・ペリングは、アテーナー・パルテノス(処女のアテーナー)(en)への信仰は個別的なアテーナー崇拝から起こり、密接に関連しながらも同一化することなく、やがて守り神としてのアテーナー信仰となったと主張した。「パルテノン」は「処女神の宮殿」と意味し、アテーナー・パルテノスへの信仰との関連性を持つことになる。
「乙女、少女」であると同時に「処女、未婚の女性」を意味し、特に野獣・狩り・植物の女神アルテミスを指して使われる「parthénos」(ギリシア語: παρθένος)が、戦略と戦術・手芸そして実践理性を司るアテーナーに冠せられている理由も不明瞭である。その一方で、宮殿の名称が「処女」を暗示する点については、都市の安全を祈願するために処女が最高の人身御供にされたことに関連すると指摘した意見もある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』参照

昨日、この古典ギリシア時代である世界遺産について、膨大字数で埋め尽くしたが、おそらく全文は読み切らなかったと思う。

なぜって、それを知ったところで、いまさら入試でもない限り、丸暗記する必然性もない。
ましてSNS的に、人々(スマホ世代14~22)では、すでに死んだ情報の復習など食傷しているし、その親世代は、やっと覚えたスマホ装置から映る不倫ニュースとか未成年女子の性交事件とか(我が娘と同じ悩み)、夢中にはならないが、ほどんど同類の二ユースしか出てこない、そのニュースのチャンネルを変えようと思うが、やたらといじると、その場所に二度と戻ることがない、という不安に、いきおい疑心暗鬼になる。さにら同じ過ちを何度やっても覚えないそのスマホは、「生活必需品」として手放せない。

そのギリシア神殿「パルテノン」は、世界観光名所として引く手あまたの地だが、それが、そもそもの「世界少子高齢化」特に日本においてなぜ深刻か、という問題提起としては、もっともふさわしい題材として、その鉱脈を探し当てた、というゆう理由を述べることにする。

当初のテーマとしては「タワマン」眺望は、坪あたりに換算すると、いくら程度になるかと、不動産屋の資料を集めて、単価計算してみだが、どの広告も誇大のような数字ばかり信用できないと思ったし、次から次へと入信する不動産広告に辟易して、半日で止めたという経緯がある。

なぜ「タワマン」かといったら、「住」目的より投資の場合がほとんど、ということも判ったので、もとより貧乏暮らしが筆者に、その投資金があるわけがない。

そんなことで端から「宅地建物取引業」には縁のない私が、その不動産に手を出した、には特別な訳があった。

それが古代都市「アクロポリス」建造コンセプトであり、石ばかりを積み上げた高層建築建造物にしなければならない理由とは何なのか、と思惟を巡らした。

それを仮想で荒唐無稽な話と前提しておいて、「なぜ人は高層ビルで上を目指すのか」という素朴な疑問がある。当然上に行くには「エレベーター」という装置が必要で、その「アクロポリス」時代では不可能なコンセプトだった。
にもかかわらず、それから3000年経過しても、尚、上を目指すというのは「バベルの塔」以外の、何らかの人間心理が潜んでいて、水の「毛細現象」のような物理的要素、宇宙的不変定理に呪縛されているのではないか、そんな印象を抱いた。

ここで再び古代ギリシア「民主主義」の原義をひも解くことにする。

語源「民主主義」を意味する英語、"democracy"(デモクラシー、
古希:δημοκρατία)は「国家」「国民・住民」を表す「デーモス」(古希:δῆμος)と「権力」を表す「クラトス」(古希:κράτος)の合成語で、「人々の力」の意味である。
英語で君主政治を意味する"monarchy"、おなじく寡頭政治を意味する"oligarchy"も2語による合成語であるが、その2語目は「アルケー」(古希:ἀρχή)からきており、「始まり」「最初に来るもの」、そこから転じて「最初の場所または力」「主権・統治権」をも意味する。
類似する語の「デマーキー」(英:demarchy、古希:δημαρχία)は、アテナイの民主主義者によって用いられるようになったと思われる場合があるが、この語はそれ以前から「統治者」「市長職」の意味で使用されており、都市国家において身分の高い公職につく人物を示していた。
現代では、英語の"demarchy"は「くじ」を意味する語として使用されている。 
ウイキペディア

その部分限定を読んでみれば、「統治者」「市長職」の意味で使用されており都市国家において身分の高い公職につく人物を示していた。

とあって、その民衆とは対峙した「統治権力者」に対しての呼称であるのが意外な結末に驚いてしまうが、かの成田悠輔氏は、そのことを早くから指摘していた。

としても《現代では英語の"demarchy"は「くじ」を意味する語として使用されている。》な意味として解説必要がある。

そこに至るまでには、古代帝国国家の戦争歴史にあらゆるエッセンスが秘められていた。

ローマ帝国の戦時として勃興

ローマが戦争する際には必ず、アラエ(Alae)と呼ばれる同盟国の軍隊(多くの場合、不足気味の騎兵の割合が多い)に参加させ、兵力を増強するとともに同盟の結束を再確認した。

加えて兵士の編成方法も変わり、今までの財産による区分けから年齢による区分けへと変更された。騎兵など富裕階級が務める部隊は別として、歩兵部隊の最低限の兵装は国からの支給となった。また兵役期間中に仕事から離れる事に対しての損失補填として、給与も支払われる事になった。しかしながら兵役は所有財産(具体的には農地)を持つローマ市民権を持つ「市民」の義務と考えられ、財産(農地)を持たない無産階級(プロレタリ)は兵役を免除されていた。

第2次ポエニ戦争以降、度重なるイタリア半島外への外征や属州の拡大により戦争が長期化し、それゆえ長期にわたって離農を強いられた兵士の貧窮化が進んだ(損失補填としての給与はあくまで最低限の生活費のため、とても足りなかった)。特に軍団の中核を担っていた中小自作農の没落によって、ローマ軍団への参加権のある市民の極端な減少が起こった。
さらにそれを解決するために募集制限を下げたことで低所得層が増加し、それまでに比べ軍団の質が著しく低下し、また徴兵された自作農は財産を失い無産階級へと転落する例も増えた。一方で、外征によって獲得した土地は実質的に貴族の物となり、大土地所有者が増加し、貧富の差の拡大を招いた。元老院の一部やグラックス兄弟は、これを農地法などの農民救済策で打開しようとしたが、大土地所有者が多かった元老院では反対が多く、問題解決には至らなかった。

この現状を打開するために紀元前2世紀になると平民出身で叩き上げの軍人であるガイウス・マリウスが軍制改革に着手した。マリウスはインペリウムを持つ司令官(執政官、法務官など)が指揮できる軍団の数の制限を撤廃、また従来の徴兵制を廃し志願制とした。従来は兵役義務の無かった無産階級が給与を目当てに多数志願する事になり、自作農は兵役から解放され農業に専念でき、双方を救済することができた。 なお、軍務はローマにおける政界での出世コースの第一歩でもある事から、軍制改革以前から貴族階級や騎士階級の志願兵自体は下士官クラス以上には多く見受けられ、これは改革以降も同様である。一方で共和政期の百人隊長の墓碑の中にも、無産市民を暗示する描写がされているものも見受けられる。

元老院は、軍団が持つ強大な軍事力、政治力は十分に認識していたため、イタリア本土に留まること、またルビコン川を越えてイタリアに進入することを完全に禁止する法律が制定されるほどであった。しかし軍制改革により、軍事的な才能には恵まれてはいるものの政治的能力に長けているとはいえなかったマリウスが、投票権を持つ市民でもある兵士から圧倒的支持を受け政治的に台頭するようになり、この軍団の私兵化はより政治的技能のある人物へと受け継がれていく。そして後のスッラ、ポンペイウス、カエサルのように配下の軍団を従えた有力者たちの権力闘争、そしてカエサル暗殺後のオクタウィアヌスとアントニウスの内乱へと発展していった。

部分解説 ウイキペディア

話しは前後するが、「パンドラのフタを開けてしまった」帝国植民地化の後始末の始まり、について


BS1スペシャル“パンドラの箱”が開くとき 文化財返還 ヨーロッパの最前線1月3日 22:00-23:00
今、ヨーロッパで、植民地時代にアフリカ等から奪った文化財をもとの国に返す動きが広がっている。フランスは返還のための法律を作り、ドイツは1100点もの美術品をナイジェリアに返還すると表明。
それまで返還を拒んできた各国が、今度は競うように返還を行うのはなぜか?

ブラック・ライヴズ・マター

フランスのマクロン大統領の声明、そしてブラック・ライブズ・マター運動

アフリカ系アメリカ人のコミュニティに端を発した、黒人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える、国際的な積極行動主義の運動の総称。特に白人警官による無抵抗な黒人への暴力や殺害、人種による犯罪者に対する不平等な取り扱いへの不満を訴えている。アリシア・ガーザ(英語版)、パトリッセ・カラーズ、オーパル・トメティ(英語版)によって呼び掛けられ、広められた。
返還の課題とは?アフリカ諸国の取材もまじえ最前線の動きを紹介。イギリスでは奴隷貿易の礎を築いたイギリス帝国主義も批判の的になり、国内各地で奴隷貿易・帝国主義・植民地支配に関与した人物の銅像が引き倒された。日本においても東京、大阪、名古屋などの主要都市でデモが行われた。
また日本にも根深い人種差別があると指摘する意見や報道もあり、NHKが2020年(令和2年)6月7日に放送した『これでわかった!世界のいま』の内容が「(黒人に対する)侮辱的で配慮に欠けるもの」と批判を受けた。

そうした、世界史的な西洋帝国主義の過去に犯した世界植民地化に対する略奪行為が、いま問われているという話しなのだ。
かつての先鞭者イギリスは、国立博物館という世にも稀に見る略奪文化財を展示(無料)するという既成事実を、なんの躊躇いもなく行っていた。
いってみれば、その略奪収蔵品(エジプト多数)をアフリカ等など母国に返して、からの博物館にする、というのがその目的らしい。

日本でも、それに近いことをしていた。その内容は、以前このnoteに書いたものがある。

その一部を開示 「偶像崇拝「龍馬」文物の争奪戦」
 https://note.com/29530503/n/nbcd6099e7c20

1931年に満州事変が勃発すると、日本の大陸浪人らに担ぎ上げられて四民維持会の会長に推され、奉天の祖先の陵墓で祭祀を行い、清朝復辟運動を行ったが、関東軍は「溥儀」(フギ)を担ぎ上げる方針に決定したため、溥偉(フイ)らの運動は中止させられた。 満州国においては役職に就かなかったが、溥儀の命で清朝の祖先の陵墓の祭祀などを行うことがあった。
中国史始まって以来、4000年以上続いた君主制に終止符を打ち中国を共和制に転換した辛亥革命は、1911年10月10日に武昌(現在の武漢)で勃発した。これを武昌起義という。

中国の革命家孫文は、中国を満州人王朝の大清帝国から解放して共和国を成立させようとしたが、清朝当局から弾圧されて日本に亡命した。孫文は、日本の国家主義者でアジア主義者の内田良平の援助を得て、1905年8月20日に東京で中国同盟会を結成した。中国同盟会は中国本土で現地組織を組織して、運動家を大清帝国で新たに編成された新軍の内部に浸透させた。
 
新軍の軍人は識字率が高く、中国同盟会の機関紙が広く購読された。1911年10月9日に決起をもくろむ武昌の運動家が誤って爆弾を破裂させて決起計画が清朝当局に露呈、10日朝に新軍将校3人が公開処刑された。追及が本格化すると感じた新軍は先手を打って10日夜に決起を開始、11日昼には武昌の街から清朝当局を駆逐して、18日には大清帝国軍の反撃を撃退した。

武昌起義は中国南部に波及して、18省が大清帝国からの独立を宣言した。アメリカで遊説中だった孫文は急いで帰国して、1912年1月1日に南京で臨時大総統に就任した。
2月12日に隆裕皇太后は、内閣総理大臣である袁世凱を大総統にする条件で宣統帝溥儀の退位を宣言、大清帝国と満州人の中国支配は終焉して、中華民国が成立した。しかし袁世凱は2月15日に北京で大総統に就任、孫文から辛亥革命の成果を横取りして独裁者になったのである。溥儀は退位した後も尊号を存続され、中華民国から年間四百万両を支給され、宮中に居住し続けてもよい「清室優待条件」によって、1924年まで紫禁城に住み続けたのである。
袁世凱は自分が皇帝になろうとして、1915年12月12日に中華帝国を建国して、北京で洪憲帝を名乗ったが、各地から反対運動にあって1916年3月23日に帝政を撤回、まもなく病死している。
※愛新覚羅溥儀と辛亥革命 川村清夫著 (バベル翻訳大学院アソシエイト・プロフェッサー) より

ラストエンペラー「溥儀」(溥偉)の秘宝世界散逸

流転した故宮博物館の宝物
美根 慶樹 研究主幹 2014.07.09 CANNONGLOBAL
 NHKスペシャルは「流転の至宝」を放映した。故宮所蔵の宝物のことである。これまで何回も拝観していたが、今回はこれまでとは少し異なる角度から興味を覚えた。中国人がその優れた文化財を大切にし、また、それが中国のイメージを改善する力を持つことを認識していたことである。

 話は1935年までさかのぼる。その年の11月から100日間、ロンドンで中国芸術国際展覧会が開かれ、故宮の文化財735点が披露された。
 
 その2年前、日本軍は満州から山海関を越え華北に侵入し、国民党政府は日本軍と共産党軍に挟まれていた。日本政府はいわゆる廣田三原則を掲げ、国民党政府に共産党軍を掃討するよう圧力を強め、軍部は「北シナ政権を絶対服従に導く」とますます強気になっていた。一方共産党軍は、抗日救国の8・1宣言を発し、いわゆる長征を敢行して長期戦に入った。この大変な状況のなかで大量の文化財をロンドンに運ぶ余力がどこにあったのか不思議なくらいであるが、ともかく英国の軍艦「サフォーク号」に展示物を運んでもらった。英国は中華民国が幣制改革を行ない銀本位制・通貨管理制を導入するのに協力しており、関係がよかったのである。

 中国芸術国際展覧会を訪れたイギリス人は42万人にものぼり、一種の中国ブームが沸き起こった。宋代の皇帝の衣装を模したファッションなどが流行したそうである。この展覧会は中国美術コレクターの呼びかけが始まりだったが、蒋介石は英国政府に両国主催の展覧会にすることを求め実現した経緯があった。ロンドン大学のアントニー・ベスト博士は、日本と戦う中国政府の「文化的プロパガンダ」戦略があったと分析している。

 一方、日本政府は、満州事変を調査したリットン卿が展覧会に関わっていることを知って危機感を募らせ、英国政府に問題だと申し入れたが、展覧会は予定通り開かれた。中国側の目論見は成果をあげ、日中戦争になった際には中国を支持する人が増えていたとベスト博士は見ている。

 故宮博物院が設立されたのは辛亥革命から13年後の1925年であった。清朝末期には文化財が外国に流出しており、国民党政府は成立当初から危機感を抱いていた。日本軍が山海関を越えると国民党政府はいち早く故宮の文物を5つに分け、約2万箱を上海など南部に運んだ。その準備は1931年の満州事変後すでに開始していたと言う。1937年、盧溝橋事件が勃発すると上海から南京に移していた文物を、さらに南路、中路、北路の3つのルートで奥地へ避難させた。南路で運ばれた80箱の文物は、ほとんどが中国芸術国際展覧会に出展した逸品であり、武漢を経由して長沙、貴陽、安順の各地を経て四川省巴県に運んだ。
 中路で運んだ9331箱は、漢口、宜昌、重慶、宜賓を経由し、最後に四川省の楽山安谷郷に安置した。北路経由の7287箱は、津浦鉄道に沿って徐州まで、さらに隴海鉄道で宝鶏まで運んだ後、漢中と成都を経て、四川省の峨眉に運んだ。北京に残されていた文物も、後に南京経由で重慶からさらに奥地に運び、四川省南渓に移した。
 1948年秋、内戦で国民党軍が劣勢に立つと、政府は文物を台湾へ移すことを決定し、同年末から3回に分け、約2千箱を移送した。量的には上海へ移したものの約2割であったと言う。これが台北の故宮博物院に展示された。

 故宮の文物が移送されるきっかけとなったのはいずれも中華民国の命運を左右する大事件であり、国民党政府は早め早めに手を打って移送したのであるが、保護し、輸送するのにかかった経費も人手も半端なものでなかったはずである。
 これを実行した指導者の見識の高さもさることながら、その決定を支持した中国人も偉かった。このような大作戦は少数の指導者が決定すればできることではないだろう。政治の逆風に抗して故宮の宝物を守ってきた中国人にはみずからの文化に対する愛着と誇り、それに自分たちで故宮の宝物を守らなければならないという強い思いが感じられる。中国の国家体制は歴史的に何回も変わってきたが、中国の文化、ほんとうに優れた文化伝統は不変である。また中国人は、中国の優れた宝物を外国人に見せることによって対中国イメージを改善し、味方につけることにも役立つと考えている。そういう意味では、中国人はいわゆるソフト・パワーの力を昔から知っていたように思われる。***


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