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岡田芳朗著の暦ものがたり

庶民の暮らしと治世の狭間で変化した日本の暦
岡田芳朗著 COMZINE  2008/1号

日本の暦の由来はどこにあるのですか?

中国から輸入されたものです。中国では約2500年前、既に太陰太陽暦が作られていました。『日本書紀』にも書かれていますが、百済からやって来た暦博士(当時の天文台のような機関の一役職)によって、6世紀にはかなり正確な暦の知識が日本に伝わっていたようです。

中国の暦の特徴は、その厳密さにあります。太陰太陽暦は大の月は奇数月、小の月は偶数月と大雑把に決めてもほぼ問題なく使えるのですが、中国では暦は天命を受けた統治者が民に配るものと位置づけられていますから、絶対に正確である必要がありました。実際の月の満ち欠けは毎月不規則で幅があるのですが、それを神経質に暦に反映させたため、年によって月の並び方が大小大小大小ではなく、大大小大小小だったり、大小小大大小だったり、つまり、年によって正月30日があったり正月が29日で終わったりする暦を、毎年細かい計算を行って作り直していたんです。

--日本人が自分たちの手で暦を作れるようになったのは、いつ頃からなのですか?

岡田

7世紀に入ってからですね。百済からやって来た観勒というお坊さんが、日本人に天文学や暦法を教えたのです。以降は日本人の暦博士が、その暦法を元に毎年計算して暦を作りました。当時は計算ができて暦の理屈が分かる人なら暦博士になれたようです。奈良時代の記録を読むと、算の博士が暦の博士になったと書かれています。

--天文学と数学の知識が必要だった暦は、当時最先端の自然科学だったんですね。

岡田

そうです。ところが平安時代になると、暦は大きく変わりました。陰陽師の安倍晴明で有名な安倍氏と加茂氏が暦を独占し、この両氏以外が暦を作ることはできなくなったのです。暦は陰陽道の影響を強く受けるようになり、吉凶を占う「暦註」の要素が大きくなりました。

当時の貴族は、事ある毎に良い日、悪い日を占っていたんです。日時を占うのはもちろん、方角までも占いで決めていました。例えば瀬戸内海で海賊が暴れていて、すぐにでも朝廷は征伐に行かなければならないのに、占いで良いという日まで行動しない(笑)。その日がやって来ても、占いでは西は方角が悪いと出ているから、いったん北へ移動してから西へ行く(笑)。これが、平安時代の貴族がやっていた「方違え(かたたがえ)」という風習です。この時代に、もともとは自然科学を土台にして生まれた暦が、占いや迷信と一緒になってしまったわけです。

--貴族ばかりでなく、農民もそうした暦註に縛られて生活していたのでしょうか?

岡田

農民が毎日の生活で目安にしていたのは暦ではなく「二十四節気」です。立春、夏至、秋分、冬至などがそうですね。これは一年365日を24の季節に等分したもので、実際は太陽暦と同じ考え方なんですが、庶民には行事と結びつかず、「立春」など漢字だけの表現がいささか難しい。そこで江戸時代以降は、例えば立春の前日にあたる日は節分、立春から数えて88日目が八十八夜で、あと3日で立夏になるというように、もっと分かりやすい目安を作って覚えていました。ちなみに小寒の日のことを「寒の入り」というように、二十四節気は現代でも部分的に使われていますね。

--昔の人は暦と二十四節気の両方を使っていたというわけですね。

岡田

そうです。昔の暦には必ず二十四節気が入っていました。しかも二十四節気毎に夜と昼の長さも書いてあるんです。つまり昔の人は正月や節句のような年中行事は暦の日付で、農作業や季節に関係のあることは二十四節気で判断していたんです。ダブルスタンダードですね。太陰太陽暦は毎年微妙にずれていますから、必ずその年の正確な暦が必要になる。一方、農民にとって種蒔きの時期が少しでも遅れたら大変なことになりますから二十四節気も必須です。極端に言えば、昔の人はこうした暦がないと生きていけなかったのです。

--今よりずっと重要な生活必需品だったわけですね。なんでも江戸時代には多種多様な暦があったとか。

岡田

実は江戸時代前期の1685(貞享2)年に、暦学史上の大きな変革が行われているんです。この年、長きにわたって使われてきた中国伝来の太陰太陽暦に代わって、渋川春海が編纂した大和暦(貞享暦)が朝廷に採用されました。これは日本人が自分たちの手で作った、初めての太陰太陽暦です。
以降、それまで地方によって微妙に違っていた暦の中身が統一される事になりました。ただし体裁は地方毎にまちまちで、京都は巻物、伊勢ではお経のような折本、江戸や大阪は紐で綴じた冊子本のような形が主流でした。また一枚ものの柱暦(略暦)も多く、そこには大の月と小の月の区別や、庚申様の日は何月何日か、弁天様にお祈りするとお金が儲かる日は何月何日かといった、大事な日付がまとめて書かれていたんです。

当時、一般庶民の間に暦がどのくらい普及していたと思います? 幕末、日本の人口が約3000万人だった頃に、なんと毎年450万部も売れていたんです。一世帯に一枚は必ずありました。

--昔の人は暦に書かれている内容を元に行動していたわけですね。それに対して我々現代人は、カレンダー上の曜日を基準に行動しています。全く違いますね。

岡田

意外に思われるかもしれませんが、実は曜日は平安時代の初めからあるんです。9世紀の初めに弘法大師空海が中国から持ち帰った密教の教典「宿曜経」の中に七曜(日月火水木金土)の事が書かれてあり、これが日本の暦の中に取り入れられ、ずれないようにずっと守られてきたんです。貴族たちが使う正式な暦には、曜日が正確に書き込まれていました。ただしこれは占いに使われるだけで、人々の生活の基準になるものではありませんでした。

--それもまた驚きですね。ところで、日本でそれほど人々の生活に浸透していた太陰太陽暦が、突如として太陽暦に変わってしまったというのは本当ですか?

岡田

ええ。それが1873(明治6)年に行われた明治の改暦です。明治政府はそれまでずっと使ってきた太陰太陽暦を廃し、太陽暦のグレゴリオ暦を正式な暦として採用しました。このやり方が非常に強引だったんです。政府が「来る旧暦明治5年12月3日を新暦明治6年1月1日とする」と発表したのは、11月9日。改暦までわずか23日しかありません。郵便や電信がそこそこ整いつつあった東京ならまだしも、地方にまでこの知らせを行き渡らせるのは到底無理でした。しかもいろいろな支払いが集中する年末がなくなってしまうわけで、経済的にも大混乱を来したと思われます。

--そこまでして、なぜその時期に改暦を断行したのでしょう?

岡田

理由はいくつかありました。第一は外交上の理由で、文明開化を掲げて外国と付き合っていくためには、諸外国と同じ太陽暦にする必要があったのです。古い暦を使っている未開国だと思われたら平等な条約を結んでもらえないと考えたからですね。第二は国政上の理由。国家予算を立てるにしても、12ヶ月の年もあれば13ヶ月の年(6月と7月の間に閏6月を挟む)もあるようでは、なかなかうまくいきません。

そこにもうひとつの大きな理由が重なりました。明治6年はちょうど閏6月がある年でしたから、政府は役人に月給を13ヶ月分払わなければなりません。財政が非常に厳しい時期だったので、何とかそれを避けたかった。そのためには多少強引でも太陽暦に変えるしかない、というわけです。しかも改暦すると12月はわずか2日しかなくなりますから、政府は12月分の月給も払わないことに決めました。月給を2ヶ月分も節約することができたのです。政府にとってこれ以上のタイミングはありませんでした。

--随分強引ですが、明治政府にとっては千載一遇のチャンスだったのですね(笑)。しかしこんな思い切った改暦を実行した人物はいったい誰なんですか?

岡田

当時参議として政府の財政を握っていた大隈重信です。岩倉具視や、木戸孝允、大久保利通といったその他の重要人物は遣外使節団として外国へ行っていましたからね。

それにしても政府の都合だけで行われた明治の改暦は、ご指摘のようにあまりにも強引でした。そもそも庶民は暦の種類なんて意識したことがありません。理由もよく分からないまま、今まで使っていた暦がいきなり使えなくなったのです。既に10月には翌年の暦が大量に売られていたのに、それも全部無駄になりました。あまりに混乱したので、後世にはほとんど資料が残っていないくらいです。資料を残す余裕もなかったのでしょう。

--それでも、太陽暦は日本人の生活に浸透しました。

岡田

さすがに政府も気を配ったのでしょう。1909(明治42)年まで、官製の暦には新暦と共に旧暦が載せてありました。昭和30年代まで、農村部では旧暦を使っているところが残っていましたよ。でも旧暦の季節行事も徐々に姿を消しました。今もちゃんと残っているのは月遅れのお盆(旧暦では7月15日中心)と月見くらいです。新暦に合わせて月遅れの形で残っていた旧暦の行事や風習も、今では金曜日は人が集まらないから土曜日にやろうといった、人間の都合に合わせて行われるようになってしまいました。残念なことです。

--一方で、ある種の懐古趣味なのでしょうか、最近は旧暦のカレンダーが売られていたりもします。

岡田

面白いですね。かつて近代化のための障がいになったのが旧暦なのに、旧暦が死に絶えてしまった今になると、何だか懐かしく思える。時間を刻むように行動するようになった現代の状況に、人々は辟易しているのかもしれません。もう少しのんびりやりたいと(笑)。現実社会を旧暦に戻すのは不可能ですが、個人で楽しむのは良いと思いますよ。二十四節気を意識し、旧暦のいろいろな行事を積極的に実践してみる。忘れかけていた季節感を取り戻せるだけでなく、きっと時間のゆとりも感じられるはずです。

岡田芳朗(おかだ・よしろう) 1930年、東京生まれ。53年、早稲田大学教育学部卒業、56年、同大学院文学研究科日本史学専攻修士課程修了。女子美術大学教授、文化女子大学教授を経て、現在、女子美術大学名誉教授。暦の会会長。著書に『旧暦読本―現代に生きる「こよみ」の知恵』(創元社)、『江戸の絵暦』(大修館書店)、『暦を知る事典』(東京堂出版)、『暦のからくり―過去から学ぶ人生の道しるべ』(はまの出版)、『暦ものがたり』(角川書店)、『現代こよみ読み解き事典』(柏書房)、『明治改暦』(大修館書店)など多数。

●取材後記 毎日見ているカレンダー、暦に、こんなにたくさんの秘密があるとは思わなかった。「何月何日まで」を常に意識させられ、時に憎々しげにカレンダーを見つめることもあるのだが、暦の奥深さを知った今、その見方も少し変わるかもしれない。
構成、文/飯塚りえ   撮影/海野惶世   イラスト/小湊好治

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柘榴坂(高輪台) 考証
坂名の起源は伝わっていない。柘榴の木があったためと言われる。江戸時代はカギ形に折れ曲がる坂であったが、明治時代に直進するように作り変えられ、石榴新坂とも呼ばれていた。
※高輪台古地図:明治13-19年(1880-86年)2万分の1迅速測図原図よりクランクした柘榴坂。

江戸時代には北側が薩摩藩島津家下屋敷、南側が久留米藩有馬家下屋敷と両側を広大な屋敷に挟まれていた。坂下南側には高山稲荷に通じる二百数段の石段が伸びていたが、同社は境内縮小により現在柘榴坂とは接していない。

柘榴坂を題材にした作品

『柘榴坂の仇討』 - 浅田次郎の短編小説。『中央公論』(中央公論新社)2002年2月号掲載。
井伊直弼が暗殺された桜田門外の変後の幕末から明治時代に移り変わるなか、井伊直弼に忠実を誓い失態をしでかした追う者の元彦根藩藩士と、追われる者である実行犯の水戸藩の脱藩浪士の復讐劇のフィクション作品。2014年に映画化されている。
原作では襲撃犯数名が自訴(自首)した藩邸を現場近くの細川熊本藩邸に四名と2キロ離れた汐留の脇坂淡路守邸に四名と言っていますが、桜田門外の変の起きた安政七年の切絵図を見ると脇坂邸、細川邸ともに大名小路(今の丸の内)にあります。安政二年(1855年)の安政江戸地震と大火の影響などで、幕末の屋敷換えも多く、一年違うだけで切絵図も大きく変わることがあります。6キロ以上離れた高輪の柘榴坂まで逃げていった佐橋のための伏線でしょうか?地理的にはとても厳しい設定です。

井伊家菩提寺「豪徳寺」世田谷
志村は毎月、井伊掃部頭の月命日に豪徳寺門前を訪れ、黙祷を捧げています。ロケ地は滋賀大津の三井寺。雰囲気がよく出ています。

豪徳寺 稲荷下 橋公園
品川 坂下南側には 高山稲荷 に通じる二百数段の石段が伸びていたが、同社は境内縮小により現在柘榴坂とは接していない。





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