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独裁的指導者の増加の中の民主主義

民主主義とは何か 著者 宇野重規 画像朝日新聞

現在の民主主義は、大きな危機に直面しているという。「ポピュリズムの台頭」「独裁的指導者の増加」「第四次産業革命とも呼ばれる技術革新」そして「コロナ危機」という4つの危機である。

しかしながら、過去においても民主主義は何度も危機に襲われ、これを乗り越えてきた。むしろ、つねに試練にさらされ、苦悶し、それでも死なずにきたというのが現実に近い。そうであれば、今回の危機についても、民主主義が自らを変容させ、進化させるきっかけともなりうる。

そのためにも、多様な民主主義のあり方を歴史的なアプローチによって解きほぐし、俯瞰的に現在の危機を相対化していくことが有効だろう。本書のねらいはそこにこそある。それによって、一人ひとりの読者がそれぞれに「民主主義を選び直す」ことが本書のゴールなのだ。

全体を貫くキーワードは「参加と責任のシステム」だ。人々が自分たちの社会の問題解決に「参加」すること。そしてそれを通じて、政治権力の「責任」を厳しく問い直すとともに自らの責任について自覚的であること。この2つを、民主主義に不可欠の要素とする。本書はこの前提に立って考察を進めていく。

本書の真価は、包括的で極めて明快な歴史記述にあるが、要約ではその一端を浮き彫りにするにとどまらざるをえなかった。ルソーやウェーバーの政治思想にも触れることができていない。本要約で少しでも本書に興味をもち、手に取る読者が増えることを願うばかりである。

レビュー 現在の民主主義は、大きな危機に直面しているという。「ポピュリズムの台頭」「独裁的指導者の増加」「第四次産業革命とも呼ばれる技術革新」そして「コロナ危機」という4つの危機である。

しかしながら、過去においても民主主義は何度も危機に襲われ、これを乗り越えてきた。むしろ、つねに試練にさらされ、苦悶し、それでも死なずにきたというのが現実に近い。そうであれば、今回の危機についても、民主主義が自らを変容させ、進化させるきっかけともなりうる。

そのためにも、多様な民主主義のあり方を歴史的なアプローチによって解きほぐし、俯瞰的に現在の危機を相対化していくことが有効だろう。本書のねらいはそこにこそある。それによって、一人ひとりの読者がそれぞれに「民主主義を選び直す」ことが本書のゴールなのだ。

全体を貫くキーワードは「参加と責任のシステム」だ。人々が自分たちの社会の問題解決に「参加」すること。そしてそれを通じて、政治権力の「責任」を厳しく問い直すとともに自らの責任について自覚的であること。この2つを、民主主義に不可欠の要素とする。本書はこの前提に立って考察を進めていく。

本書の真価は、包括的で極めて明快な歴史記述にあるが、要約ではその一端を浮き彫りにするにとどまらざるをえなかった。ルソーやウェーバーの政治思想にも触れることができていない。本要約で少しでも本書に興味をもち、手に取る読者が増えることを願うばかりである。

本書の要点

1 民主主義とは、2500年前の古代ギリシアの都市国家(ポリス)に起源をもつ「参加と責任のシステム」である。

要点

2 民主主義は西欧に引き継がれ、トクヴィルによってその進展は不可逆な摂理とされた。ミルによって民主主義は自由主義と結合し、代議制民主主義の礎が築かれた。

要点

3 民主主義の危機がいわれる現在、私たち一人ひとりが社会に参加することで市民としての当事者意識を育み、市民自ら可能な範囲で責任を分かちもつことが重要である。

要約 民主主義の4つの危機

ポピュリズムの台頭
現代は民主主義がさまざまな危機に直面している時代であるが、本書では4つの側面から考える。まず「ポピュリズムの台頭」であるが、それを強く印象づけたのは、2016年6月のブレグジットと同年11月のトランプ大統領の誕生である。その背景にあるのが、ポピュリストによって扇動された、経済的に没落した中間層の存在である。

格差の拡大する中で民主主義は維持可能なのか。格差によって国民の一体性の感覚が損なわれた先で起こる、世論の分断を乗り越えられるのか。ポピュリズムはこれらの問題を大きくクローズアップした。

erhui1979/gettyimages

かつて世界の国々は、遅かれ早かれいつかは民主化するという「常識」があった。ところが、こうした考え方は現在、大きく揺さぶられている。経済成長にとって自由民主主義は本当に不可欠なのか。「独裁的指導者の増加」は欧米的価値観の問い直しにつながる可能性を秘めている。

中国も以前は欧米的な民主化を目指すとしていたが、現在の習近平体制に移行して以降、中国独自の路線を強調するようになった。重要なのは秩序の維持と国民生活の安定・発展であり、それには共産党の独裁体制の方が望ましい。

このような「チャイナ・モデル」はいまや、他国にとっても魅力的なものになっている。民主的な政治過程にはどうしても時間がかかるので、独裁的指導者によるトップダウン式の方が変化の激しい時代に適合的であるというわけだ。

第四次産業革命の影響
「技術革新による影響」でもっとも注目されているのが、AI(人工知能)が人々の雇用を奪うのではないかという懸念である。

また、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは『ホモ・デウス』で次のような警告をしている。ビッグデータとアルゴリズムを保有する一部の有力者による「デジタル専制主義」が拡大する一方、その他の多くの人々は「無用階級」へと転落する、と。

いまや人々はアルゴリズムのメカニズムによって、自分が気に入る情報ばかりに接することで、特定の考え方ばかりが増幅される環境に置かれている。こうした環境の変化は、1人ひとりの人間を平等な判断主体とみなす民主主義の前提に揺さぶりをかけている。

コロナ危機
新型コロナウィルスによる感染症の拡大において、緊急事態を理由にロックダウン(都市封鎖)をはじめとした、個人の自由や権利を大きく制限する施策が遂行された。

民主的な合意形成にはどうしても時間がかかる。結果として、民主主義はこのような緊急事態に迅速かつ適切に対応できないのではないかという意見も聞かれるようになった。

また民主主義においては、人と人が顔を合わせ、直接対話を行うことはきわめて重要な要素である。感染拡大を防止するため、こうした条件が阻害されることはけっして望ましいことではない。

こうした現状の危機を乗り越えるために、本書では歴史を遡りながら考えていく。
以下割愛

(しいたに・ライター詳細)事業会社で長年にわたり理念経営に携わる。2018年1月より独立し、企業理念(Corporate Philosophy)を活用した組織開発のコンサルティングと、組織の創造性(creativity)を解き放つファシリテーションの分野で活動。東京大学文学部卒。「しいたにの日々ノート」を運営。https://siitani.exblog.jp/

著者 宇野重規(うの しげき)
1967年、東京都生まれ。東京大学法学部卒業。同大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。現在、東京大学社会科学研究所教授。専攻は政治思想史、政治哲学。主な著書に『政治哲学へ 現代フランスとの対話』(2004年渋沢・クローデル賞LVJ特別賞受賞)、『未来をはじめる 「人と一緒にいること」の政治学』(以上、東京大学出版会)、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社学術文庫、2007年サントリー学芸賞受賞)、『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)など。


二度目はコモンズの喜劇として:雑誌『WIRED』日本版VOL.42
2021.09.16 THU 08:00 

雑誌『WIRED』日本版VOL.42が9月16日に発売された。特集テーマは「NEW COMMONS コモンズと合意形成の未来」。地球規模のグローバルコモンズや人類の目の前に拡がるメタヴァースという新しいコモンズの可能性と、それを実装する合意形成のありうべき未来を探る総力特集だ。
その刊行に寄せて、編集長・松島倫明からのメッセージをお届けする。

二度目はコモンズの喜劇として
コモンズのことを考えるのに、波に揺らぐサーフボードの上はおあつらえ向きだ。この夏、緊急事態宣言下の地元鎌倉の材木座海岸には、解放区のような時間が流れていた。海水浴、日焼け、デート、ひとりで読書、家族でバーベキュー、犬の散歩、ランニング、ヨガ、SUP、そしてサーフィンまで、海の家もライフガードも不在のなか、誰もがこの海辺を(ソーシャルディスタンスを取って)自由に利用しながら、全体として調和を保っていた。

コモンズとは元来、海や森といった自然の資源をメンバーが共同で管理するやり方だ。実際のところ、牛に食ませる牧草地や海の漁場といった資源の共有は、乱獲によって度々失敗してきた。その歴史をまとめたのが生態学者ギャレット・ハーディンの有名な論文「コモンズの悲劇」(1968年)だ。こうしてコモンズは囲い込まれて私有地となり、資本主義へとその道を譲ったのだ。

コモンズが歴史の教科書の片隅に葬られようとしていたとき、“反撃”として書かれたのが、法学者キャロル・ローズによる「コモンズの喜劇」だった。86年のこの論文もまた、水辺の考察から始まっている。干潮時と満潮時の間の土地は伝統的に公共の財産だった。ローズは、コモンズへの参加者が増えるほどコモンズの価値も指数関数的に上がるような、オープンなコモンズを提示した。そこでは、経済的な価値だけでなく、レクリエーションによるウェルビーイングの向上も価値としてカウントされていた。彼女は、こうしたコモンズが社会のつながりを拡張していくだろうと書いたのだ。

ローズの予言は正しかった。その後普及し始めたインターネットは、まさに彼女のいう「規模の利益」によって経済資本も社会関係資本も拡がるコモンズの新たなフロンティアだった。電話回線を使ってインターネットへ接続した先には、新しい共有地への相互信頼と、開拓のツールを手にした高揚感があった。それが「ニューコモンズ」の始まりだとするならば、ぼくらはいまもそこにいる。そして、その領土が次々と囲い込まれるのを目にしている。ぼくたちはアプリやブラウザやスマートフォンの中に囲い込まれた“私有地”に日々アクセスしている。ワイルドウェストはあっという間にシリコンヴァレーになった。歴史は繰り返すのだ。

いま、世界中で再びコモンズの“反撃”が始まっているのは、決定的に重要なふたつの論点があるからだ。ひとつは資源の持続可能性だ。資源をシェアしながら枯渇させない方法は、地球というグローバルコモンズの視点から問われているし、脱成長の文脈でも語られている。社会の資源が物理的なモノから情報へと移行し、石油のように枯渇しないデータや再エネやアイデアを扱う時代に、どうすればこの共有資源をうまく管理できるだろうか?

もうひとつは合意形成だ。皆のものであるはずの資源をどう使うかを誰がどうやって決めるのかはコモンズの根幹であり、経済学者エリノア・オストロムは、それを市場に決めさせるのではなく人々の協調と合意形成によって決めることで実はコモンズがうまく運用されてきたのだとして、2009年に女性として初めてのノーベル経済学賞を受賞している。制度疲労が誰の目にも明らかな民主主義という合意形成システムをいかにアップデートするかは、デジタル時代の新しいコモンズを考えるうえで最も先鋭的な問いだ。
新しいテクノロジーを独占した西海岸のエリートリバタリアンや専制国家が社会のアーキテクチャを思いのままに変えていく未来から、ぼくたちはコモンズを取り戻さなければならない。

いま、日本では「DX」が主要アジェンダとなり、デジタル庁が発足したわけだけれど、1994年の日本版創刊号において「始動する日本のデジタル革命」を特集し、「霞ヶ関を『接続』せよ」と謳った『WIRED』として言わせてもらうならば、DXとは単なるデータ化やデータ活用のことではないし、ビジネストレンドでもない。そうではなく、デジタルへのトランスフォーメーション(転換)とは、デジタルの潤沢さを共有資源とする新しいコモンズを社会に立ち上げることなのだ。そこに参加するあらゆる人々に価値をもたらすコモンズをつくることなのだ。そのための新しい合意形成の在り方を模索することなのだ。だからDXの本懐とは、コモンズにある。

「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」とカール・マルクスはかつて書いている。物理的な世界をデジタル記述したミラーワールドやメタヴァースが広大な新しい領土として人類の目の前に拡がっている。そのフロンティアが再び囲い込まれるのか、あるいは人類の共有資源として活用されるのか、ぼくたちはいま、その岐路に立っている。コモンズの悲劇と喜劇は何度でも繰り返されるだろう。

憲法制定 自著ブログ


民主主義について語るなら コメント

その定義についてい専門家にしてもらったので、それに従うのは勿論ですが、ではわれわれ一般99パーセントの貧民層は、それでいいかといったら、昨日書いた「シングルマザー」家庭においては、特に金が足りない状態が慢性化して、毎日のニュースの中でも子連れ心中事件もあるわけで理由の別はともかく、それは甚だ特別であるわけではない。

それを学術定義ではなく平易に云ったらこんなことだと思います。社会の中の薄幸マイノリティー、顕著な二極化の仕分けで、マイナー生活者(シングルマザーや介護者、独身年金生活者、生活保護世帯者等)で、その基本ラインは毎月の生活費に困窮しているで、その反対側にいる表層富裕層の、下支えによってネットメディアを維持するという単純な構造です。
とくに日本の場合だと、失業率は低水準で推移し、例えばYouTubeで連呼しているインフルエンサーに呼応して、資本経済をバックアップしているのです。その動画では数名の著名人が、「云いたい放題リテラシー」ですから、彼らにしてみれば留飲逆流など杞憂することもないのです。

では日本はいつから民主主義かといったら、戦後のGHQ占領下においてでしょう。冒頭の定義より遅れて2000年後と云っても過言ではないでしょう。歴史的には『大政奉還』後と考えられますが、その国内政治大混乱の中で、「民が主」など官軍が推奨するはずもなく、また、260年維持した徳川政権下の「藩政」システムは、今でいう「地方自治法」の先取り系で、新政権は、そのことも熟慮して国の体制を立案したようです。もしそれがなかったら、「明治維新」は欧米帝国主義による主権剥奪によって、ずたずたにされたのは間違いなかったでしょう。

もっともギリシア民主主義と云っても、ヨーロッパ諸国においても、繰り返し頻繁に続いた戦争混乱、そこから派生した「傭兵」「奴隷売買」など、ネイティブ占領下(君主統治国)においては、民主主義はなく、その圧政に苦しんだ民衆による革命蜂起であり、世界の特権帝国主義皇族支配のほとんどは、「ラストエンペラー」が語るように政権瓦解し、民主主義が、金科玉条のごとく流布されると思っていたところ、社会主義、共産主義を掲げる国家も同時に発起し現代にいたるという時間推移です。(もっとも身近な例とし香港周庭氏亡命劇)

そのように民主主義と安易に括っても複雑な経路があって、一口でいう民主主義というのは無いに等しいでしょう。

それと、そこに「経済資本主義」を張り合わせると、とても判り易い文言になりますが、なんの事はない巨額蓄財(後進国家予算の数倍の利益)して、政権さえ左右するという、その王政復活のような政治スタイルは、ますます強固になるという現状には、貧民層99%にとって、対抗手段もないのです。(人々はスマホをいつ止められるか?)

その昔の政権打倒は、その筋書きを描く者が必須であり、それに賛同した一般民蜂起によって、成し得たという図式がありますが、この今の時代、あらゆる情報が、集権化(国家に限らずハッカーによっても収集される)時代では、誰が何を企んでいるかすぐ判ってしまう。それはいずれの意味においてもキケンです。

※こうしたアブナイ慣用句が並ぶとアルゴリズムに感知され制限されるのが今の言論界ですから、いずれまた時を伺って再掲載します。

2024/4/22 筆者





















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