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墳墓埋葬の謎 それは誰?

"仁徳天皇の墓"とされる『大山古墳』...しかし出土品や没年などから「仁徳天皇の墓ではない」と専門家の間で論争が 一体誰の墓なのか?
2022年2月21日(月) 15:00 毎日放送
世界遺産にも登録された大阪府堺市にある「大山古墳」は、『仁徳天皇陵』として仁徳天皇の墓だと学校でも教えられています。しかし、専門家の間では「仁徳天皇の墓ではないのではないか」と論争が起きています。では一体誰があの巨大な前方後円墳に眠っているのでしょうか。
“仁徳天皇の墓”とされる日本最大の前方後円墳『大山古墳』
去年11月、普段は立ち入り禁止の場所にカメラが入りました。日本最大の前方後円墳である大阪府堺市の「大山古墳(仁徳天皇陵)」です。

天皇の墓として管理する宮内庁が「古墳の保全工事に向けて堤の遺物を調べるため」として堺市と発掘調査を行ったのです。

その結果、前方後円墳を囲む堤の内側から今回、初めて「円筒埴輪列」が見つかりました。築造時は堤の両側に埴輪列が並ぶ壮大な姿であった可能性があり、埋葬されている人物の権力の大きさがうかがえます。
(宮内庁書陵部 徳田誠志陵墓調査官)

「今回は第1堤の一番幅の広い所にトレンチを設定して、内側の埴輪列があることを確認いたしました。荘厳化だとか、より装飾をするということは考えられます」

宮内庁によりますと、仁徳天皇が埋葬されたのは4世紀末ごろ。今から300年ほど前には仁徳天皇の墓とされ、今は宮内庁が『仁徳天皇陵』として管理しています。
仁徳天皇とは、今から1600年ほど前に実在したとされ、民家から炊飯の煙が立ち昇らないのを見て生活の厳しさに気づき、3年間税を免除したという伝説の天皇です。

『大山古墳』が仁徳天皇の墓ではない?研究者の間で論争
静かに眠る仁徳天皇の巨大な墓。しかし『仁徳天皇陵』が仁徳天皇の墓ではないのではないかという、思わぬ論争が巻き起こっています。
大山古墳の復元模型を展示する大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎名誉館長は、古い文献の記述などから「大山古墳は仁徳天皇の墓」だと主張する1人です。

(大阪府立近つ飛鳥博物館 白石太一郎名誉館長)
「宮内庁が仁徳天皇陵として祭祀を行い、管理を行っておられますが、おそらくそれは正しいのではないかと。古事記や日本書紀にも、仁徳天皇陵は和泉の国の百舌鳥にあって、『百舌鳥耳原中陵』と。百舌鳥古墳群には中陵・南陵・北陵などがあるのですけれども、その相対的な位置が大体分かるわけで。そういうものから考証して、これは仁徳天皇陵に間違いないだろうと」
8世紀に編纂された日本書紀などに「大山古墳が仁徳天皇の墓」と書かれているというのです。

一方でこれに異を唱える研究者がいます。大阪市立大学の岸本直文教授は「大山古墳は別の天皇の墓」だと主張します。
(大阪市立大学文学研究科 岸本直文教授)
「大山古墳は5世紀中ごろ(の完成)だろうと。年代的に見合うのは允恭天皇と考えていいだろうというのが私の考えです」
允恭天皇は、仁徳天皇の子で、5世紀中ごろに亡くなったとされています。
岸本教授によりますと、古墳から出土する土器や馬具の研究から、大山古墳が完成したのは5世紀中ごろであり、没年が一致するのは仁徳天皇ではなく允恭天皇だというのです。

(大阪市立大学文学研究科 岸本直文教授)
「仁徳天皇というのは、民が苦しんでいるから3年間税金を免除したという、徳のある王として描かれているんですね。そういう人物を一番大きい古墳に当てるとか、特別なものについては伝えられたものとは別に少し操作をしているということはあるのではないかと。(Q素晴らしい天皇だから一番大きい古墳に眠っているというストーリーのもと、当時日本書紀などで決められた可能性がある?)はい、その可能性はあると思っています」

大山古墳は誰の墓なのか。研究者によって見解が分かれる中、宮内庁は『仁徳天皇の墓』という考えを変えるつもりはありません。

(宮内庁書陵部 徳田誠志陵墓調査官)
「被葬者についていろんな学術的な見解・学説があるのは承知しております。それはそれぞれの学者の先生方のご見解ですので、学説は承知しておりますが、それで今すぐ宮内庁が治定をどうするという問題ではないと思っております」


ウイキペディア

過去には「継体天皇の墓」として管理していた古墳が“違う天皇の墓”だったケースも~
(※この衣装姿、どこかでみたような。そうなんです鎌倉時代白拍子女と同じです)

しかし実際に“天皇の墓が違った”とされるケースもあります。6世紀前半に実在した「継体天皇の墓」として宮内庁が管理する古墳です。

しかし1.5km東にある「今城塚古墳」では…。
(今城塚古代歴史館 内田真雄館長)
「6世紀の前半に築かれた古墳だということがわかっております。継体天皇の古墳だと考えるのが学術的な見方としては有力ですね」

今では『今城塚古墳=真の継体天皇の墓』であることが研究者の定説になっているのです。ここは宮内庁ではなく大阪府高槻市が管理して、公園として市民の憩いの場となっています。
厳しい管理下ではないため、大規模な発掘調査も可能で、出土した埴輪などの年代から継体天皇の墓なのはほぼ確実です。

(今城塚古代歴史館 内田真雄館長)
「宮内庁が管理されている陵墓は、今もお祀りの対象ということで、皇室財産という位置づけになりますので、その部分は発掘調査はなかなか一足飛びには行かないと思いますね」

現在は立ち入り禁止の『大山古墳』…かつては誰でも入ることができた?
一方、宮内庁の管理で立入禁止の大山古墳。発掘調査も保全工事に伴う周辺のものに過ぎず、全容解明はほど遠いのが現状です。
しかし堺市博物館の学芸員・白神典之さんは、江戸時代以前の大山古墳は誰でも気軽に入ることができたといいます。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「江戸時代の人が使っていたであろう物とかをしのぶことはできますのでご案内します」

大山古墳近くの住宅街。ここには古墳の濠から水路が作られ、江戸時代には住民たちが田畑に利用していたといいます。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「今はもうコンクリートで固まっていますけれども、雨が降った時は流れます。(Qこの水はどこから?)仁徳天皇陵。水が繋がっています。江戸時代も主要な水路の幹線ですね。ここから分かれて、この辺りの田畑に広く灌漑用水が供給される仕組みがあったということですね」

実際、江戸時代の絵図にも濠に門があり、そこから水が流れていたことがわかります。さらに大山古墳の中にも別の痕跡があります。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「江戸時代は3重目の濠は無かったんです。無かったというか埋まっていた状態ですね。田畑に使われていた。こういうフェンスも当然無い時代で、(ここは)天皇陵の範囲の中には入っていなかった」

今は立入禁止の古墳の中も、かつては民間の土地で、多くの人が中に入っていたというのです。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「戦国時代、その以前からおそらく地域の人たちが入って里山的な利用、濠についてはため池的な利用をしながら、古墳と共に生きていった暮らし。共生ですよね、まさに」

元々は地域に開かれていた大山古墳は一体誰の墓なのか、それは永遠の謎なのか。

(堺市博物館・学芸員 白神典之さん)
「被葬者が確定するということはないんだろうと思うんですけれども、(発掘調査が進めば)今考えられている以上に古墳が作られていた年代が絞られていき、正確になっていくということは期待できるかと思います」

この記事を読んでいかがでしたか? 2022年2月21日(月) 15:00 毎日放送

※記事日付が2022年と、旧いものですが、それ以降、新事実ないという証明と解釈して掲載したものです。
その論争に参加することではなく、「広告に埋没したの中の記事」がいかに読み辛いか、敢えて自著サイト広告なし、で引用した記事です。

昨今、本体記事が読み辛いというのは、その広告弊害があきらかですが、諸刃の剣という時代の流れに抗うことができません。


仁徳天皇 第16代天皇
『東錦昼夜競』より「仁徳天皇」(部分) 1886年(明治19年)楊洲周延 画
在位期間
仁徳天皇元年1月3日 - 同87年1月16日(日本書紀)
甲午年(394年?) - 丁卯年(427年?)(古事記)
時代 伝承の時代(古墳時代)
先代 応神天皇
次代 履中天皇
陵所 百舌鳥耳原中陵
漢風諡号 仁徳天皇
和風諡号 大鷦鷯天皇
諱 大鷦鷯
別称 難波天皇
聖帝
父親 応神天皇
母親 仲姫命(景行天皇皇曾孫)
皇后 葛城磐之媛
八田皇女(応神天皇皇女)
子女 履中天皇
住吉仲皇子
反正天皇
允恭天皇
大草香皇子
草香幡梭姫皇女(雄略天皇后)
皇居 難波高津宮
仁徳天皇(にんとくてんのう、旧字体: 仁德天皇、神功皇后摂政57年 - 427年?〈仁徳天皇87年1月16日〉)は、日本の第16代天皇。『日本書紀』での名は大鷦鷯天皇。4世紀末から5世紀前半に在位し、その業績から聖帝(ひじりのみかど)とも称される。

略歴
4世紀末から5世紀前半に実在したと見られる天皇。誉田天皇(応神天皇)の第四皇子。母は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の孫の仲姫命(なかつひめのみこと)。誉田天皇の崩御後、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と互いに皇位を譲り合ったが、太子の薨去により即位したという。『日本書紀』では皇位を譲るための自殺と伝えられる。この間の3年は空位である。

即位元年、難波高津宮に都を移す。即位2年、武内宿禰の孫娘の葛城磐之媛を皇后とした。即位4年、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除した。その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったという記紀の逸話(民のかまど)に見られるように仁徳天皇の治世は仁政として知られる。「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。租税再開後は大規模な灌漑工事を実施し、広大な田地を得た。これらの業績から聖帝(ひじりのみかど)と称され、その治世は聖の世と称えられている。

一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。即位30年には異母妹の八田皇女までも妃にしようとしたことから、激怒した皇后はついに山背の筒城岡に別居するに至った。
『日本書紀』では怒りを解かないまま皇后は即位35年に崩御、即位38年に天皇は八田皇女を皇后とした。一方で『古事記』では天皇が八田皇女を諦めたような描写がある。皇后との間には去来穂別尊(履中天皇)、 住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)らを得た。また日向髪長媛との間に大草香皇子、草香幡梭姫皇女(大泊瀬天皇(雄略天皇)皇后)を得た。即位67年に百舌鳥耳原を陵墓地と定め、即位87年に110歳で崩御。『古事記』に83歳。


大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと) - 『日本書紀』
大鷦鷯尊(おほさざきのみこと) - 『日本書紀』
聖帝(ひじりのみかど) - 『日本書紀』・『古事記』
大雀命(おほさざきのみこと) - 『古事記』
難波天皇 - 『万葉集』
漢風諡号である「仁徳天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。応神天皇40年1月8日、父・誉田天皇から兄・大山守命と共に「年長の子と年少の子はどちらがより愛おしいか?」と尋ねられた。
大山守命が年長だと答えたが、大鷦鷯尊は末弟の菟道稚郎子に跡を継がせたいという父の気持ちを見抜いていたので「年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。1月24日、菟道稚郎子は皇太子、大鷦鷯尊は太子の補佐役、大山守命は山川林野の管理人に任じられた。

翌年の応神天皇41年2月、誉田天皇が崩御すると大山守命は菟道稚郎子から皇位を奪おうと軍勢を整えた。大鷦鷯尊が菟道稚郎子にこれを知らせると、菟道稚郎子は大山守命を罠に嵌めて川に落として溺死させた。
しかし即位が決定したはずの菟道稚郎子は大鷦鷯尊に皇位を譲ろうとした。大鷦鷯尊はあくまで菟道稚郎子を即位させるつもりだったので皇位の譲り合いとなった。これが三年続き、貢物の届け先を巡って海人が右往左往する逸話が残っている。事態を重く見た菟道稚郎子は自ら死を選び(『古事記』では病死)、大鷦鷯尊が即位することとなった。



聖帝の治世

■漢風諡号(かんふうしごう)コトバンク https://kotobank.jp › word › 漢風諡号-1296491
【諡】より …生前の行跡に基づいて死後に贈られた名をいう。もとは中国独自の風習であったが,その影響で日本でも古代から行われた。正しくは謚と書くべきだというのが ...

読みたいお話まとめ  銀龍子
1,220 本
サイエンスや旅やグルメなど、お気に入りのクリエイターさんの記事を毎日読みたいなァと思い、始めてみました。よろしくおねがいします。

銀龍子さんより、1月9日に「読みたいお話まとめ」で記事が紹介いただきました。ありがとうございます。

本題、応神天皇 陵墓探しの索引で、古事記、日本書紀でも必読の天皇ですが、専門家推理も多様で、判然としない部分もあって興味半減ですが、そこにもってきて、広告山積で立錐余地もなければ読者にしても雲散霧消するでしょう。
そんな状態はテレビと同じで、スポンサーを見れば、毎日放送ですから、さもありなん。

おつかれさまでした。


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