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炭素14年代測定法で知る古代歴史

激変した歴史の新常識!鎌倉幕府は結局、1192年?、1185年?、どっちなの!

プレジデント 2020年3月20日号

最近の日本史の教科書を開くと、教わってきたことと随分違うことに気づく。知らぬ間に何があったのか。歴史家の河合敦氏に詳しく聞いた――。

【縄文時代】科学の発展で、年代に変化

早速ですが、皆さんは縄文時代が何年前から始まったと教わりましたか? 40代以上の方は1万年前と習った方が多いと思いますが、様々な研究の結果、現在の教科書では1万3000年前とされています。

奈良県桜井市の纒向遺跡。発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見された。奈良県桜井市の纒向遺跡。発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見された。(AFLO=写真)全ての画像を見る(5枚)

しかし、さらなる科学技術の発展が、歴史を塗り替える可能性があります。炭素14年代測定法を用いて青森県にある大平山元I遺跡の縄文土器を測定したところ、1万6500年前という驚きの数字が出ました。この測定法の結果が正しいとすると、縄文文化は、今の教科書より3500年も早い、日本が中国大陸と陸続きだったときから始まっていたことになります。

炭素14年代測定法とは、どのようなものなのでしょうか。生物は体の中に放射性炭素を含んでいます。ところが死ぬと、それが一定の割合で減っていきます。半減期は5730年です。つまり、どれだけ放射性炭素が減ったかを測ることで、経過年数が計算できるのです。

さらに縄文文化は狩猟採取、弥生文化は水稲農耕を基礎とすることになっていますが、近年の研究により、縄文時代晩期には確実に稲作(水稲耕作)が始まっていたというのが定説になっています。

さらに縄文時代前期の朝寝鼻貝塚(岡山県)からは稲が朽ちても残る結晶のようなプラントオパールが出土しており、すでに縄文前期における稲栽培の可能性を指摘する学者もいます。

【弥生時代】邪馬台国所在地論争に、終止符か

女王卑弥呼に率いられた邪馬台国がどこにあるかは、古代日本をめぐる一大ロマンでした。

その所在地については、京都大学の学者たちは畿内説を主張し、東京大学の学者たちは九州説をとなえて、論争にまで発展しました。しかし最近では、畿内説のほうが有力視されています。

奈良県桜井市にある纒向まきむく遺跡の発掘調査が進むにつれ、卑弥呼時代の大型建物の遺構や遺物が次々と発見されているからです。纒向遺跡は、箸墓はしはか古墳など初期(3世紀半ば以降)の巨大な前方後円墳がいくつも集中していることから、ヤマト政権(初の全国政権)の発祥の地といわれていた場所です。

ですから、この地におそらく大きな集落あるいは都市のようなものがあり、それが邪馬台国で、そのまま発展してヤマト政権になったのではないかと考えられています。

もちろん、九州説も完全に否定されたわけではなく、纒向遺跡を上回るような遺跡が発見されれば、形勢が逆転する可能性は十分残ってはいます。

また、邪馬台国は1つの国ではなく、同国を中心とする30の小国の連合体でした。卑弥呼は鬼道きどうをよく用いたとされており、その呪術的権威を背景に政治を行ったとみられています。なので、最近の教科書では卑弥呼が治めたのは「邪馬台国連合」と表記されるようになっています。

【飛鳥時代】聖徳太子は本当にいたのか


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新しい史料や歴史研究の進展によって、偉人としての評価が大きく変わっている人物もいます。

聖徳太子を描いたものと、ずっと伝わってきた絵。しかし聖徳太子が亡くなった100年近く後に描かれた可能性が高い。笏という板のようなものが、聖徳太子の時代ではまだ一般化されていなかった。聖徳太子を描いたものと、ずっと伝わってきた絵。しかし聖徳太子が亡くなった100年近く後に描かれた可能性が高い。笏という板のようなものが、聖徳太子の時代ではまだ一般化されていなかった。
(AFLO=写真)

その代表が聖徳太子です。聖徳太子は10人の言葉を同時に聞き分けるほど聡明で、叔母の推古天皇の摂政として政治をとり、天皇への忠誠と人々の和を説いて国内をまとめ、巨大国家・隋との対等外交を成功させた、古代日本のヒーローと教えられました。ところが、近年は、政治の中心人物ではないということになっているのです。

1999年、中部大学名誉教授の大山誠一氏が『〈聖徳太子〉の誕生』(吉川弘文館)の中で、推古朝に厩戸うまやとという名の皇子はいたが、彼は政治の中心になるような人ではなかった。聖徳太子は、後の権力者である藤原不比等などが編纂した『日本書紀』によって、創作された聖人である、などと明快に断じたのです。

『日本書紀』は『古事記』と並んで現存する最古の歴史書であり、聖徳太子の事績を最初に詳しく描いた根本史料です。ですから、あまりに“盛りすぎ”な場面を除いては、信用せざるをえなかったのです。

ところが最近では、いろいろな研究手法が発達するなどしたことで、新たな評価がなされるようになったのです。

この時期の研究でいえば、大量の木簡の出土です。当時は紙が貴重だったので、代わりに薄い短冊状の木片に文章を書くことが一般的でした。そして不要になると捨てましたが、近年では、大量に投棄された木簡がたびたび出土し、研究が進んでいるのです。中には『日本書紀』と矛盾する記述があり、国史の誇張や間違いがわかってきたのです。

また、聖徳太子の肖像画も、聖徳太子を描いたものということでずっと伝わってきましたが、これも研究してみると、聖徳太子が亡くなった100年近く後に描かれた可能性が高いことがわかりました。実は肖像画の人物が持っている笏しゃくという板のようなものが、聖徳太子の時代ではまだ一般化されていませんでした。

そんなわけで現在の高校日本史の教科書では、聖徳太子は推古天皇の協力者として描かれ、脇役のような扱いを受けています。ところが不思議なことに、人物学習を中心とする小学校の教科書では、いまだに政治の中心的人物として紹介されます。つまり小学校で聖徳太子を英雄と習った子どもたちは、高校では脇役と学ぶのです。

【奈良時代】日本最古の貨幣は和同開珎か富本銭か

発掘によって歴史が塗り替わる典型的な例が「日本最古の貨幣は何か」という問題です。長い間、最古の貨幣は和同開珎であるとされてきました。ちなみに開珎の読み方を「かいほう」と習った方もいるでしょうが、近年は「かいちん」が正しい読み方だとされます。60歳前後がその分かれ目です。

無文銀銭は左上、富本銭は中央と左下。それ以外には和同開珎と表記されている。無文銀銭は左上、富本銭は中央と左下。それ以外には和同開珎と表記されている。(AFLO=写真)

現在、日本最古の貨幣は「富本銭ふほんせん」とされています。99年に飛鳥池工房遺跡から、30点以上の富本銭が発掘され、その後も大量に発掘されたことで、これが天武天皇の時代に鋳造の始まった最古の貨幣であると結論づけられました。

しかし、それよりも前に貨幣を鋳造していたとする説もあります。それが「無文銀銭むもんぎんせん」です。ただ、三十数枚しか現存しておらず、果たして貨幣として機能していたかどうかについては、疑問視する学者も少なくありません。

【鎌倉時代】イイクニからイイハコになった?

最近のセンター試験では歴史の年号問題がまったく出ないといったら、読者の皆さんはどう思われるでしょうか。「えーっ、俺の苦労はなんだったの」と感じる方も多いかもしれません。現在の歴史教育は、なぜそういう出来事が起こったのか、その背景や理由を重視するからです。

その象徴的な例が1192年「いいくに」つくろう鎌倉幕府と記憶された方も多いでしょう。しかし、幕府の成立年としては1185年のほうが適切であるというのが有力です。ちなみにテレビでこれを「いいはこ」つくろう鎌倉幕府と語呂合わせで言ったのは、おそらく私が最初だと思います。

ただ、これにより成立の年が1192年から1185年に変わったと理解され、その話題だけが一人歩きして伝わってしまいました。

実際には、高校の教科書には1192年も残っているのです。

ちなみに1185年を幕府成立の根拠とするのは、源頼朝が敵対する平氏を滅ぼし、さらに朝廷から自分の家来を諸国の守護、地頭などに任命する権利を獲得したことが1つの根拠になっています。

1192年は、単に源頼朝が征夷大将軍に任じられたという年です。ちなみに将軍のいる居館や陣営を幕府と呼びます。

教科書は、1185年が実質的な成立、1192年が形式的な成立と考えているのかもしれません。

ちなみに研究者の間で成立年に定説はありません。さらにいえば、何年に幕府ができたかにこだわってはいないのです。おおむねこの時期に成立したとすることでよしと考えているのです。

また、鎌倉時代の大事件としては、2度にわたる蒙古襲来が挙げられます。1274年の文永の役、1281年の弘安の役です。

戦いの様子を生き生きと描いたものが「蒙古襲来絵詞えことば」で、竹崎季長の騎馬武者姿と3人のモンゴル兵が描かれている場面は有名です。

蒙古襲来絵詞(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)。1人のモンゴル兵を貫く縦の線は、江戸時代に原紙を台紙に貼って修復した痕跡。
貼り方がいい加減で上下が数センチほどずれているそう。だが線をまたいでいるモンゴル兵の体がまったくずれておらず、修復の後に描き込まれた可能性も。蒙古襲来絵詞(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)。1人のモンゴル兵を貫く縦の線は、江戸時代に原紙を台紙に貼って修復した痕跡。貼り方がいい加減で上下が数センチほどずれているそう。だが線をまたいでいるモンゴル兵の体がまったくずれておらず、修復の後に描き込まれた可能性も。

ただ、このモンゴル兵は江戸時代に描きたされた可能性がとても高いと指摘する学者がいます。ポイントは1人のモンゴル兵を貫く縦の線です。これは、江戸時代に原紙を台紙に貼って修復した痕跡です。けっこう貼り方がいい加減で上下が数センチほどずれているそうです。ところが線をまたいでいるモンゴル兵の体がまったくずれていないため、修復の後に描き込まれたと主張しているのです。ただし、何のために描きたしたのか、正確な理由はわかっていません。

これと同様に2度の役のうち、弘安の役については、台風によってモンゴル軍が大損害を被り、そのために撤退したことがわかっています。これが後の「神風信仰」を生んでいくことになります。一方、1度目の文永の役も、昔は暴風雨で損害を受け撤退したといわれてきましたが、研究の進展で逆に明確な理由がわからなくなりました。このため、今の教科書では、威力偵察に来てすぐ戻った、軍内部の分裂で去った、暴風雨で去ったなど、文永の役でモンゴル軍が撤退した理由については、バラバラなのが現状です。

【江戸時代】犬将軍・綱吉、今は名将扱い
評価が下がっている聖徳太子とは対照的に、その評価が急上昇しているのが、江戸幕府5代将軍・徳川綱吉です。

『<a href="https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4807161709/presidentjp-22" target="_blank">社会科 中学生の歴史</a>』(帝国書院)より。犬将軍のイメージが中年には強いかもしれないが、今では名君として扱われる。『社会科 中学生の歴史』(帝国書院)より。犬将軍のイメージが中年には強いかもしれないが、今では名君として扱われる。

綱吉といえば人間よりも犬猫を大切にする「生類憐みの令」を出し、庶民を苦しめた暗愚な将軍のイメージが刷り込まれているのではないでしょうか。

しかし、近年では戦国時代の遺風が残る殺伐とした社会を、儒教道徳や仏教の慈愛の精神を普及させることで変えていこうとしていたと評価されています。生類憐みの令もそうした政策の一環だったという見方が有力です。綱吉は武断政治から文治政治への転換を目指したのです。綱吉は聖堂学問所という大きな学校を造らせ、幕臣にそこで学ぶように通達しただけでなく、なんと自らも幕臣や大名たちに講義を始めました。その回数は生涯400回以上に及んだといわれています。

もう1つ我々の頭に、江戸時代の仕組みとして刷り込まれているものに「士農工商」という厳格な身分制度があります。士は支配階級である武士、農は農民(百姓)、工は職人、商は商人です。農民は武士の生活を支える年貢を納めねばならないため、重税を課す代わりに身分を2番目に高くし、プライドを持たせたという説明を聞いた方も多いでしょう。

しかし正確には、江戸時代の身分には、主に支配者の武士と被支配者の百姓・町人という2つがあるだけで、村に住むのが百姓、町(主に城下町)に住むのが町人(職人と商人)というように、居住区や職業を表すにすぎませんでした。しかも驚くべきことに、身分間の移動もできたのです。

例えば、勝海舟の曾祖父は越後の農民で、金を貯めて武士の身分を買いました。藩によっては、武士の料金表をつくり、金をもらって武士に取り立てるところもありました。

実は士農工商という概念は古代中国のもので、4つの身分というより「あらゆる人々」意味しました。にもかかわらず、江戸時代に儒学者が強引に日本の社会に当てはめ、それが誤った形で明治以降に伝わっていったのです。

【幕末】坂本龍馬とトンデモ誤報

最後に、その評価が何とか維持された例を紹介しましょう。その1人が幕末に活躍した坂本龍馬です。

私は個人的にも龍馬フリークなのですが、2017年11月にテレビで驚くようなニュースが報道されました。龍馬が歴史の教科書から消えるかもしれないというのです。大学と高校の教員でつくる「高大連携歴史教育研究会」が、歴史用語の精選案を発表したのですが、削除対象としている人名の中に吉田松陰、武田信玄、上杉謙信と並んで坂本龍馬があったのです。

坂本龍馬といえば薩長同盟、大政奉還などの実現に向けて、裏方として近代国家の誕生に大きな役割を果たしたといえるし、そうした縁の下の力持ちの重要性を高校生に教えることは必要だと思っています。

さらにこのニュースを取り上げたあるテレビ報道には驚きました。「坂本龍馬は昔、教科書に載っていなかった」と報道していたからです。

しかしこれは明らかな誤りです。1943年の国定教科書(『初等科国史 下』)には「朝廷では、内外の形勢に照らして、慶応元年、通商条約を勅許あらせられ、薩・長の間も土佐の坂本龍馬らの努力によって、もと通り仲良くなりました」と記されています。

昔の教科書には載っていなかったという誤った報道によって、「龍馬が消えても仕方がない」という気持ちを視聴者が起こさないでほしいと願いました。私のような龍馬ファンは多く、この精選案に反発が殺到し、研究会は2018年3月に用語の選定基準を見直し坂本龍馬を残す方針としました。

(構成=原 英次郎 写真=AFLO)

平家の落人(へいけのおちうど)とは、治承・寿永の乱(源平合戦)において敗北し僻地に隠遁した敗残者のこと。主に平家の一門およびその郎党、平家方に加担した者が挙げられる。平家の落武者ともいうが、落人の中には武士に限らず公卿や女性や子供なども含まれたため、平家の落人というのが一般的である。こうした平家の落人が特定の地域に逃れた伝承を俗に「平家の落人伝説」などという。

平家の落人とは

今日、日本各地において平家の落人伝説が伝承されている。源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦(一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなど)において平家方が敗退を繰り返した中で発生した平家方の難民であり、残党の追捕から逃れた者が落人となって各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。武士に限っては平家の落武者と呼ぶ場合もあるが、落ち延びたのは武士だけではないことから平家の落人という言われ方をすることの方が比較的多い。そうした平家の落人が潜んだ地域を平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などという。平家の落人伝承にある誤解としてよくあるのが、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同である。確かに平家一門が落ち延びたという伝承も少なくはないが、平家の落人という呼称が意味するものは「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の場合もある。

中には、創作や脚色された信憑性の薄い伝承や誤伝に基づく話もある。戦において落人が発生することは珍しくはなく、平家の場合も例外ではないが、該当する家系と姻戚関係となった間接的な血筋までも平家の落人を称する場合があり、口伝を基本とする平家の落人伝承が誤伝したり曖昧になりやすい側面もある。後に平家の残党が起こした三日平氏の乱やかつての平家方城助職の起こした謀叛などをみても、平家の落人が存在した事自体は間違いないが、元々が逃亡、潜伏した者であるため、歴史学的に客観的な検証が可能なものは少ない。学界で平家落人を研究したのは柳田國男・松永伍一・角田文衛らであるが、証拠があまりにも少なすぎるために推測を交えざるをえないことから、学者の間でも説が食い違うことはよくある。以下の平家落人集落の比定でも、ある学者は平家の落人の存在を肯定するが、別の学者が否定しているケースも少なからず存在している。例えば柳田が全否定した沖縄の南走平家については、奥里将建や大川純一など、沖縄の郷土史家の間では肯定的な意見が強い。角田が肯定した対馬宗家の平家末裔説も、他の学者は否定的である。といった具合である。

問題をややこしくしているのが、柳田や松永が指摘している平家落人伝説捏造説である。例えば、ある地方の平家伝説は安土桃山時代に突然発生したものである。柳田の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植している。木地師は木地師文書と呼ばれる、自己の正統性を主張するための宣伝文書を創作するのに長けた人々であった。木地師はその土地に伝わっていた話を元に、平家物語等に依って平家落人伝説を捏造したのではないかと柳田は考察している。これらの後世の捏造文書が非常に真実の探求を妨げているのである[1]。

平家の隠れ里

平家の落人は大抵、山の奥深くや離れ島や孤島などに存在している。そのため、平家は人口が少ないところや山間部や谷間など人がよりがたい所に里を築く。

食器や生活用品を洗ったりする時に川に誤って流してしまったり、山中に落としてしまったりして、外部の人間に気づかれることもある。ただし、気づくのはごく少数であり、平家の落人の隠れ里に辿り着くのも少数である。こういった場合、再度隠れ里に行くことができなかったり、川上から漆塗りの器が流れてきたりすることから、隠れ里自体を妖怪化して考えることがある。このため、平家の隠れ里が『隠れ里』として神秘的な存在にとられることも多い。

近親婚

平家の落人部落は隔離集団であり、住民が数人程度の共通の祖先に辿り着く例もある。
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日本全国の平家の落人伝説

朝日新聞デジタル>記事
「落人伝説」残る隠れ集落 平家の里
北崎礼子2018年4月28日 1時37分

平家の里(栃木県日光市) 落人の集落が時空を超えて存在しているかのような場所が、栃木県の山奥にある。

 日光の市街地から鬼怒川温泉を過ぎ、人家のない山間部をひたすら車で走る。長いトンネルをいくつも越えると、山に囲まれた谷沿いに小さな集落が現れた。源平合戦に敗れた平家の落人が、追っ手から逃れてたどり着いたという湯西川温泉だ。

 1185年の壇ノ浦の戦いでの平家滅亡後に一門が隠れ住んだ里は、全国に200カ所以上あるという。湯西川温泉は平清盛の長男重盛の息子である忠房の家臣約30人が逃げ延び、ひっそりと生活していた落人の里と伝えられる。

 隠れ里の雰囲気を今に伝えるのが「平家の里」だ。旧栗山村(現日光市)が、地域の活性化のため、壇ノ浦の戦い後800年を機に1985年に開いた。入り口では、左右の柱の上に横柱を通した屋根のない「冠木門」と言われる迫力のある木の門が観光客を迎える。脇に、顔の部分をくりぬいて客が顔を出せる平清盛パネルが、昭和っぽさを醸し出す。

 入ると、小川を挟んで、約80センチのぶ厚いかやぶき屋根の館が次々と連なる。館の中に入ると、囲炉裏があり、高い天井のハリや柱は黒光りしている。今も人が住んでいるかのようだ。「昔の雰囲気を伝えるために、毎日まきを燃やしていぶしています。手をかけないと、この雰囲気は維持できない」と平家の里専務理事の山口栄作さん(50)。質素な部屋にすり切れた着物の作業着や古いかんじきなどが干され、雪深いこの地での生活がいかに苦しかったかが伝わる。

 隣の館には、生計を立てるために村人が作っていた木工品のしゃくしやヘラなどの道具が飾ってあった。米がとれない地域で、村人は炭や材木作りなどで生計を立て、冬には山に狩りに出た。隣の会津地方との交易もあり、食文化は会津の影響を受けているという。

 別の館には、オレンジの衣を羽織った平清盛の像や、若くして戦に散ったりりしい平敦盛の像がある。琵琶で弾き語る平家物語の調べも流れ、源平合戦の往時の雰囲気が楽しめる。

 平家一族の一人は逃避行の最中に男児を出産し、お祝いにこいのぼりを立てたところ、源氏に見つかって追撃され、湯西川に落ち延びたという。その伝承から、湯西川では今もこいのぼりを上げない。温泉につかりながら、800年以上前にこの地で隠れていた平家一門に思いを巡らすことができる場所だ。(北崎礼子)

〈平家の里〉 栃木県日光市湯西川温泉1042。車では日光宇都宮道路の今市ICから約60分。電車は東武鉄道が乗り入れる野岩鉄道の湯西川温泉駅からバスで20分。電話0288・98・0126。4~11月は午前8時半~午後5時。12~3月は午前9時~午後4時半。最終入館は閉館30分前まで。有料








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