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スイスにもあった人間動物園

文化財返還問題とは、合法売買や窃盗など合法的または違法な手段によって外国に渡った文化財を、その原産国・所有権を持つ国が返還要求することに関わる、あるいは譲渡を要求することに関わる問題である。 ウィキペディア

以下のニュースは、その文化財略奪より、罪深い黒人を動物のように扱っていたスイスの実態が、浮き彫りにされたという記事に、言語を絶する、という表現しかないという、西洋ヨーロッパ圏の実態でした。

その、文化財略奪行為は、いわゆる戦勝国の戦利品として、歴史的に繰り返されて来たことであったし、そのことについては、異論?がなかったのは、この世界システムが、それら西洋米によって、作られている。それに基いているからです。

そしていま、その戦争の略奪行為が糾されて、先進各国(特にイギリス大英博物館)が、それを返還しよう、とする動きが出ていることです。

ですから、遅きに失したというタイミングは、ありますが、その逆説で、では、どうして、この7.80年間、そんなアクションがなかったのか、というパラドックスがあります。

どうしてなんでしょうか? 何故なんでしょうか、読者の皆さんにも答えらるでしようか。多分、応えられないと思います。

その略奪された遺跡類の多くは、途上国であったり、かつて植民地支配下にあったからです。云ってみれば敗戦によって財産が奪われた、という結果論です。ですから、世界中の途上国が束になっても、その西洋世界には、勝てないというパワーバランスがあるからです。

そう考えれば「黒人奴隷」という歴史を考えれば、人体実験的に、西洋圏であるスイスが、ドイツと同じようなことをしていたとしても、不思議はないはずです。こうした話は、国家間の微妙な折衝問題ですから、公には語られませんでしたが、ここ、数年で、回復の兆しが出てきたのは朗報なことです。
(※こうした記事は、アルゴリズムに捕捉されやすい)

人間動物園の実態(スイス)

スイスにもあった人間動物園
6min2023.8.25 クーリエ・ジャポン
「野蛮」で「未開」で「動物的」な黒人の姿を観客に見せた理由
スイスにもあった人間動物園──いま明かされる「黒人村」の舞台裏
19世紀初期に英国で生まれた「人間の展示」は、娯楽としてヨーロッパや北アメリカを中心に広まっていった。そして、それはスイスも例外ではなかった。いまでは「人権都市」の代表格とも言えるジュネーブにあった「黒人村」の全貌が明らかになりつつある。

スイスのロイカーバート村に滞在した小説家のジェームズ・ボールドウィンは、次のように記している。

「このスイスの小さな村に私より前に黒人が足を踏み入れたという形跡はどこにもなかった。ここへ来る前ある人からきみは村の『注目の的』になるぞと言われたとき、私は、それを、スイスでは私と同じ肌の色の人がめったに見られず、都会人は田舎へ行くとなにかしら『注目の的』になるという意味だと思った。この世界にニグロを見たことのない者がまさかいようなどとは思ってもみなかったのである。たぶんそれは、私がアメリカ人だからだろう」(『アメリカの息子のノート』せりか書房)

しかし、ボールドウィンのこの発見は、史実を踏まえたものとは言えない。彼がアルプスのその村を訪れる50年前、スイスの全人口の約3分の2が、ジュネーブの「黒人村」を訪れていたのだから。

200万もの人々が200人の黒人の“展示”を見物していたという事実が、50年後にはすっかり忘れ去られているのは一体なぜなのだろう? それだけ多くの観客が押し寄せたにもかかわらず、ロイカーバートからは誰も見に行っていなかったのだろうか。だが、それよりも重要なことは、はたして「黒人村とは何だったのか」ということだ。

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セネガルから移り住んだ200人

こんにち、ジュネーブは人権を象徴する都市の代表的存在だ。しかし1896年、スイスで2度目の全国博覧会が開かれたとき、ジュネーブは「人間動物園」を主催した。いまではその事実を示す証拠はほとんどないが、研究者らによって、スイスで最初の黒人村の歴史が明らかになりつつある。

セネガルから200人以上が移り住んだその村は、ジュネーブの中心街から通りを数本隔てたところにあった。6ヵ月間にわたり、観光客たちは料金を支払って、村人という「役者」たちが日常生活を演じる様子を見物していた。彼らの宗教的な儀式は、公共のイベントとして宣伝され、観光客は黒人の集団と写真を撮り、一緒に村を散策することができた。

当時、これはあらゆる議論を巻き起こし、新聞には批判的な意見があふれた。「『土着』の人々の尊厳を認め、彼らに敬意を払うべきである」と主張し、文明のもとで洗練された(ということになっている)観光客たちの行動を非難するものもあった。だが、ジュネーブ国際・開発研究大学院のダヴィデ・ロドーニョは、人間動物園のシステム自体が問題視されることはなく、人種のヒエラルキーは当たり前の真実として受け入れられていたと指摘する。

一方、人種差別主義者たちの主張は激化していた。彼らが言うには、セネガル人たちには「自由時間」があり、街を歩き回ることができた。その姿を見た差別主義者たちは「黒人の侵略」の恐怖に怯えたのだ。

「見世物小屋」から人間動物園へ

人間動物園はスイス独自のものというわけではない。この風潮は、西洋全体へ広まっていた。

人間を展示するという発想は、エンターテインメントの一種として19世紀初期の英国で生まれた。特に有名なのが、「ホッテントット・ヴィーナス」こと、サラ・バートマンが出演したショーだろう。彼女は南アフリカからヨーロッパに連れて来られ、興行に参加させられた。

こうした「フリークショー(見世物小屋)」はヨーロッパと北アメリカを中心に広まり、低身長症や先天性色素欠乏症(アルビノ)など、さまざまな外見を持つ人々を展示していた。

状況が変わったのは19世紀後半、フリークショーが国家主義的かつ植民地支配的な意味を帯びてきた時期だった。ヌビア人が初めて展示されたのは1877年、パリでのことで、「人間動物園」という言葉が使われはじめた頃だ。

ジュネーブ国際・開発研究大学院のモハメド・マフムード・モハメドゥは、19世紀後半、人間動物園は一般的なエンターテインメントだったと説明する。チケットを購入する客にとって、人間動物園に行くことは、普通の動物園に行くのと同じ感覚だった──彼らは「エキゾチックな動物」を見に行く気分だったのだ。

動物を展示する動物園と同様に、人間動物園の主催者は展示される黒人たちの「自然の生息環境」を再現すべく、泥でできた小屋をつくり、故郷の衣服を着せ、儀式をおこなわせていた。周りのセットも、本物らしさを演出するために設計されていた。

彼らの「野蛮なふるまい」を、「原始的な生活」を演出するセットや小物で表現することで、植民地の拡大と支配を正当化する西洋文明は、啓蒙すべき「野蛮な」人々の生きた見本として、展示されている黒人たちの姿を誇張してみせたのだ。このようにして彼らは、「野蛮人」と「未開の」社会の支配、そしてさらなる支配の拡大の基盤を整え、煽ったのである。

レマン湖博物館の学芸員ライオネル・ゴティエは、人間動物園の「土着の人々は、給与を支払われている役者たち」だったと話す。ゴティエは、人間動物園のシステムにひそむ暴力性を矮小化しているわけではない。むしろそのパフォーマティヴィティ(行為遂行性)を証明しているのだ。

彼らは西洋人の観客たちを楽しませるため、あらゆるセレモニーを見せ、あらゆる行動を演じた。すべてのパフォーマンスは、西洋人のエキゾチックなものに対する熱狂を刺激するためだった。主催者たちは黒人女性の肉体を性的なものに仕立てあげ、黒人男性を非人間化し、彼らの動物的な強さを「証明して」みせた。ボクシングのヨーロッパチャンピオンと黒人との試合がおこなわれたこともある。

「科学」によって助長された人種差別

人種差別が絡んでくるようになったのはこの頃だ。19世紀から20世紀への転換期は、科学の分野で人種差別が進んだ時期でもある。当時、ヨーロッパでは人類学と生物学の領域で、優れた人種を証明しようとする疑似科学が流行していた。優生学者にとって人間動物園は、人種差別の根拠となる理論の「サンプル」の提供元だった。

1896年のスイス全国博覧会の期間中、エミール・ヤングは学会を開催し、黒人村から連れてきた15人の村人の肌の色と頭のサイズを、ジュネーブの人々と比べてみせた──頭のサイズが文明と知能レベルに影響していることを示すためだった。この発想は学校教師たちを中心にヨーロッパに広まり、人種差別的なステレオタイプを生み出すこととなった。

確かに、人間動物園は人種的ステレオタイプを生み出した。観客たちが目にするのは、誇張されて歪んだアフリカの姿だった。黒人たちは意図的に矮小化され、中傷されていた。

さらには、ベルン大学のパトリシア・プルチェルトが指摘するとおり、人間動物園が流行した背景には、進化論や人種差別に基づいた人間の発達理論があった。こうした歪んだ知見を身につけることこそ、当時の教育の目的だったのだ。そして、科学の領域で助長された人種差別は、世間に広まった一般的な人種差別との相乗効果で、さらに激化していった。人間動物園はまさに、人種差別という一つのコインの表と裏が出会う場所だったのだ。

チューリッヒ大学のパトリック・メンデルは、人間動物園は西洋の植民地思想の産物であり、黒人村はその思想を体現するのにうってつけの場だったと語る。

モハメド・マフムード・モハメドゥが述べるように、植民地と人種差別はスイス連邦にとっていまなお頭の痛い問題であり続けている。人間動物園をジュネーブの中心街に置いたことで、西洋の優位性が国中に広まり、強まっていった。領地を拡大し、黒人たちを支配する権利は自分たちにあるという思想が浸透していった。こうして、スイスの文化・政治・経済・学界におけるエリートたちが、人種差別主義を共有していったのだ。

そう、スイスの科学者たちは植民地思想を確立することに積極的だった。スイスは植民地を所有していなかったにもかかわらず、西洋諸国の一国として、植民地支配と人種差別主義の蔓延に深く関わっていたということだ。

他国が人間動物園を廃止した大戦期になってもなお、スイスは人間を展示し続けた。1960年代まで、国家を代表するサーカス「クニー」は相変わらず “Volkerschauen(人間動物園)”のショーを開催していた。そこでは、エスキモー(イヌイット)や「神秘的な」エジプト人、アルビノの人々が展示されていた。

それはスイスが脱植民地化できていなかったからだと、プルチェルトは指摘する。スイスは、自国が植民地と無関係であることを強調したがために、その根底にひそむ植民地精神と、人種差別的な表現や思想と折り合いをつけることができなかったのだ。

こうした背景があるからこそ、歴史学者だけでなく、社会全体が人間動物園から目を背けてはならない。これは、スイスが自国の過去に向き合うために不可欠なステップだ。何より重要なのは、それが、いまなお残る植民地主義の爪痕について考えるきっかけとしてより広い考察を生み出すことだ。

人間動物園の真実に向き合わなければ、現在も続く「典型的な」マサイ族の村を訪れる観光体験が、現地の人々の生活を誇張して演出していることを見逃してしまうだろう──人間動物園と同じように。

The Conversation via Reuters Connect


アメリカの黒人女性が強いられる苦渋の選択
黒人の精子が一瞬で完売する理由──なぜ黒人ドナーの争奪戦が起きているのか

ワシントン・ポスト(米国) クーリエ・ジャポン
Text by Amber Ferguson
アメリカでは妊娠を望む黒人女性が急増しているが、黒人の精子ドナーが圧倒的に不足している。精子バンクに登録する黒人男性は少ない理由、そして精子提供者を必要とする黒人女性が強いられる苦渋の選択とリスクに、米紙「ワシントン・ポスト」が迫った。

精子バンク登録の黒人ドナーは2%未満

リース・ブルックスは毎晩午前1時過ぎ、女性刑務所の看守としての勤務を終えた後、ノートパソコン2台と携帯電話、タブレット端末を開く。そして精子バンクのウェブサイトにアクセスしてくまなく目を通し、タブを何十枚も開けていく。

サイトには何百人もの精子ドナー候補者が表示され、映画スター級の容姿や身長、趣味などを選択できる。しかし、「黒人」や「アフリカ系アメリカ人」でフィルターをかけると、選択肢はあっという間に狭まった。

精子バンクはブルックスに母になるチャンスを与えてくれたが、彼女が望んだものは提供してくれなかった。それは、自分に似た容姿で同じ文化を共有する子供を授けてくれる、黒人の精子ドナーだ。

「ドナー探しに週40時間は費やしたでしょう。合計で800時間以上は探したと思います」とブルックスは語る。

ただ、黒人のドナーとなると選択肢はないに等しかったという。

精子バンクの報告によると、精子提供による妊娠を希望する黒人女性の数は近年着実に増加していたが、新型コロナのパンデミック下で急増した。直近の米国勢調査のデータによれば、35~45歳の黒人女性は他の人種グループの女性に比べて未婚率がはるかに高く、白人女性の16%に対し、黒人女性は44%にのぼる。

しかし、米国の4大精子バンクに登録するドナーのうち、黒人の割合は2%未満とごく少数にとどまることが、本紙ワシントン・ポストの分析で明らかになった。

ドナーの精子を必要とする黒人女性たちは、深刻な不足によって苦しい選択を迫られている。他の人種のドナーを選んでバイレイシャルの(両親の人種が違う)子供を育てるか、規制されていないアプリやオンライングループから精子を購入するかの選択だ。

不足の理由は多岐にわたる。精子バンクが黒人ドナーを募集できていないこと、ドナー登録するには3世代前までさかのぼって病歴を提出する必要があること(質の高い医療を受けられない黒人男性には難しい場合がある)、重罪歴があるとドナーになれないこと、差別の歴史から黒人男性が医療従事者を信頼していないことなどが挙げられる。

タスキギー実験の黒人被験者らが血液を採取される様子 Photo: National Archives and Records Administration / Wikimedia Commons

30代後半~40代女性に迫るタイムリミット

精子ドナー探しは通常、精子バンクのウェブサイト上で行われ、提供可能なドナーのプロフィールを個人情報や遺伝子情報に限定して閲覧できる。追加料金を支払えば、ドナーの赤ちゃんの写真を見ることも可能だ。

精子は1バイアルあたり平均950~1300ドルで販売される。ドナーは1回の提供につき70~150ドルの報酬を受ける。精子バンクは1人のドナーから生まれる子供の数を制限するため、ドナーごとに一定数のバイアルを販売する。

米国内には20以上の精子バンクがあり、そのうち4社(カリフォルニア・クライオバンク、フェアファックス・クライオバンク、シアトル精子バンク、ザイテックス)は登録者数が100人を超える。

4社の供給には変動があるが、10月11日現在、合計748人のうち黒人ドナーはたった12人だった。白人とアジア系の割合が不釣り合いに大きい一方、ヒスパニック系も不足している。

本紙の取材に応じた女性15人のうち、黒人ドナーの精子を購入して妊娠できたのは1人だけだった。

黒人女性たちの話によると、精子バンクのサイトでは黒人ドナーのバイアルを巡って熾烈な競争が繰り広げられており、通常は数分で売り切れてしまうという。

ワシントンDCで教師をしているアンジェラ・ステパンチッチは、過去にオンラインサイトで黒人ドナーのバイアルをショッピングカートに入れたが、そのとき電話でやりとりしていた社交クラブの仲間にチェックアウトで先を越された。ステパンチッチは結局、ラテン系ドナーの精子でミックスの子供をもうけた。

カリフォルニア・クライオバンクのハイメ・シャモンキ最高医療責任者によると、同社では需要の高い白人ドナーの場合、待機期間は一般的に3ヵ月だという。ところが、黒人ドナーの場合は1年半待ちになることもある。

しかも、加齢による生殖機能の低下に直面している30代後半から40代の女性は、ただ待っているわけにはいかない。

作家のキャンディス・ベンボウ(40)はこう語る。

「自分が必要なものを手に入れたら、同じように黒人ドナーを求めている仲間は必要なものが手に入らないということ。私はドナーを求めて泣き、断食をし、祈っています。仲間も同じことをしているのはわかっていますが、私はできる限り多くの精子を購入し、保管料を支払い、必要なことをしなければなりません」

黒人女性は妊娠に関して、他のハードルも高い傾向がある。子供を身ごもる上でのリスクが高いのだ。子宮筋腫など生殖能力を損なう恐れのある疾患にかかる確率が高く、妊娠に関連した原因で死亡する確率は白人女性の3倍にものぼる。

それにもかかわらず、専門医に紹介される確率は白人女性より低いと、米国生殖医学会のマイケル・トーマス次期会長は指摘する。

「私たち不妊治療専門医が直面する最大の問題のひとつは、そうした患者を早い段階で診られないことです。産婦人科医は、自然妊娠するだろうと想定して患者の紹介を渋る場合があります」

トーマスによれば、黒人女性は多産だと誤解されることもあるという。

本紙が取材した女性たちはみな、我が子を愛しているが、選択肢がなかったことに後悔は残ると胸の内を明かした。

精子を世界中にばらまいて──世界中に遺伝子を残す男たちの罠

娘と私はあまり似ていないけれど
以下割愛



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