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司馬遷をよむ

「お寿司の伝票」さん
徒然なるがままに主に歴史をネタに握っている。https://note.com/wesimburengge/

から好き、を頂いた記事の再録です。

司馬 遷を読む
司馬 遷(紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。
姓は司馬。名は遷、字は子長。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。
太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。
秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳(しばきん)、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌(しばしょう)がいる。司馬昌の子は司馬無澤(しばむえき)と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。
このような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、漢王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。

『史記』(しき)は、中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、わけても正史記述の雛形となっている。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。
『史記』のような歴史書を作成する構想は、司馬遷の父の司馬談が既に持っていた。だが、司馬談は自らの歴史書を完成させる前に憤死した。司馬遷は父の遺言を受けて『史記』の作成を継続する。
紀元前99年に司馬遷は、匈奴に投降した友人の李陵を弁護したゆえに武帝の怒りを買い、獄につながれ、翌紀元前98年に宮刑に処せられる。この際、獄中にて、古代の偉人の生きかたを省みて、自分もしっかりとした歴史書を作り上げようと決意した。紀元前97年に出獄後は、執筆に専念する。結果紀元前91年頃に『史記』が成立した。『史記』は司馬遷の娘に託され、武帝の逆鱗に触れるような記述がある為に隠されることになり、宣帝の代になり司馬遷の外孫の楊惲が広めたという。
司馬遷が叙述をしなかった三皇時代について書かれた「三皇本紀」と「序」は、唐代に司馬貞が加筆したものである。

本文の信頼性現存する『史記』の完本は南宋の慶元2年(1196年)のものが最古であり、これが司馬遷の原作にどの程度忠実かは大きな問題である。
唐代の作である「三皇本紀」は別にしても、太史公自序にいう「今上本紀」が今の『史記』には見えず、かわりに「孝武本紀」があるが、これが後世の補作であることは明らかである。それ以外の巻にも司馬遷が使ったはずのない「孝武」「武帝」の語が散見する。それどころか「建元以来侯者年表」「外戚世家」「三王世家」「屈原賈生列伝」には昭帝まで言及されている。とくに「漢興以来将相年表」は司馬遷のずっと後の鴻嘉元年(紀元前20年)まで記している。また、あちこちに「褚先生曰」として褚少孫の言葉を載せている。
『漢書』司馬遷伝によると、班固の見た『史記』は130巻のうち10巻は題だけで本文がなかった。現行本は130巻全部がそろっているので、後漢以降に誰かが補ったということになる。張晏によると、欠けていたのは「孝景本紀・孝武本紀・礼書・楽書・兵書・漢興以来将相年表・三王世家・日者列伝・亀策列伝・傅靳蒯成列伝」であるという。『史記』太史公自序の『索隠』は、このうち兵書は補われず、かわりに律書を加えたとする。
思想的背景『史記』に貫かれている思想は「天道是か非か」であると言われている。天の道、すなわちこの世に行われるべき正しき道が本当に存在しているのかどうかということである。例えば列伝の最初である「伯夷列伝」で、義人であるはずの伯夷と叔斉が餓死という惨めな死を遂げることに対しての疑問である。これは司馬遷自身が、李陵を弁護したと言う正しい行いをしておきながら宮刑と言う屈辱的な刑罰を受けたことに対しての悲痛な思いが根底にあると思われる。
司馬遷が『史記』を執筆した時代は、武帝により儒教が国教化されつつあった時代である。そのため、孔子については、諸侯でないものの、世家の中に書かれている。『史記』の記述は儒教一辺倒にならず他の思想も取り入れている(司馬遷自身は道家に最も好意的だとも言われている)。これは、事実の追求という史書編纂の目的において生まれたことであろう。反秦勢力の名目上の領袖であった義帝に本紀を立てず、当時の実質的な支配者であった項羽に本紀を立てていることや、呂后の傀儡であった恵帝を本紀から外して「呂后本紀」を立てていることも、こういった姿勢の現れと考えられる。
叙述の対象は王侯が中心であるものの、民間の人物を取り上げた「游侠列伝」や「貨殖列伝」、暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、権力から距離を置いた人物についての記述も多い。また、武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、法律に威をかざし人を嬲った「酷吏列伝」、逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。
さらに、漢の宿敵であった匈奴を始めとする周辺騎馬民族や蛮族に対しても、当時の漢の価値観から論評することをあまりせず、基本的に事実のみを淡々と書くという態度で臨んでいる。

儒教が主導権を握った後は、司馬遷のこうした姿勢はしばしば批判の対象とされた。例えば班彪の『漢書』では、遊侠や貨殖といった人物を史書で取り上げたことや儒教を軽視して道家に近い立場をとったこと、劉勰の『文心雕龍』では、女性を本紀に立てたことが非難されている。
『史記』を一種の悪書と見なす視点はかなり早くからあったようで、前漢の成帝の時代に来朝した東平王劉宇が『太史公書』を求めたものの、「『太史公書』には昔の合従連衡や権謀術数のことが詳しく書かれており、諸侯に読ませるべき本ではない」という意見が出て、結局東平王劉宇の申し出は許可されなかったという逸話もある。また蜀漢の譙周は、「史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに、『史記』は諸子百家の説を用いた」と非難すると、『古史考』25篇を著し、経典の所説を遵奉して、『史記』の誤謬を正すものとした。劉知幾の『史通』古今正史篇には、唐代において『古史考』は、『史記』と並んで広く読まれていたと記されている。
更に後世において史漢(『史記』と『漢書』)の比較評論が、多くの知識人によって行われている。
文学的価値歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、「文の聖なり」「老将の兵を用いるがごとし」と絶賛されたこともある。特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。
文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、白川静は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。
歴史学的価値「疑古」も参照正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。特に「書」に記された内容は、前漢時代における世界観や政治経済、社会制度などについての重要な資料である。また、匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。また、秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、西安市の郊外の兵馬俑坑の発見で記述の正確さが証明されている。
一方で、『史記索隠』が引く『竹書紀年』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えば呉の王家の僚と闔閭の世代間の家系譜など)。宮崎市定は、歴史を題材にした多くの講談と言った語り物を司馬遷が重要な史料として取り入れていると指摘し、司馬遷について「全てを疑う理由が有る」としている。小川環樹は、司馬遷は『戦国策』等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘し、加藤徹も司馬遷が記した戦国七雄の兵力には多大に宣伝が入っているのではないかとしている[5]。それら講談から取材した記述と司馬遷自身の記述を見分ける術は我々には無い。いずれにせよ、司馬遷の仕事によって後世に史記に採録されている興味深い話の数々が残ったという事実のみがある。
日本における史記の受容『史記』の伝来時期は正確には判明していないようであるが、聖徳太子の十七条憲法の典拠のひとつとして『史記』を挙げる見解がある。日本における『史記』の受容に関連する事跡を以下に例示する。
奈良時代『続日本紀』巻29・神護景雲2年(768年)9月11日の条に、日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。その際、人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。
また、『続日本紀』巻30・神護景雲3年(769年)10月10日の条に、称徳天皇が大宰府の「府庫は但だ五経を蓄えるのみ、未だ三史(『史記』・『漢書』・『後漢書』)の正本有らず。渉猟の人、其の道広からず。伏して乞うらくは、列代諸史、各一本を給わりて管内に伝習し、以て学業を興さん」との請に応じて『史記』から『晋書』までの歴代正史を下賜した旨の記事がある。
平安時代国宝 『史記孝文本紀第十』(東北大学所蔵)平安時代には公私の各蔵書目録に『史記』があらわれた。藤原佐世が奉勅して寛平年間(889年 - 897年)に撰した『日本国見在書目録』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。なお藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」が挙げられている。
さらに、清少納言は『枕草子』で「ふみは文集。文選。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。他方、紫式部は『源氏物語』で152箇所にわたり中国詩文を引用し、うち14箇所で『史記』を用いている。例えば、藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、劉邦の寵妃の戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。また、紀伝道の宗家とされた大江氏では、裴駰『集解』を基にした延久点に基づく訓点本が著された。
南北朝時代『太平記』における中国故事の引用は62例あり、うち30話は『史記』を源泉とする説話である。『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。
室町時代上杉憲実が文安3年(1446年)に足利学校の学規を定めて「三注・四書・六経・列・荘・老・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした。
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北方の玄界灘 対馬島 

対馬(つしま)は、日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島で、島全域が対馬市の1島1市体制である。面積は日本第10位である。島内人口は3万1010人である(2018年12月現在)。

画像 対馬初代藩主宗義智

歌川広重『六十余州名所図会 対馬 海岸 夕晴』/安政2年(1856年)の作。

主島は対馬島(つしまじま、つしまとう)で、このほか属島として6つの有人島(海栗島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島)と102の無人島がある。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」「対馬諸島」とすることがある。古くは対馬国(つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また『日本書紀』において、対馬島(つしま。3文字合わせてこう読むのが書紀古訓での伝統)と記述されていた。旧字体では對馬。

地理的に朝鮮半島に近いため、古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口の役割を果たしてきた。現在は大韓民国からの観光客が増加しており、島内の至る所にハングルが併記された標識や案内を見ることができる。日本の海釣りの名所として知られている。

対ロシア帝国、対ソビエト連邦の防衛上の重要拠点であり、冷戦時代はソ連軍の軍用機や潜水艦が頻繁に出没していた。

地政学的にはチョークポイントにあたるところから、古代より国境の島として国防上重視され、明治時代から、大日本帝国陸軍は対馬警備隊・対馬要塞を置き、戦後は1956年より航空自衛隊の海栗島分屯基地が設けられ、1961年より陸上自衛隊の対馬駐屯地も置かれ、対馬警備隊へと発展している。また、明治時代には大日本帝国海軍の施設が置かれたこともあり、現在は海上自衛隊の対馬防備隊も所在している。

対馬の位置と衛星画像

釜山の冬柏から望む対馬

日本海の西の入り口に位置する対馬島は、九州本土より玄界灘と対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡)をはさんで約132キロメートル、朝鮮半島へは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)をはさんで約49.5キロメートルの距離にある。形状は、南北に82キロメートル、東西に18キロメートルと細長く、面積は約700km2で、日本の島では第10位の広さである。

詳細は「対馬国#先史時代」、「対馬国#古代」、および「防人」を参照

旧石器時代に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。現在までに確認された最古の遺跡は、新石器時代に属する縄文文化のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。大陸からのナウマンゾウ等の哺乳類の化石も見つかっていない。

縄文時代の峰町佐賀貝塚や上県町志多留(したる)貝塚からは外洋性の魚の骨が出土し、峰町では多くの貝輪(腕に付ける装飾品)の材料が、沖縄の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と北海道産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。また、石器の材料は、佐賀県伊万里市腰岳産の黒曜石である。さらに、峰町吉田貝塚からは縄文時代晩期の夜臼式土器、弥生時代前期の板付I式土器などが出土し、九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。これらの石器・貝輪、土器は、峰町歴史民俗資料館や豊玉町郷土館等で収蔵・展示されている。

北部九州ではこの頃から水稲耕作が始まり、平野が開発されてゆくが、対馬では河川や低平な沖積地に恵まれず、水田を拡大できなかったことから、弥生時代に入っても狩猟や採集・漁労などの生業が依然として大きな比重を占めたものと推定され、イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。ただし、大陸系磨製石器や青銅器・鉄器などの金属器などは出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く出土している。

神話 国産み(「天瓊を以て滄海を探るの図」、小林永濯)

淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で国産みがなされた(大八洲)

『古事記』の建国神話には、最初に生まれた島々(「大八洲」)の1つとして「津島」と記されている。『日本書紀』の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。

古くから大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島と倭国・倭人・ヤマトをむすぶ交通の要衝であった。

『魏志』倭人伝では、「対馬国」は倭の一国として登場する。帯方郡から邪馬台国への経路の途上、「狗邪韓国」(韓国慶尚南道金海)の記述につづいて「一海を渡ること一千余里」の南に位置するとしており、邪馬台国に服属した30余国のなかの一国であった。そこには、対馬は、居る処は絶島で、土地は山が険しく、深林が多く、道は獣の径(みち)のようであり、千余戸の家はあるものの、良田がないので海産物を採集して自活し、船による南北の交易によって生活していたと記されている。また、他の倭の諸国同様に、「卑狗」(ヒコ)と呼ばれる大官と「卑奴母離」(ヒナモリ)と呼ばれる副官による統治がなされていたとする。

古墳時代初期に築かれた出居塚古墳は前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、鉄剣(部分)、管玉等が出土している。前方後円墳は、3世紀代にヤマトで生まれた古墳形態であり、出土した有茎柳葉式銅鏃は古式畿内型古墳の典型的出土品であることから、この時代の対馬の首長はヤマト王権と深く結びつき、その強い影響下にあったことを示している。首長墓のうち比較的大規模なものは、対馬市美津島町高浜曽根の海岸に集中して分布している。えべすのくま古墳は前方後円墳とみられているが、前方後方墳の可能性もあり、墳丘の全長は約40メートルである。箱式棺で銅鏃12点、管玉1点、鉄剣を出土しており、銅鏃は京都府の妙見山古墳や福岡県の石塚山古墳のものと類似し、古墳時代前期(4世紀ころ)の築造と推定される。美津島町の鶏知(けち)ネソ1号墳は全長30メートルで箱式棺をともない管玉・鉄鏃・刀を出土している。鶏知ネソ2号墳は全長36メートルで、主室は箱式棺をともなって須恵器や鉄刀が出土しており、副室は箱式棺より土師器と鉄剣が出土している。ネソ1号墳、2号墳はともに積石塚である。

島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代はヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代であり、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』において、対馬北端の和珥津(わにのつ、現在の上対馬町鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させたうえ、屯倉を設置したという記述である。皇后が三韓征伐の帰途、旗八流を納めたとされるのが和多都美神社(現海神神社)であり、この神社が対馬国の一宮である。また、朝鮮側の記録としては、12世紀に編纂された朝鮮最古の歴史書『三国史記』に、第18代新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。このように、対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地としての役割を担っていたことが知られる。

607年に隋にわたった小野妹子の墓(大阪府南河内郡太子町)

大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原(いづはら)に国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇における600年(推古8年)と607年(推古15年)の遣隋使も、また630年(舒明2年)の犬上御田鍬よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としている。

白村江の戦い

663年(天智2年)の白村江の戦い以後、倭国は、唐・新羅の侵攻に備え、664年には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽火(とぶひ)が8か所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。667年(天智6年)には浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞とし、674年(天武3年、白鳳2年)には厳原が正式な国府の地に定まり、同年、対馬国司守忍海造大国(おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した銀を朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。この対馬銀山は含銀方鉛鉱の鉱床であり、鉱石を山上に運び数日間焼き続けることにより残った銀を採取したものであるという。この金属精錬法は灰吹法に類似している。

701年(文武5年)、対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。

対馬国には伊奈、久須など5郷からなる上県郡と豆酘、鶏知など5郷からなる下県郡が置かれた。741年(天平13年)、「鎮護国家」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも厳原の地に国分寺が建立されている。

防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年(天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした。

神護景雲2年(768年) 波自采女が続日本紀に「対馬島上県郡の人高橋連波自采女、夫を亡くして後誓って志を改めず。その父もまた死す。盧を墓の側に結んで、毎日斎食す。孝義の至り。路行く人を感ぜしむることあり。よってこれを其の門閭(里の入口)に表彰し、租(年貢)を免じて一生を終わらしむ。」と記されており、対馬市豊玉町に墓がある。

8世紀中葉の成立と思われる和歌集『万葉集』には、

百船(ももふな)の泊(は)つる対馬の浅茅山 時雨(しぐれ)の雨にもみだひにけり

の短歌が収載されているが、『万葉集』には、他にも「浅茅浦」「竹敷の浦」などの地名がみえ、また、「玉槻」という対馬在住とみられる女性[* 7]による、

竹敷の玉藻なびかしこぎ出なむ 君が御船をいつとか待たむ

の歌も収められている。

古代において、新羅から日本には540年(欽明天皇元年)から929年(延長7年)まで89回におよび入朝しており、日本から新羅へは571年(欽明天皇32年)から882年(元慶6年)まで45回にわたり使節(遣新羅使)を派遣している。これらは、すべて対馬を経由した。

平安時代に入って桓武天皇の時代には防人制は広く廃止され、軍団制に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した。

4度にわたる新羅の入寇では、813年(弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。

承和4年(837年)和多都美神社が神位を拝受した。

894年(寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが撃退している。

刀伊の入寇(にゅうこう)

1019年(寛仁3年)、正体不明とされた賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365人、拉致された者1289人で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。現在では賊(日本側に捕らわれた捕虜3名はすべて高麗人)の主体は刀伊(一部は高麗に朝貢していたと言われる女真族)であったとされており、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。女真族は、このとき対馬の判官代長嶺諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は一度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録が残っている。

中世

治承・寿永の乱の際、当時の対馬国司藤原親光は源頼朝の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、1183年(寿永2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。平知盛は、大宰少弐原田種直を通して西海道の武士に屋島への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は高麗国に逃亡したのち、1185年(文治元年)6月に対馬に戻った。

中世の対馬では、荘園制度の発展はみられなかった[19]が、鎌倉幕府は国ごとに守護を置き、対馬国守護職は少弐氏(武藤氏)にあたえられた。

12世紀には、のちの宗氏の始祖となる惟宗(これむね)氏が対馬に入部している。惟宗氏は、もと大宰府の官人であったが、筑前国の宗像郡から対馬へ向かったとされる。史料で惟宗氏の名が対馬の在庁官人として確認される初見は、建久7年(1196年)である。惟宗氏(宗氏)は、少弐氏の守護代として次第に対馬で勢力をのばし、武士化していった。従来対馬で勢力を保っていた阿比留(あびる)氏は、当時国交を結んでいない高麗との交易をおこなっていた。大宰府はこれを詰問したが、阿比留氏が従わなかったため、1246年(寛元4年)、大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討して対馬の支配権を確立した。

なお、鎌倉時代では、1265年(文永2年)成立の『続古今和歌集』に寄せられた大納言俊光の女の、

雨晴るる夕影山に鳴く蝉の 声よりおつる木々の下露

の歌が、上対馬の網代村の「夕影山の伝説」にちなみものだといわれている。

元寇
文永の役における鳥飼潟の戦い。元軍に突撃する竹崎季長と応戦、敗走する元兵。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵7・第23紙)

鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。1274年(文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い迎撃したが、圧倒的な兵力差により全滅した。この受難を小茂田浜神社で伝えられている。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。

1281年(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。弘安の役において『八幡愚童記』正応本には、

其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。

と記されている。

康応の外寇

元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の1つとなった。これは、ひとつには元寇に対する防衛や報復の意味があったといわれている。1366年(正平21年、貞治5年)、高麗王朝が倭寇と海寇の取締を宗氏に要請すると宗経茂はこれに応え、高麗との通交が始まるが、1389年(元中6年、康応元年)、慶尚道元帥朴葳に率いられた高麗軍が激化していた倭寇討伐のために対馬を襲撃した。朴は、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出したといわれる(康応の外寇)。倭寇の活動は高麗王朝滅亡の一因ともいわれており、李氏朝鮮王朝の祖である李成桂も倭寇討伐で功名をなした人物であった。

応永の外寇

対馬では倭寇の禁止や日朝貿易の進展に積極的であった宗貞茂が死去すると倭寇の活動が活発化し、朝鮮王朝第3代の太宗は1419年(応永26年)6月、倭寇討伐を大義名分とした掃討戦を決意した。朝鮮軍は、兵船227隻・軍兵1万7,285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い、つづいて小船越を襲撃し、さらには仁位浦に進んで如加岳(糠嶽、ぬかだけ)で対馬兵とのあいだで激しく戦った。朝鮮軍は、対馬の人びとの伏兵などによる反撃などにより損害が大きく、戦況が膠着状態に陥ったところ暴風雨も近づいたため、対馬側の和平提案を受け入れて、7月3日に巨済島へ全面撤退した。これが応永の外寇であり、朝鮮では乙亥東征と呼んでいる。

1433年(永享5年)、宗氏の主君少弐嘉頼は周防の大内氏に敗れて対馬に逃れ、三根の中村に居を構えた。これにより少弐氏と宗氏はともに筑前国での勢力基盤を失った。

太宗の死後、第4代の世宗は日本との善隣政策をとり、3度にわたって通信使を送って通交の制度を整備した。1438年(永享10年)ころには文引制を採用し、1443年(嘉吉3年)には癸亥約定(嘉吉条約)を結んで、対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮から支給されることとした。日本から朝鮮へ渡航する者は宗氏の統制下に置かれることとなり、朝鮮南部海域の漁業特権も宗氏にあたえられた(このころの対馬島の状況は1471年刊行の「海東諸国紀(申叔舟 著)」に詳しく記されている)。こうして朝鮮との通交に関係のある諸権益は宗氏に集中したが、この過程は同時に対馬島内における宗氏の領国支配が確立していく過程でもあった[17]。島内の諸豪族も、経済的基盤は土地による収入よりも交易に依存する度合いが大きかったので、宗氏が朝鮮より優遇されることは、彼らにとっても好ましいことであった。宗氏の握る貿易権・漁業権は、みずからの家臣団編成などにおいて重要な役割をになったのである。

1510年(永正7年)、朝鮮王朝の貿易抑制政策や恒居倭(朝鮮在留日本人)に対する締め付けに耐えかね、恒居倭と宗氏は富山浦、乃而浦、塩浦において兵乱を起こしたが、対馬島主の子息宗盛弘を大将とする4,000名から5,000名にのぼる軍勢は数に勝る朝鮮の官憲に大敗し、盛弘は熊川で戦死した。これが「三浦の乱」である。これ以後、中国人を主体とする後期倭寇が東シナ海や黄海の広い海域で活動し日朝貿易は衰えた。また、宗氏は戦国時代には壱岐に進出した松浦氏との対立がはじまった。

近世 対馬初代藩主宗義智

1838年に完成した『天保国絵図』「対馬国」

1587年(天正15年)豊臣秀吉の九州平定に際して、宗氏は事前に豊臣政権への臣従を決め、本領安堵された。1590年(天正18年)には、宗義智が従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後、宗氏の当主にあたえられる官位の慣例となった。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、出兵に先立つ1591年(天正19年)、厳原には古代の金石城の背後に清水山城が、上対馬の大浦には撃方山城が築かれて中継基地となった。対馬からは宗義智が5,000人を動員した。義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊にあたる小西行長の一番隊に配属された。1592年(文禄元年)義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し、朝鮮軍や明軍と戦い、釜山、漢城(現韓国首都ソウル)、平壌(現北朝鮮首都)を次々と攻略した。義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交を担当する役割も担っており、行長とともに常に講和を画策していた。30万の軍隊がここを中継地として渡海したため、対馬ではたちまち食糧が底をつき、駐留する兵士が鶏・犬・猫などを住民から奪う禁令が出されたという。なお、対馬には小西行長着用の兜が伝えられている。

義智は、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わって、みずからは伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣した。西軍敗北後は徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなる。

こうして江戸時代を通じて宗氏が対馬府中藩(通称対馬藩)の藩主を務め、城下町は対馬府中(厳原)につくられた。1609年(慶長14年)には己酉約条(慶長条約)が締結され、釜山には倭館が再建された。倭館は、長崎出島の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。

2代藩主宗義成の代には、1615年(元和元年)に大坂の役に徳川方として参加した。その後、義成と対馬藩家老柳川調興とのあいだに柳川一件が起こっているが、1635年(寛永12年)、3代将軍徳川家光によって裁可され、調興敗訴となった。1637年(寛永14年)から翌年にかけては島原の乱に幕府側として参加した。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代であった。

対馬藩は、参勤交代制度に基づき、3年に1度、江戸の征夷大将軍に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて往来した。外交面では鎖国体制のなか、朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において出貿易を許されていた。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。

柳川一件以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵(いていあん)に京都五山の禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど幕府の統制も強化された。1663年(寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、現在「お船江跡」という遺構として当時のつくりのまま保存されている。 寛文元年 1661年 仁位郡検地が実施された。 対馬藩は10万石の格付けであるが、山がちで平野の少ない対馬では米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、藩収入は朝鮮との交易によるものであった。作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭(こば)」とよばれる焼畑であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられた。また、石高制に代わって間高制という特別の生産単位が採用された。

17世紀後半は、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、雨森芳洲や陶山鈍翁(訥庵)、松浦霞沼などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄のようすは、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多都美神社の壮麗さが今日に伝えている[24]。1685年(貞享2年)には、藩主宗義真が府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家臣の子弟の教育をおこなった。これが、日本で「小学校」の名のつく施設の最初であるという。

18世紀初めには陶山鈍翁の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」がおこなわれた。それにより、当時は焼畑耕作の害獣であったイノシシは絶滅している。

以後、宗氏は改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、明治維新後は伯爵となり華族に列した。14世紀後半から江戸時代にかけて、対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に服属してきたが、中世の一時期には朝鮮王朝から官職を与えられ、特殊な役割を果たしてきたことも事実である。高橋公明は、これを「対馬の境界性」と表現している。

幕末・明治初期 『旧厳原県歳入ニ関スル内願書』(1872年、厳原県士族寺崎正常・森川正邦)

『大日本海岸実測図』より「対馬国厳原及阿須港」(1874年測量、1875年発行)

兵部省海軍部水路局

江戸時代後期の1861年(万延2年)にはロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠するロシア軍艦対馬占領事件が起こった。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して藩主宗義和に土地の貸与を求めた。対馬藩は対応に苦慮したが、5月には幕府外国奉行の小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックの干渉もあってロシア軍艦が退去した。芋崎には、現在もロシア人の掘った井戸がのこっている。

こののち対馬藩は1862年(文久2年)、長州藩とのあいだに同盟が成立した。1863年(文久3年)には孝明天皇より対馬藩に対して攘夷の勅許と御沙汰書が下っている。

1864年(元治元年)、佐幕派で藩主宗義達の叔父にあたる勝井員周(勝井五八郎)が藩内で主導権を握り、家老大浦教之助をはじめとする勤皇派100余名を粛清するという大事件が起こっている。勤皇派の平田大江は、これに対し、尽義隊を結成して抵抗運動を繰り広げた。藩主義達は翌1865年(慶応元年)、まずは勝井五八郎を、続いて平田大江を殺害して、ようやく事件を終息させた。この一連のできごとを勝井騒動(甲子の変)といい、対馬全体では200名以上が犠牲になった。

義達は、1868年(明治元年)には戊辰戦争に参加し、藩兵を率いて東上して大坂まで軍を進めた。1869年(明治2年)、宗義達は版籍奉還をおこない、新藩制により厳原藩と改称されて、厳原藩知事となった。これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。1871年(明治4年)7月の廃藩置県により厳原県となり、その後9月に伊万里県へ編入された。1872年(明治5年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに1876年(明治9年)4月三潴県に合併され、8月には長崎県の管轄にうつされた。最後の藩主となった義達は、名を重正と改め、華族令の施行された1884年(明治17年)には伯爵を授けられた。

明治維新後も対馬は国防や交易の最前線として重視された。1874年(明治7年)には、兵部省海軍部水路局によって厳原港の測量がなされている。1883年(明治16年)12月、門司税関厳原出張所(現厳原税関支署)が開設され、翌年の2月には「朝鮮貿易港」に指定されている。

町村制の施行

長崎県管轄になったあとの対馬には厳原支庁が置かれたが、1886年(明治19年)には対馬島庁と改められた。1889年(明治22年)4月1日に長崎県内において市制・町村制が施行されたが、対馬はこの対象から除外され[29]、東京都伊豆諸島(青ヶ島村を除く)、島根県隠岐諸島、鹿児島県三島村・トカラ列島及び奄美群島、沖縄県と同様に島嶼町村制が適用された。対馬においては1908年(明治41年)4月1日に施行され、上県郡に峰、仁田、佐須奈、豊崎、琴の5村、下県郡には厳原町のほか、与良、佐須、鶏知、竹敷、船越、仁位、奴加岳の1町7村が発足[30][31]。1912年(明治45年)に厳原町の一部と与良村を久田・豆酘の2村に分割[32]し、1919年(大正8年)に普通町村制が施行された[33]。対馬島庁は、1926年(大正15年)には対馬支庁に改称されている[28]。なお、1905年(明治38年)には上下県郡総町村立の対馬中学校(現在の長崎県立対馬高等学校)が島内初の中学校として創立された。

対馬要塞の建設バルチック艦隊

対馬・基隆及澎湖島砲台増築等新計昼ニ係ル諸費概算一覧表(1898年、陸軍省)

サンクトペテルブルクに建てられた「ツシマ・オベリスク」

対馬要塞
ロシアやイギリスをはじめとする列強の対馬接近に脅威を感じた日本政府は、国境最前線であった対馬島の要塞化を図った。
大日本帝国陸軍は、1878年(明治11年)には熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣していたが、1886年には陸軍対馬警備隊が置かれた。対馬要塞の建設工事は、浅茅湾防備のため1887年(明治20年)より着工した。
この工事は東京湾に次いで日本で2番目のものであった。1888年(明治21年)10月まで温江・大平・芋崎・大石浦の4砲台が完成し、日清戦争を迎えた。

大日本帝国海軍は、1896年(明治29年)、対馬周辺海域を防衛する要港部として浅茅湾に竹敷要港部を置いた。これは、日本海軍初の要港部であった。1898年(明治31年)以降1903年(明治36年)まで、四十八谷・大平高・姫神山・城山・折瀬ヶ鼻には砲台が、城山・根緒・上見坂には堡塁が築かれた。

日本海海戦

1904年(明治37年)には、日露戦争に備え対馬海峡の重要性から要港部司令官が親補職となり、幕僚として、参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長が配置された。また、バルチック艦隊から浅茅湾を防衛するため、郷山・樫岳・多功崎・廻の各砲台の建設に着手した(廻砲台の工事はのちに中止となった)日露戦争における日本の勝利を決定的なものとしたことで知られる日本海海戦は、海外では"Battle of Tsushima"(対馬の戦い)の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊の水雷艇が出撃している。この海戦の砲声は対馬に届いたといわれ、また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている。

1920年(大正9年)には対馬警備隊司令部を改編し対馬要塞司令部を設置している。こうした対馬全島の要塞化により昭和前期には対馬海峡全体の防衛が可能なほどであった。特に豊砲台には、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40センチメートル連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「摂津」の30センチメートル連装砲塔が設置された。

太平洋戦争後期には豆酸にレーダー基地が設けられ九州と朝鮮半島の間を監視した。また、対馬と九州の呼子と平戸、対馬と沖島、対馬と本州浜田の間に電波警戒機甲がもうけられ、通過する飛行機の警戒にあたった。なお、豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。

連合軍占領下

太平洋戦争後は連合国軍が進駐した。1945年(昭和20年)10月14日、戦争中の機雷による事故や銃爆撃を奇跡的に逃れていた九州郵船の旅客船「珠丸」が触雷の結果沈没し、545名を超える人命が失われる大事故があった(珠丸事件)。この日は、連合国軍総司令部による渡航差し止めが解除された日であり、珠丸は対馬経由で釜山港と博多港のあいだを航行中、旧日本軍の敷設した機雷に触れたものである。1946年(昭和21年)、戦時中の言論統制により離島新聞は廃刊を余儀なくされていたが、斉藤隼人によってタブロイド版の「対馬新聞」が創刊された。

対馬は現在も長崎県に属しているが、経済的にはかねてより福岡県との交流が密であり、戦後すぐに転県運動が起こっている。1946年には転県期成会が結成され、長崎県から福岡県への転県を国に働きかけた。福岡県議会では転県提案が可決されたものの、同年9月の長崎県議会では転県提案が否決された。それ以降も転県運動がつづいた。1949年(昭和24年)には、「対馬開発5ヵ年計画」が策定され、対馬町村会では、それを受けて対馬開発計画の実現のため転県運動中止を発表した。

1947年(昭和22年)9月には九州海運局厳原支局が、翌1948年(昭和23年)には厳原海上保安部が設置された。この年、済州島では韓国政府を承認しない島民が蜂起し、対馬では、それに対する韓国軍の鎮圧(済州島4・3事件)によって惨殺された済州島民の漂流遺体が多数収容された。

1950年(昭和25年)の朝鮮戦争、1952年(昭和27年)の李承晩による一方的な海洋主権宣言(いわゆる「李承晩ラインの設定」)など、極東情勢の緊迫化は国境の島対馬に甚大な影響をあたえた。

宮本常一と離島振興法

軍事要塞であった対馬は長い間開発が抑制されたため、本土より数十年遅れているといわれていた。戦後、民俗学的調査のため対馬を踏査した宮本常一は、厖大な民俗記録を記すいっぽう、あまりの開発の遅れに胸を痛め、離島振興法を制定するために奔走した。1953年(昭和28年)、長崎県知事の呼びかけにより東京都、新潟県、島根県、鹿児島県の知事が共同して「離島振興法制定に関する趣意書」を作成するなどの運動を展開し、同年7月、離島振興法が時限立法として成立した。

戦後の繁栄と衰退

詳細は「厳原町#歴史」、「美津島町#歴史」、「豊玉町#歴史」、「峰町#歴史」、「上県町#歴史」、「上対馬町#歴史」、および「対馬市#歴史」を参照

現代の厳原の市街地

厳原港では、1952年ごろから「片道貿易」と呼ばれる日韓輸出入が始まり、小型船が連日港を賑わわせていた。『つしま百科』(長崎県対馬支庁発行)によれば、最盛期の1960年には輸出額約9億8,200万円、輸入額約2億2,500万円を記録、町には20軒を超える貿易商社が立ち並び、遊興業も進出した。この日韓片道貿易は1961年(昭和36年)の朴正煕による5・16軍事クーデターによって終息した。

島内14町村は、1955年(昭和30年)から1956年にかけての昭和の大合併によって上県郡に峰、上県、上対馬、下県郡に厳原、美津島、豊玉の6町村に再編された。

昭和20年代から30年代にかけては、対馬がもっとも賑わった時代であった。西日本屈指の漁場をかかえる対馬近海にはサバ漁やイカ漁などのため遠方からも多くの漁船がおとずれ、各漁港や厳原の町も賑わった。さらに、山林にのこされた豊富な木材は製紙会社によってパルプ材として大量に買い上げられたため、林業収入も多かった。人口も6万5,000人を越えていた。

しかし、片道貿易も終息し、食生活の洋風化や200海里問題などによる水産業の不振、森林資源の枯渇、交通における航空機時代の到来などによって、1960年代後半以降の経済は衰退し、人口流出が顕著となって過疎化に悩むこととなった。生活道路などの整備が充分になされないなか、公共事業も削減されて苦境に立たされている。2004年(平成16年)3月1日には、対馬の6町すべてが合併して市制施行し、対馬市の1市体制となった。全島が山林におおわれ平地は少なく、農業は全般的にふるわない。明治時代まで山地の焼畑によるアワ、ヒエ、ソバ、ダイズがつくられたが、現在はコメのほか、普通畑による麦、サツマイモ、ジャガイモが主である。林業は、かつては薪炭材やパルプ材として利用されてきたが、今日ではスギやヒノキが重要性を増しており、ヒノキは「対馬ひのき」としてブランド展開されている。豊富なコナラの資源を利用したシイタケ栽培もさかんで、とくにドンコの品質には定評がある。

漁業は対馬の基幹産業のひとつで、伝統的に対馬近海や日本海でのイカの一本釣漁がさかんで、スルメが特産であった。タイやブリなどの一本釣漁、沿岸での定置網漁もおこなわれている。日韓漁業協定による共同規制水域の設定により出漁隻数の制限を受け、漁獲高は年々減少しており、アワビは密漁による被害を受けている。また、浅茅湾を中心に真珠の養殖がさかんであり、これは大正時代より始まったものである。

朝鮮動乱のなか対馬を踏査した民俗学者宮本常一は、鎌倉時代の宗家来島以来の古文書をもっている旧家が幾つかあることに注目し、全く同じ土地で600年もの間、人びとが生活し續け、しかも、中世の宛行状や安堵状にみえた田畑を今日まで作続けていることについて「世の中にこういう世界もあるのか」「中世がそのままといいたいほど残っている」と驚嘆している。しかし、宮本の言う中世とは厳格な史料批判に基づいたものではなく、歴史学の観点からは批判が多い。ただし、『忘れられた日本人』(1960)に収録された対馬に関する聞き書きは、村の意志決定過程や身分制度、女性の在り方などに関する貴重な記録になっている。

九学会連合対馬調査

対馬における本格的な民俗学調査は1950年から1951年におこなわれた九学会連合対馬調査にはじまる。調査報告書である『対馬の自然と文化』(1954)はその後の研究の基礎となった。その結果、対馬は、身分制度の本戸と寄留、聖地と村落の独自の構成、年齢集団や隠居制家族、親分・子分関係、天道(天童)信仰など、多くの重要な文化項目が認められ、民俗学的にきわめて貴重な地域であることが指摘できる。

対馬の社会構造

対馬では旧士族が村落に居住し、本戸(山林や海浜の共有権を持ち村落の社会運営にたづさわる家)や寄留(次三男以下、あるいはタビノモンと呼ばれる他から来住した者)などとともにきびしい身分制度があり、新戸(明治になって分家した家)もふくめ、村落のさまざまな権利関係や祭祀運営などにおいて特別な秩序があった。この身分制度は、東北日本型村落の親分子分による同族型(家連合)とは異なり、本戸の平等性を維持する。本戸の数が村ごとに一定数に定められていたのは、資源確保の意味があった。そして、隠居制家族や年齢集団などでは西南日本型村落の要素が強くみとめられる。

生業の特色

かつて重要な役割を果たした焼畑は今日では衰退している。また、壱岐・対馬・五島列島・山陰・北陸など広い範囲で活動した筑前国鐘崎の海人(海士・海女)は、中世前半に宗氏が鐘崎を領有していたところから対馬でも漁業権を得たものであるという。なお、江戸時代には、採集したアワビを乾燥させ、俵物などとして中国へ輸出することも多かった。

対馬方言

対馬方言は、九州方言に属し、かつては朝鮮語との関係を期待されて、その観点から多くの日本語との比較言語学的研究がなされた一時期もあったが、今日では語彙における借用語以上の共通性は見られないことが判明している。古くから対馬で言い伝えられてきた民話としては、「狐の仇うち」「夕影山の主」「美女塚」「京のさかづき」などがある。わらべ唄

対馬 姓

対馬氏(つしまし、旧字体: 對馬氏)は、日本の氏族、姓、苗字のひとつ。

同音異姓に、対馬、津島、津嶋、津嶌、対島、對島、都島がある。

越智氏後裔である伊予北条氏流河野親経に清和源氏頼義が子、源頼清が継ぎ、源姓河野氏となる。その子孫河野通員が對馬氏を称した。

清和源氏頼光流に連なる多田頼綱を遠祖とし、その子は山県国直を称し、その子国基が摂津国能勢郡(現大阪府豊能郡能勢町)を領して能勢氏を称し、その孫能勢高行の子孫が對馬氏を称した。

宇多源氏の流れをくむ佐々木成頼を遠祖とし、その曾孫は佐々木宮神主行定、その孫の佐々木成俊の子孫が對馬氏を称した。

藤原秀郷流近藤氏の流れをくむ島田景頼に藤原氏長家流武藤頼平が入り、その後裔である少弐経資の子少弐盛氏が對馬氏を称した。

陸奥国北部の對馬、対馬、津島の各氏の出自は各種言い伝えられている。青森県旧岩木町史[要文献特定詳細情報]に壇ノ浦で敗れた平氏の一族が對馬国に逃れ、後、蒙古襲来を避けて日本海を北上し、津軽深浦に漂着し、津軽に根付いたという説。

八幡太郎義家の嫡男で康和の乱を引き起こした源義親(平家物語)が對馬守であった時に儲けた子供たちが對馬氏を名乗り(『尊卑分脈』)、その流れに、尾張の津島神社の神官であった人が甲斐の南部氏に仕え、南部氏の北奥入部に従った。などが言い伝えられている[要出典]。現・青森県には對馬、対馬、津島がそれぞれあるが、元をたどれば同族と思われるが、別れてからの時代も長いため、関連は不明である
[資料ウイキペディア]

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■2023/9/10 一部改訂

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