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真相は、どこまでも深く深層

2022年10月06日

傀儡他力本願の自民党執行部か?

統一教会・文鮮明“お言葉集”発掘
「安倍晋太郎は私と契約書を書いた」
「福田赳夫と中曽根は私が首相にした」

2022/10/6(木) 6:12 配信 文春オンライン

〈日本の近代政治界において“文先生”の名前を抜けば暗黒です〉〈日本政界のトップたちはそれを知っています。「文先生の力が怖い」と〉(2003年9月24日/418巻)

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「文鮮明先生말씀(マルスム)(み言葉)選集」という本がある。そこに収録されているのは統一教会(現・世界平和統一家庭連合)を創設した文鮮明氏が遺した独善的な“お言葉”の数々だ。

中略

 主な内容は文氏による説法等の発言だが、その中に日本の政治家との繋がりを語っている箇所がある。韓国限定で発刊された冊子ということもあり、そこで語られているのは日本国内には漏れ伝わってこない放言のオンパレードである。
〈岸(信介)首相は霊界に行っていますが(亡くなっているの意)、その次に福田(赳夫)首相です。福田は、私が首相にさせたのです。中曽根(康弘)も私が首相にしたんです〉(98年6月10日/294巻)
〈私たちの計画通り踊らせる〉 まるで日本の歴代首相が自分の掌中にあったかのような口ぶりである。
 文氏が日本の政界に食い込んでいく原点は、統一教会が日本で宗教法人の認可を受けた64年に遡る。同年11月、教団は本部教会を世田谷区下北沢から渋谷区南平台に移転。その場所こそ、安倍晋三元首相の祖父・岸信介氏の私邸の隣。57年から60年の岸内閣時代に首相公邸として使われた建物でもあった。
 統一教会と岸氏の間を取り持ったとされるのが、戦前に右翼政治家として活動した日本船舶振興会会長の笹川良一氏。2人はA級戦犯の容疑者として収監され、親密な関係を築いていた。
 68年、文氏は日本と韓国で反共産主義の政治団体「国際勝共連合」を結成。日本の名誉会長に就任したのが笹川氏だった。
日本の統一教会系出版社が発行した「日本統一運動史」によれば、岸氏は73年4月、本部教会を訪れてこう話したという。
「笹川君が統一教会に共鳴してこの運動の強化を念願して、私に、君の隣りにこういう者が来ているんだけれども、あれは私が陰ながら発展を期待している純真な青年の諸君で……」
 文氏はこう明かしている。
〈日本の政治、政界の有力者である首相の岸信介という人を(略)笹川のじいさんと組ませて、私たちの計画通り踊らせるようにしておいたんですよ〉(69年5月12日/160巻)
 勝共に賛同した岸氏の自民党派閥を源流とし、後に清和会(現・安倍派)を立ち上げたのが、福田赳夫氏だ。福田氏は大蔵大臣だった74年5月7日、来日中の文夫妻が出席した晩餐会でこう挨拶したとされる。
「アジアに偉大な指導者現る。その名は“文鮮明”である」(前出・「日本統一運動史」)
日本の次期首相は岸氏の娘婿である晋太郎氏だと信じていた 福田政権の発足はこの2年半後のことである。
 福田氏と同様に文氏が〈私が首相にした〉と主張するのが中曽根康弘氏だ。
 中曽根政権下の86年7月、自民党は衆参同時選挙で衆院の獲得議席が300を超える圧勝を果たす。文氏は、その半数近くが自分の支援した議員だと言い張る。
〈中曽根の時は(略)、130人の国会議員を当選させ、20ある国会の委員会のうち、13の委員会の長は、私が立てた人になりました〉(04年9月16日/468巻)
 だが一方で、中曽根氏についてはこうも語る。
〈中曽根が私の世話になっておきながら私に嘘をついて、日本の国会を台無しにしたんですよ〉(91年2月2日/214巻)
 87年10月、中曽根氏の総裁任期満了にあたり、安倍晋太郎氏、竹下登氏、宮沢喜一氏が自民党の次期総裁に名乗りを挙げた。だが総裁選は行われず、中曽根氏が後継者の指名権を掌握。竹下政権が誕生した。いわゆる「中曽根裁定」だ。
 文氏は日本の次期首相は岸氏の娘婿である晋太郎氏だと信じていた。選集では、実現しなかった理由を中曽根氏が金に転んで裏切ったためと主張している。首相を〈200億で売られた〉〈本来は中曽根が中心になって、安倍晋太郎という人が(次の)首相になることになっていました。ところが、首相を選ぶ5分前に、200億(注・単位不明)で売られたんです〉(同前)
 晋太郎氏とはこんな“契約”を交わしたと暴露する。
〈安倍晋太郎は私と契約書まで書いたのです。これを発表すると、世の中がひっくり返ります。その時の約束はというと、自分が首相になれば、80人から120人の国会議員を連れて漢南洞(文氏の自宅があったソウルの地名)を訪問するということでした〉(95年10月22日/273巻)
 岸氏の系譜にあり、福田氏から清和会領袖の座を継いだ期待をかける人物――晋太郎氏が日本の宰相になれなかったことがよほど悔しかったのか、文氏は後年も中曽根裁定への恨みをしつこく繰り返している。
〈(晋太郎氏は)自分が首相になるためには、夜も眠らずに中曽根の金玉を握って寝なければならないのに、勝手をして売られました。中曽根の後継者は誰になったっけ? 竹下か誰か〉(04年7月31日/463巻)
脈々と続いてきた自民党と統一教会の近すぎる関係 文氏は92年3月20日に栃木県内で起きた金丸信・自民党副総裁(当時)銃撃事件にも言及。
〈金丸は私と会う約束をして招聘した人です。約束した1週間後に銃撃事件が起きたのです。(中略)5メートルの距離で3発撃たれた銃弾は、体に1つもすれ違うことなく、どこかに行ってしまいました。その人が死んだら、私は日本に入れないのです〉(92年4月3日/228巻)
 84年に米国で脱税の実刑判決を受けた文氏は本来、入管法の規定で入国できなかった。だが、政界の実力者だった金丸氏の働きかけで、92年3月26日、文氏は超法規的に来日を果たしている。前出の銃撃事件は、90年の金丸訪朝を“土下座外交”と見なした右翼団体の男に至近距離から発砲されたものだが、金丸氏は無傷だった。
 それから30年後。金丸氏と同じく至近距離から放たれた凶弾に斃れたのが、岸氏の孫であり晋太郎氏の息子・安倍晋三氏だった。文氏は、晋三氏についてこう触れたことがある。
〈私に後援して欲しいということです。日本の官房副長官(当時)が安倍晋太郎の息子なんですよ〉(03年1月17日/402巻)
 登場人物が悉く故人となっている今、選集に残された発言の真偽を確かめることは困難だが、教団の信者にとっては事実として認識されているのか。統一教会に聞くと、こう回答した。
「語られはしたものの、実現していないものは総裁の発言に過ぎず、信徒にとっても歴史上の事実とは認められていません」
 教祖が遺した言葉の数々は、脈々と続いてきた自民党と統一教会の近すぎる関係を示唆している。
柳 錫/週刊文春 2022年9月29日号



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