音楽と感情と理性について
高校生ぐらいまで、自分は音楽を奉じる人間ではないと思っていた。耳に物を入れていいときは常にイヤホンを入れて何かを聴いていたし、音楽の授業も取れるだけ取っていたが、それでも。
だから、しばしば親や学友に「感情がこもっていない」「(恋の歌なのに)恋をしているように見えない」と言われても、足掻くこともせず、真意を掴むこともできなかったのである。
今日は久しぶりにカラオケに行った。フリータイムで6時間。なんとなく当時好きだった曲を歌って、高校時代を思い出した。
今の私は歌に感情を込めようとはしなくなった。
かわりに、計算をする。
たとえば、気持ちのいい力の込め方を探る。言葉の鼓動と呼吸を対応させる。開放的な歌詞なら目一杯響かせて、抑圧を持て余す歌詞なら丁寧に歯痒さそうに。胸躍らせる歌詞なら、軽やかに。爽やかな恋をしていなくても、未練たらしさに共感できなくても、命を燃やしていなくてもそういう歌を歌う。
歌で感情を伝えられなかった当時も、感情がなかったわけではない。それが歌いたくて何度も練習したし、歌えることは嬉しかった。ただ、感情を伝える手段は知らなかったらしい。
ラブソングをラブの気持ちで歌わないことを自覚し、時に作曲者への申し訳なさすら覚える一方で、歌の楽しみや高揚感は増し続けている。むしろ割り切って色々な言葉を代弁するからこそ、色々な歌に出会えるのかもしれない。
歌は感情的にならなくても楽しい。6時間も歌うと、自分の声を俯瞰できるようになってくる。音割れせず、マイクが拾えないわけでもないちょうどいい領域を一番耳心地のいい声で慎重に進むのが楽しい。感情で押し切らず、理性でしっかり支えた上で機微を乗せる。
力や安定の悪癖が手に取るようにわかるのもよい。悪いところが直れば、きっともっと納得のいく歌が歌えるから。自分の歌に不満を感じられるくらい冷静に分析できるこのときが、一番自分の歌を好きでいる気がする。
散々感情論を否定したが、歌は感情的に歌うのも楽しい。私はそこまで歌詞に感情移入をしない方だと自覚しているが、今日はSHISHAMOの『明日も』を歌っていたら歌詞がいやに心に染みてしまい、なにも考えずに歌いたいままに歌ってしまった。その時の自分の歌は分析できないし思い出せないけど、それはそれで気持ちが良かった。好きな歌なので何度も歌ってきたし、これからも何度も歌うと思う。
高校時代に好きだった歌をまた歌って、当時からの脱却を実感した。また好きな歌が増えた。
歌の美味しいところをいくつも味わった。今日はいい日だった。
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