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その「ダメ」はだれのため?

友人の子どもがかわいくて仕方がない。友人と遊ぶ予定だったのに、友人そっちのけで子どもに遊んでもらっていることもあるくらい。
ちょっと席を外すから見ていてね、と言われて「いいよー」とうなずく。

先日友人の子と遊ぶ機会があった。
友人は、目が余分にあるなら最大限利用させてもらおうの精神なのか、「子ども、ちょっと見てて~」と席を外した。
自宅で遊べる小さなすべり台。
自分がすべるよりも物を滑らせるのが楽しいんじゃないか?というくらい、子どもはボールをすべらせていた。弾むもんね……にこにこ見守る。
そうしてそのうち、その子が少し大きめの車を滑らせたりするのは、まあタイヤあるしな……、シャボン玉の容器を滑らせたのも、まあ蓋してあるし円柱だからいっか……、シャボン玉製造銃も……ちょっと微妙だけどまあいっか……などと見守っていたのだが、シャボン玉の溶液を浸したままのプラスチック皿を流そうとしたのにはちょっと待ったー!!!!と内心で叫んだ。
思わず滑らせようとする子から、プラスチック容器を預かり、「これはね、ダメかな」と目を合わせて言った。子どもに首をかしげられた。「こっちはいいけど、これは困っちゃうからダメ、かな……やめとこ?」と言った。伝わったのか興味をなくしたのか、友人の子は違うものへ視線をやった。
シャボン玉の溶液をぶちまけずに済んだことにはほっとしたけれど、ダメと言ってしまったことが急にこわくなってきた。

戻ってきた友人に、シャボン玉溶液が入った容器をすべり台ですべらせようとしたので強めにダメと言ってしまったことを報告した。
友人の返事は「えっ、なんで?」だった。
注意しなくてもよかったのに、という意味合いのなんでだった。
シャボン玉溶液がこぼれちゃうとまずいかと思って、と重ねた言葉はたぶん言い訳にしか聞こえなかったと思う。
「そうなのー? 気にしないのに」
のんびりと友人は言った。ごめん、と言えたか、おぼえていない。言うならば彼女だけでなく、彼女の子どもに言わなくてはいけなかったろう。

すべり台がシャボン玉溶液にまみれたところで困ることはきっと、そんなにない。洗い流せばいい。ふけばいい。
さすがにシャボン玉溶液にまみれたすべり台で友人の子どもが滑ろうとしたら、間違いなく友人の手間が増えるだろうから抱き上げるなり、他のものへ関心を寄せてもらったりしてもいいだろうけれど。
けがをしないように、とか、痛い思いをしないように、他の人を傷つけないように、といった明確な「ダメ」ではなかった。
口を出すべきじゃなかった、余計なことをしたという後悔でいっぱいだ。「ダメ」という言葉を、しかもこれは、見ていた私がのちのち面倒なことになるのが嫌で自分のために使ってしまったということを理解してしまったので、今はとても恥ずかしい。

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