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「幸せ」の定義

「幸せ」ってなんだろうな、と思う。
タイトルには定義だなんて大それたことを書いてみたけれど、「まぁ、こういうものじゃないか」っていう自分の感覚的な話なんじゃないか、とも思っている。


この書き手の方の文章、とても読みやすくて好きだ。
ほつほつと落とされる主題とその考え方に、「ああ、なるほどな。私もそういう主題で考えてみたらどうなるだろう」と我が身を思わず振り返ってしまう。
自分が考え込んでしまう性質なので、だれかの、「これってどういうことだろう?」という問いかけは、とても貴重で、とてもありがたいものだと思ってしまう。
この書き手の方が行き着く思考の先や結びの言葉に、いつも私は感服させられる。
思考の過程が丁寧なのと、やわらかい言葉遣いに、ああいいなあと思ってしまう。
更新を楽しみにしている方のひとりだ。


幸せ、ってなんなのだろうなと思う。

物事の定義を考える時、それは自分自身が主観的に捉えるのか、それとも客観的に捉えるのかでも違ってくるのだろうかという気もする。
特に感情が入るものの場合だとか。

幸せって、少なからず感情が入ってくると思う。
主観的であれ、客観的であれ。


「幸せ」を主観的に捉えるのならば、たとえばこんな風になるのだろうか。

「今朝起きて、あたたかい緑茶を煎れた。湯呑に顔を近づけるまでもなく香り立つとはこのことかとうれしくなる。中にはきれいであざやかな緑色が広がっていた。湯呑で指先をあたためながら、しあわせってこういうことなのかなと思う」

「ゴミ出しに外へ出たら、澄んだ青空が広がっていた。水色を溶かしたような。山の端へいくほどに透明になっていく。きれい。そんな空へはぽこぽこと白い雲が連なっていて、思わず笑みがこぼれる。ひつじみたい。あ、幸せかも、と思う」

感情的かどうかはちょっと怪しいけれど、自分がいいなと思ったことに対して素直に「よいことだ」と理由づけて「これって幸せかな」と結び付けられるのは健全なのだろうなと思う。
このいいなという感情は、私は「こう思う」「こう感じる」という連なりだと思う。
私が。
私は。
自分自身が主体的に、主観的に捉えたものであって、だれの考えに影響されることも、なにかと比べることもない。
まっすぐなもののような気がする。


対して、客観的な幸せってどんな感じになるだろう。

なにかと比べることが多いんじゃないかなと、私は思ってしまう。
自分自身に言い聞かせるような。

「あの人に比べて、私は恵まれている。だから、幸せだ」

たとえばそんな風に他人と引き比べてみたりして、自分の位置を探るかのような。
相対的に見たときに、その人の心の在り方がどうなのか知りもしないのに、「いいな、あの人は幸せそうで」などとねたましく思ってしまったりもする。
きっとそこにはもの悲しかったり、どこかみじめなような、自分自身のネガティブな気持ちがたまってしまっているからだと思う。
他人を見てうらやんでしまうような、余裕のなさが自分自身をよりいっそう、下に引きずり落とすようなことをしてしまう。

あるいは、自分自身の見たくもない現実から目をそらす、気をそらすために「私は幸せなほうだ」と言い聞かせてみるとか。
自分はそう思うのだと取り繕って、もしもそれで気分が上がるのならば、だれかと比べるのも悪くないかもしれない。
でも、そうでないのなら、周りを見回すことをやめたほうがいいのだろうな。


いま、幸せかな?と自分に問いかけた時に、ふっと考え込んでしまうのは、わずらわしい何かに目がくもっていたり、頭がいっぱいでごちゃっとしていたりして、だからこそうまく答えられないのかなと思う。
なにかに困っていないのならば、きっと「うん、幸せだよ」ってすなおに答えられる気がする。


これを書いている私は、幸せだろうか。

変な時間に眠り込んで、変な時間に起きてしまったけれど。
お気に入りのほうじ茶を入れっぱなしにしてしまって、味が渋くなってしまっているけれど。
noteの記事を初めて二日サボってしまった現実に震えているけれど。

三日めには突入しなかったから、いいことにしよう。そうしよう。

そういう風に、少しだけのんきに構えることができるようになったこと。
少し前の私よりもだいぶおだやかな心で自分を振り返れるのだから、たぶん幸せなのだろうなと思う。

こんな時間だけれど、ちょっとばかしずるをしてお湯をわかして、ほうじ茶を入れなおそう。
つめたくなってしまった指先を、あたたかなマグカップを抱え込むこと。
私のちいさな幸せのひとつだ。

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