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そんなことする人だとは思わなかった

この言葉が嫌いだ。
人は見たいものしか見ない。見たいようにしか見ない。見えるものが真実だという人もいるが、それはあなたにとっての真実であって私も同じものが見えているとはかぎらない。
自分が自分であるかぎり、相手も相手でしかなくて、つまるところ、自分の一部を引っ張り出してコミュニケーションをとっているにすぎない。
だから自分が思っている自分と、相手から見える自分は違っていて、当然のごとく想像しもしなかった相手の一面にぶちあたることもある。当たり前だ。別の意思を持った、別の人間なのだから。

とはいえ、そんなことする人だとは思わなかった、という言葉が連想されたのは、正直なところ自分でも嫌になる。
そんなことをする人だろうと思わないではなかったけれど、まさか本当にそれをしてしまうんだ?という半ば怒りと驚きと、悲しみからの逃避で思い出したのだった。

簡単に言うと、私の捨てられたくない物を捨てられてしまった。

捨てられたくないものを放置しておく方が悪いだとか、わかりにくいものを放置するなだとか、片づけてやったのに文句を言うのかとか。
まあ、実際は想定されうる会話のパターンをいくつか用意して傷心の自分がいかに傷つかないように念入りに考えてから話しかけたのだけれど。
だから上のようなことは一切言われてはない。言われたらさすがに怒ってたかもしれない。でもまあ、そういうことを言いそうな人にあっけなく捨てられてしまっていたわけで。

覆水盆に返らずが痛いほど身に染みているので、起こってしまったことをとやかく言いたくはない。
本当、他人を慮れっておおげさに言う人間ほど機微がわからない人間もいないのだろうか。慮れって説教するならあなたも少しは学んで、と思う。
同じことをされたら間違いなく怒るのに、他人に対して自分がやられたらいやなことを平然と行っておきながら「なにが悪いの?」みたいな顔をしている。ぜったいわかってないですね、あの顔。

いくつもの会話パターンを想定していったこともあるが、相手とはいちおう問題なく会話は終了した。
会話をしながら私自身が捨てられてしまった悲しみと真意が通じそうもない不毛な会話の結末を憂えたことを同時に思い出してしまい、動揺のまま言葉を紡いでしまったため、相手がどうやら気圧されたらしい。うっかりとはいえ、涙のにじんだような声には責め立てにくいよね、そりゃあ……。

捨てられたことに対する怒りや悲しみよりも、捨てられたことに対して意見しようとするために、相手が怒った場合の対処法を脳内で考えてから会話をしなくてはならなかった!というところに私はいちばん疲れを感じている。
おかしいでしょ、私が怒っていい場面なのになんで相手が怒ること前提で話をすすめなきゃいけないの。
この場合相手の機嫌をとりたいでもなく、ただただひたすら、怒らせたあとがとてつもなく面倒くさいから、という理由っていうのが腑に落ちない。

相手が何を考えているのかなんて、わからないことのが多いという。
そして、自分の考えが正しく相手に伝わっているとはかぎらないと知っている。
だからコミュニケーションをとるし、自分が想定していた相手の反応がすこしでも違えば印象を更新して、この人はこういうことが好きなんだ、嫌いなんだ、などといったことを覚えていく。
相手が自分の思っていたような行動をとったとしても、とらなかったとしても、相手がどういうことをする人なのかをひとつずつ知っていく。いいことも、わるいことも。

そんなことをするかどうかはわからない。するまでは。
してしまったとしても、ただただ情報が更新されるだけで、「そんなことする人だとは思わなかった」なんて言葉にはならないし、「そんなことする人だとは思わなかった」とも言わない。

――そんなことする人だと思ってた。

日頃想定されうる範囲であれば、間違いなくそう漏らすだろう。
起こった出来事に便乗したいわけではなく、ただただ自分の所感として。

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