「団地」という言葉ひとつ

集合住宅に住むことを「団地に住む」と呼んでいた。
子供の頃はなんとなく「団地」というかたまりがあって、そこに住んでいる子がいるんだって思っていたし、それはそういうものとして認識されていた。

小学生の高学年か、中学生の頃だったと思う。
だれにもらったのか、どうしてもらうに至ったのか。
とんと覚えていないのだが、無料で「同和問題」についての本をもらった。人権啓発の本だった。
そこに書かれたことによると、地域によっては「団地」という言葉が差別用語として用いられてしまうということを知った。(もちろんほかのことも説明されていたけれど、今回はそこに主軸をおかない。)

私は小中学生向けに書かれたその本を読み切って、どう思ったのかというと。

「この差別を知らなければ、私は差別をせずにすんだのではないか?」という思いと、「差別されたこと(歴史)を知らずに生きていくのも、それは悪ではないだろうか」という相反する気持ちだった。

読み終えた私は、どうしたらいいのだろうと途方にくれた。

在宅していた母に「同和問題についての本を読んだんだけど」と告げると、記憶が正しければ、母はきまり悪いような、あまりいい返事をしなかった。たぶん、内容が内容だったので子どもに説明するのが嫌だったんだと思う。
よく覚えてないのだが、父に訊くように、と言われた可能性もある。

私のもやもやとした気持ちはぬぐいされなかった。
仕方なく私は、日曜休みの父を捕まえて問いかけたような気がする。

「同和問題って知ってる?」とだけ。
本を読んだことは真っ先に伝えずに。
母の反応から、なんとなくばつの悪いような気がして、後回しにした。
結果を先送りにしたのだ。

確か、晴れた日の和室だった。
南側の大きい窓から光が部屋に差し込んでいて、私は畳の色がまだまだ色褪せていなかったことを覚えている。
本は、新書サイズだった。

父はというと、「そりゃあおまえ、むずかしい問題だ。なんでそんなこと聞いてくるんだ?」という風な返事をした。
本の表紙を見せると、「えぇ……?」とは声に出さなかったものの、「いったいぜんたい、どうしてそんな本持ってるんだ」っていうようなことを私へ投げかけてきた。たぶん、困っていたのだと思う。

当時の自分がどう父に話をしたのかわからなかったが、本を読み終えたこと、実際に同和問題が存在するのか、父の知るところでそういったことはあったのか、私の住む地域の「団地」はこの本にある「団地」のことになりうるのか。
……そんなことを、言葉にできるかぎり、伝えたのだと思う。
父は難しい表情をして、確かにその本にあるように「同和問題」という言葉があって、実際に差別というものがあることを教えてくれた。
ただ、私たちの住んでいる地域ではおそらくほとんど関わることがないだろうこと、父の知るかぎりでも同和問題に触れたことがほとんどないことを話してくれた。
ただ、父は、おしまいにするとき、こう言った。
「それを読んだからといって、知ったような気にならないように。それに書いてあること全てが正しいとはかぎらない。正しくはないとは言わないが。その問題については、少し置いておきなさい。団地という言葉についても過敏にならなくてよろしい」


あれから二十年以上経つけれど、だれからもらったともしれない本はどこへやってしまったのかわからない。家の中にはあるのだろう。
「差別」という話題に触れるとき、不意に思い出す。
……内容とは別に、私はむかしから面倒くさい子どもだったのだなあと。
今の自分が、だれかしらの子どもに「同和問題って?」って突然聞かれたときに、うまく答えられる自信がない。
父は、わりと、真剣に答えてくれていたのだなあと思うのだ。
雑な知識ですらなく、変に差別を助長するようなことを言うのでもなく。
時間ぐすりに期待をするという点では保留にしたところはあれ、まあまあいいところで話を落としたような気がする。


さて、ここ一年くらいの間で、noteでだったろうか、無記名はてなブログ記事だったろうか、被差別部落とされる地域に住んでいた方の記事を読んだはずだ。
いつ読んだのか、記事の細かいところもうろ覚えでいるのだれど。
記事を書いた方は生まれた土地を離れ、差別とは距離を置いているのに、「知らなければ差別をしなくて済むはずなのに」といったようなことと、「けれど差別を知らないままでいることに対してどこか怒り?を覚える」といったようなことが書かれていた気がする。

差別された地域に生まれ育った人がそういう相反する感情を抱いていること。
それが、昔、自分が読んだときに抱いた感想に近しいような気がしてしまって、なんとなく忘れられずにいる。


夜更かしをするつもりだったのにうっかり眠ってしまって、こんな時間に目が覚めたら、唐突に思い出されて、なんだかわからないけれど、書きたい気持ちになった。
何が正しいとか正しくないとかははっきりしているわけではない。

私は今でも「差別」がわからないと思っている。
ただ、ひとつ確かなことは、「差別」とは無関係に生きられないのだろうなということだ。
「差別」をしないようにといくら願ったとしても、きっと比べてしまう心があるのを、私は認めずにはおれない。

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