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許してもらいたかった

高校生くらいの頃だったと思う。自分が相手に求める基準というのが、「許容できるひと」だった。
息苦しかったのだろうか。
今となってはその辺りの感覚はうろ覚えなのだけれど、ともかくも「許容範囲が広いひとがいい」と事あるごとに言っていた気がする。

私の母は許容範囲の狭いひとだった。
正確に言うと、自分が許したものしか認めないひとだった。

高校生の頃、精神的に参ってしまうようなことが重なったのか、それとも私がうまくストレス発散できなかったのが降り積もってしまったのか。
この頃の記憶があまりないのだけど、当時倫理の授業を受けていた私は、自分のことを、カウンセリングへ行った方がいいんじゃないかとまで思った覚えがある。
まだ、鬱病に対するイメージが今よりも浸透していなかった頃だ。

苦手な母に対して、「カウンセリングってのがあって」と話し始めたのだ。
カウンセリングに母も連れて行きたいと思ったのだろうか。
今思うととてつもなく不思議でたまらないのだが、苦手としている母相手によくそんな話題を振ったなあと思う。
母はカウンセリングという言葉を聞いた途端、顔をしかめた。すごく嫌そうな表情をした、という記憶がある。返って来た声も普段のよりも低くて「それが?」とけんか腰のようだった。
私は開きかけた口を、震えそうになるくちびるをぐっと噛み締めた。
そのあと、どうしたのか少しあやふやだが、ついには「カウンセリングに行こう」とか「カウンセリングに行きたいんだけど」という言葉は私の口にはのぼらなかった。

言えなかった。

なんとか取り繕って。
ひとり、部屋に戻って、こっそり泣いた。



その数年後のことだ。

私の同級生に、鬱病を患って社会に出ていないという子がいるらしいと母づてに聞いた。
とても内気な子だったよなあ、と私は思い出した。やさしくて、ほんのすこし細い声で話す思慮深い子だった。
その子は今は人付き合いを避けて、実家に暮らしているらしかった。

「カウンセリングにも行ってるんですって」

かわいそうに、とか、きっとたいへんよね、と声音に情をにじませた母がいろいろ言っているのが聞こえたが、私は上の空だった。
許せない。
目の前の母をどうしてやろうかと熱くなる目元、腹の底はぐるぐると黒いもので煮えたぎっているようだった。
あのとき、あの高校生の私は、母に許されなかったのに、と強く思った。
いきどおろしかった。

高校生だった私は、自分が心配するほどではなかったかもしれないし、何かする必要があったかもしれない。
カウンセリングなんて必要でなかったかもしれないし、必要であったのかもしれない。
かもしれない、という可能性でしかない。
けれど、ただ、あのとき、私の話を、言葉を、聞く前から聴きたくないと態度からすべてを拒絶した母が、今になって友人親子が苦労しているからと情を寄せるのかと。
……許せなかった。

母の周りで、鬱病を患った私と同年代の子が年々増えて行ったからだろうか。
母の中で、母の常識が塗り替えられざるをえなかったのだろうか。


許容範囲が広いひとがいい、と言った私は、許容範囲が以前よりはるかに広くなった母を未だに好きになれない。
のろわしいと思いながら、母を見る。
どの口で、それを。

許してもらいたかったときに許してもらえなかった。
ただそれだけで、私は、母のことが。

こどもじみているとも思う。

けれど許してもらえなかった私は、あの時にずっと取り残されている。

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