自分、成長してないのだろうか。

誕生日を迎えるたび、新年を迎えるたび、ああ一つまた年を取ったんだなあとしみじみ思う。しみじみ思うわりに、年齢を数え間違えている。

おかしいなあ。
父に「おまえ、○○歳だろう?」と自分の実年齢+αだと言われた時にはすっぱり「違うから。○×歳だから」と即座に否定できたのに。
だれかに改まって「いくつだっけ?」って聞かれると、「えーと今は2020年なので……」などと引き算を始めようとする。

自分の精神年齢を、なんとなく、大学を卒業したときから+3歳くらいにしか思えていないせいなのかなと思っている。
いろいろ理由があるなあとも思っているけれど、一番の理由としては、自分が成長したと思える出来事に出会えていないからなのかもしれない。

成人してから「成長したなあ」って思える出来事、あっただろうか。


私が大学を卒業してから、初めて派遣社員として働いた場所。
そこを辞めたときが最高潮だったのではないか、って思っている。
あの場所は時給×××円で約3年間働いていたのだけれど、正直、いや、あの金額で働くには本当に本当に割に合わない場所だったと思っている。
なんだろう、人間をつかい潰すための場所?
不機嫌さを隠しもしない人たち、責任のなすりつけあい、噂話。人を人とも思わないような場所。

働いていた場所は病院という場所だったけれど、働いている人たちの人間性って本当にピンからキリまでなんだなって思った。
病院って人を救う仕事だから、もっと倫理性や価値観が高いかと勘違いしていたけれど、結局のところ、人それぞれ。環境次第。
まぁ、人柄がいい人の集まりであれば環境としてよくもなるし、悪ければそれ相応に悪くなっていくんだってことを身にしみて理解させられた。

私が働いていた頃には最短1日でバックレっていう子がいたけれど、それもやむなしかなあって思う。
人間性の掃きだめ、坩堝。
ここまで人間って横暴になれるのかってこと、嫌ってほど体験した。

入って来たときには腰の低くてやさしかった子が、環境に慣れて行って横暴さを見せるようになっていったことにかなしみを覚えたこともあった。
もともと横暴な素質があったというよりも、横柄さを出すことにためらいを覚えなくなる環境だったのが大きいと思う。


さて。
私が辞めるときに、比較的親しみを感じていた看護師さんがこんなことを言った。

「こんな場所で働けてたんだから、あなた、どんな場所にでも行けるわよ」

そう言って、太鼓判押してくれた。
私などより過酷な業務をしている尊敬する看護師さんにこう言ってもらえたこと。
……涙が出るほどうれしかったのを覚えている。

初めて入職してからさんざっぱら迷惑をかけまくり、呆れの溜息をつかせたこともあったろうが、この看護師さんはとても人を遣うことに長けていた。
できないことはやらせない。
できたらちゃんと褒める。
できなかったことはきちんと叱る。
……この人がいてくれたから、私はここでがんばっていこうって思ってたんだよなあってこと思い出す。

私は、この人の元で働けたことがすごくすごく自分の為になったと信じている。


思い出してみて思ったけれど、病院で働いて以降、ものすごくがんばったってこと、あんまりないなあって気づく。

就職するときにまず、自分ができないことへ挑戦することが怖い。
できることを適切に主張することも難しい。
できたこと、やってきたことから、仕事を選ぼうとする。
……冒険心がない。

ああ、自分、成長してないんだなあって思い知らされる。


ところが、日常的にやっている母との会話の応酬に関しては、日々、自分、成長してるなあって思ってしまう。
いや、大して熱もいれてないし、がんばっているわけではないんだけれど。
子どもの頃よりもだいぶ察しがよくなったし、母の考えていることへの場合分けや想像が昔よりも早くなった。
油断していると……いや、気を遣わないと失敗することも多いけれど、でも、立ち直りというか、取り為すことは格段に上手になったと思う。

まぁ、対母専用の応対方法なんて、覚えたところで、現実社会ではなんの得にもならない。
でも、応用が利くという点において、これは無駄ではなかったなあって思った。
失敗したやりとりを反省して、次の対応に活かす。
この考え方を続けてきたおかげで、私は人よりも経験値を積んでいると自負している。決して人さまに自慢できる内容ではないのだけど。


自分、成長してないだろうか?
初めにそう自問してみたけれど、自分が心配してたほどでもないのかも。
ぐぐっとわかりやすい成長はないけれど、じりじりと少しだけ、まれに成長しているらしい。
いちおう、自画自賛しておこうっと。

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