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快適なおうち 7 (マナベミユ)

第7回<マナベミユ>

これで大丈夫。
 マナベミユは、カツラギユウトにメッセージを送信したあと、ふう、と大きくため息をついた。スマホを鞄に戻し、暗い玄関で、しばらく床に座って目を閉じていると、メッセージの着信を知らせるバイブの鈍い音が響いた。急いでスマホを取り出したが、届いていたのは、「満足度90%!」と銘打たれた基礎化粧品の広告で、マナベミユは舌打ちをしながらその画面を閉じ、自分がカツラギユウトに送ったメッセージの画面を開いた。

《さっきは取り乱してごめんなさい。突然あんなこと言うからびっくりして。私、ビデオなんて出てないです。さっき、驚いて会話を合わせてしまったけど、そんなの出てないし、人違いです。でももし、カツラギさんが本当に私としたいと思ってくれてるなら、いいよ。公衆便所でも、私は大丈夫。》

 メッセージの横に「既読」の文字はついておらず、カツラギユウトは、このメッセージをまだ読んでいないようだった。マナベミユは苛立ちはじめる。一体、何をしているのか。ふと、妻と夕飯を囲んでいるカツラギユウトの姿が浮かんだ。清潔に整えられた明るい部屋の中で、ダイニングテーブルにつき、妻の作ったあたたかい料理に箸を伸ばしながら、妻と談笑している彼の姿が。
 次第に、スマホを握りしめる手が震えてくる。熱い。ありったけの力を込めて、カツラギユウトを、初めて人をぶった感覚が蘇っていた。マナベミユは震える手でスマホを鞄に戻したが、手の震えは収まらなかった。
 心の中がもやもやしていた。一体、自分は今何を考えているのだろう、と思うが、うまく整理できない。カツラギユウトに好かれたいのか、好かれたくないのか。セックスしたいのか、したくないのか。彼の妻が妬ましいのか、そうでないのか。すべて合っているような気もしたし、間違っているような気もした。ただ、わかるのは、そうした混沌を、カツラギユウトに対する熱い怒りがすっぽりと包み込んでいて、自分のからだを震えさせている、ということだった。
 そのとき、複数の消防車のサイレンの音が近づいてきて、すぐに遠のいて行った。マナベミユはおもむろに立ち上がり、パンプスを履いたまま、よろよろと部屋の中に入ってカーテンを少し開ける。遠くの方で、炎がゆらめいているのが見えた。
 輝くような炎だった。マナベミユは炎を見つめながら、ぼんやりと自分が大学生だったころを思い出した。楽しかった。あのときは、本当に毎日が楽しかった。
 でも、もう遠い、と思った。あの頃は、今の自分から、遠い場所にある。戻りたくても戻れない。だったらもう、このまま、生きていくしかないじゃないか。
 一層、勢いを増す炎をみつめながら、マナベミユは、明日仕事が終わったらカツラギユウトを待とう、と思った。公衆便所でもいい。快適な場所じゃなくてもいい。どこだっていいから、いままでのカツラギユウトではいられなくなるような、燃えるようなセックスをしてやる。
 マナベミユはその場でパンプスを脱いだ。もうからだは震えてはいなかった。続けてデニムとシャツを脱ぎ、思い切って下着も外した。カーテンを思い切り開く。見たければ、見ればいいと思う。誰に見られたって恥ずかしくないくらい、わたしは魅力的なからだつきをしている。

次回へ続く
#小説

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