見出し画像

【読書】 平成30年度文部科学省検定不合格教科書①

本書は神道や神話、天皇などGHQの統治下において教科書には詳細に書くことができなかった部分を中心に日本史の中学生を対象とした歴史を書いている。特に古代となる縄文から古墳時代までの考古学的見地からの従来の教科書的内容ではなく、古代から歴史的視点から記述している。初代神武天皇から脈々と続く天皇を日本史の軸においていることにより縦の歴史の流れが見通しやすい。

農耕が始まると土地や水の利権を巡って争いが起きる。集落を守るために堀や柵を巡らせた環濠集落ができた。有名なのは吉野ヶ里遺跡。弥生時代になると青銅器と鉄器も使用され利用になる。農具、祭具、武器に利用されていく。
吉野ヶ里遺跡は海まで水路で繋がっていた。そのために農業に加えて漁業もしていただろうし交易もやっていたと思われる。

中国では秦が統一し文字と貨幣も統一された。わずか15年で滅んだが。日本はまdq文字がなかった。しかし中国で日本のことが書かれていたので中国を通して日本を知ることができる。弥生時代後半、つまり2世紀後半に日本で大乱が起きたと伝えている。このことと防衛を意識した高地性集落や環濠集落が出来たことが状況として一致する。

ところで日本書紀は神武天皇の御即位を紀元前660年元旦としている。これを根拠に太陰暦を太陽暦に換算した2月11日を建国記念日としている。
古事記には国譲り物語など神々の話が書かれているが重要なのはそこに書かれていることが事実かどうかではなく、長年伝承されてきたという事実の方である。

前方後円墳の出現は、それほど大きな建造物を作らせることができるような権力を持った国、大王が存在していたことを示す意味で重要である。この大きな権力を持った最初の国が大和朝廷だと思われる。時代としてはおよそ2000年前程だと考えて良い。

不思議なことにこの時代になってもまだも文字が使われていなかった。中国大陸は国内が分裂状態にあり日本の記述がある資料がない。唯一、百済が日本の天皇に送った七支刀銘文と、高句麗の好太王碑文に日本のことを記述したぶんがあるだけだ。なので4世紀ごろの日本のことはほとんど分からない。

(というか文字もなく大和朝廷はどうやってそれなりの範囲を統一していたのだろうか)

前方後円墳が作られて以後日本列島では大規模な戦争を示す根拠が見つかっていない。古墳時代は割と平和な時代だったと見ても良い。

中国との関係は基本的に朝貢を行い、中国を上に置く冊封体制だった。しかし雄略天皇の頃から中国から独立するという意思が見られる。根拠としては稲荷山古墳出土鉄剣銘と、江田船山古墳出土鉄剣銘である。しこには「獲加多支鹵大王」と書かれている。この両方の銘の下に「天下を治める」と書かれており、「獲加多支鹵大王」が雄略天皇を示し、その下に「治天下」となっていることから独立の意思を見るのである。

とはいえ4〜6世紀にかけて中国から技術や文化がたくさん伝わった。養蚕、機織り、鍛冶、土木建築、論語、漢字文化、そして何より仏教が伝わった。

6世紀末から7世紀末までの約100年間を飛鳥時代と呼ぶ。都が飛鳥に置かれたのでそう呼ぶ。統一王権に成長した大和朝廷が自らの秩序を作ろうとした時代だ。中央集権を実現させ、律令国家の基盤を整えることを目指した。

飛鳥時代に入ると大きな前方後円墳は作られなくなる。朝廷が薄葬令を出したからだ。目的は天皇と豪族の違いをはっきりさせるために地方豪族に大きい墓を作らせないようにするため。ちなみに現代においても天皇は古墳に埋葬される。

飛鳥時代の有名人といえば聖徳太子だ。聖徳太子は冠位十二階を定めた。役人の位を12段階に分け、それまでの出自で役職が決まっていたことを改めて優れた人材を役人に登用するようになった。
17条の憲法も聖徳太子の作。「一、和をもって尊しとなし」元は論語から。「和」は自己を持って他者と協力すること。「同」は主体性なく他者と協調すること。

遣隋使は小野妹子が有名。「日出ずる国の天子」文面で隋の天子を怒らせた。何で3回目の遣隋使派遣時に「天子」を改めて「天皇」と書いた。これが天皇の書面上での初出(異説あり)だ。

仏教の扱いが飛鳥時代の争点だ。この「新しい宗教」をどうするかで物部氏と蘇我氏が対立した。最終的に仏教を受け入れる派の蘇我氏が勝った。聖徳太子亡き後は蘇我氏が権力を握ることになる。腐敗した政治を打開するために中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害。

朝廷は日本のはじめての元号になる「大化」定めた。それまで中国王朝が決めていた暦を日本独自に定めたということだ。

朝廷は班田収授法を定める。要は戸籍を整備して税を取る法律。税には租・庸・調がある。庸と調は中央の財源となりそれまでの蘇我氏の政治から天皇を中心とした政治に移行していった。これら一連の国政改革を大化の改新という。

天智天皇が亡くなると大海人皇子と大友皇子間で跡目争い。これが古代最大の戦い。結果は大海人皇子の勝ち。大海人皇子は即位して天武天皇になった。
古事記、日本書紀を編纂させたのは天武天皇である。つまりここで神話を作ることでより天皇の権威を強めたということである。それはそのまま中央集権国家の完成を目指したということでもある。

天武天皇に後は皇后だった持統天皇。この時期に藤原京を作る。中国の都を模範として作った。次の文武天皇で大宝律令が完成。「律」が刑法、「令」が民法を指す。現在でいう法治国家の下地が出来上がった。
地方へは国ごとに国府という役所が置かれ、都から国司が派遣された。地方と中央はそういった役人が往来し庸と調を納めるために街道が整備されていった。街道が整備されることで駅(宿)や乗り継ぎ用の馬なども整えられていった。

702年に送った遣唐使は歴史上初めて唐に対して「日本」を称した。これが歴史上初めて対外的に日本を名乗った出来事になる。

奈良に平城京を移し飛鳥時代が終わり奈良時代になる。

ならじだいにはえ「万葉集」が出来た。特徴は身分に関係なく優れた詩であれば分け隔てなく収録したこと。

奈良時代に権力を握った一番バッターは藤原不比等。中臣鎌足の息子。天皇を中心とする中央集権がある程度確立されたことにより権力を握るには天皇とどう関係を築くかが肝となる。不比等は娘を文武天皇に嫁がせその息子を聖武天皇として天皇の祖父の地位に収まった。これだけでは止まらずさらに生まれた娘を聖武天皇の皇后にすることに成功した。マジパネェ。

聖武天皇の時代は天然痘が流行ったりと困難な時代だった。政治権力を握った藤原四子も死ぬ。その後権力を握った橘諸兄も死ぬ。その中で聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺を立て都には大仏を建造することで困難を打開しようと試みた。大仏建立には大金が必要だったので墾田永年私財法を定め費用の一部を捻出した。これで土地の私有が認められた。
私有が認められた土地は管理のための事務所が「荘」と呼ばれていたので荘園と呼ぶようになる。この制度が導入されたことにより公地公民制が崩壊して荘園制に移行する。

奈良時代の権力者二番バッターは道鏡のおっさん。称徳天皇と仲が良かったので天皇の座を狙ってたが、次の光仁天皇に追放される。憐れ。

東大寺の正倉院には伝統工芸品替え収められている。聖武天皇の治世の時代が天平なので、奈良時代の文化を天平文化と呼ぶ。瑠璃盃は思ったより小さい。

桓武天皇は政治への僧侶の介入による混乱を立て直すために遷都した。最初は長岡京だったが水害とか不幸が重なり平安京に再遷都。そこに落ち着く。ここから平安時代。

平安時代に権力を握ったのは藤原氏。藤原道長とその子藤原頼通の時。天皇が幼少の時は摂政として、成人してからは関白として政治の実権を握った。(摂関政治)そもそも政治の実権を握るために関白の位を作ったのが藤原氏。

平安時代には最澄と空海が中国から仏教を学んで帰国。より高度で実践的な仏教を伝えた。それぞれ後の伝教大師と弘法大師である。

平安時代は西暦794年から1192年まで。その間に中国では904年に唐が滅亡し宋(北宋)が成立。朝鮮半島は高麗が成立。
遣唐使を派遣していた頃までは唐の文化を重んじ唐風の文化が栄えたが、唐が滅びてからは国風の文化が好まれるようになった。(国風文化)ここで漢字を崩してかな文字を用いいるようになるのである。(源氏物語や枕草子への布石)

地方へ派遣された国司はそのままその地方へ住み着いた例もある。そのうちその土地の者と主従関係を結ぶようになった。彼らを〝武士〟と呼び(ここで武士がでるんだー)朝廷や国府の役人となった。やがてその中でも優れているものを棟梁と呼び、武士団を形成するほどまでに大きくなっていった。代表例は平将門。

白河上皇は平氏の一族を「北面の武士」として重用。平氏が力をつけてくる。さらに保元の乱(後白河天皇と崇徳上皇の争い)で後白河天皇についた平清盛や源義朝が勝利しさらに勢力を拡大。平治の乱で平氏と源氏が争い平清盛が源義朝を討つ。(後に源頼朝と義経が平氏に復讐を果たすわけだが)

勢力争いに勝利した平清盛は後白河上皇との関係を密にしていく。清盛は宋との関係を重視していき兵庫県の大輪田泊や広島の厳島神社を整備、改築していく。
娘の徳子を天皇の后にして生まれた子が安徳天皇。後白河上皇の院生を停止させ安徳天皇を即位させる。が、さすがに以仁王(後白河上皇の皇子)の不満が爆発し平氏追討の令旨が下される。
これに呼応したのが源頼政、頼朝、義仲。最終的には源頼朝が鎌倉を拠点に勢力を増していき壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。安徳天皇はこの時まだ6歳。母方の祖母である時子に抱きかかえられ入水した。
これにて平安時代が終わり鎌倉時代に移る。

ここまでをざっくりまとめると、弥生時代までは小国が各地に散らばっていたが、古墳時代に入り大和朝廷を中心とする大きな国の基盤ができた。仏教の伝来とともに大陸の情報や技術がもたらされ飛鳥時代には計画的な都市が建てられる。その後は律令に代表される法整備、冠位十二階に代表される役人の整備、仏像建立などの国家事業、など国としての機能が少しづつ実装されていく。そして権力はその時々により天皇、聖徳太子、物部氏、藤原氏、道鏡、平氏、源氏と移り変わっていくものの天皇は脈々と続いていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?