見出し画像

【読書】 平成30年度文部科学省検定不合格教科書②

1192年、後鳥羽天皇が源頼朝を征夷大将軍に任命し政権を委託。鎌倉幕府が誕生。初の武家政権である。(元を辿れば国司として地方に派遣された役人の土着化とそれに伴う組織化が大元)

鎌倉に幕府があったので東国はまだ未開の広大な土地が残っていた。それを利用したシステムが将軍と御家人による御恩と奉公だ。簡単に言えば土地を与える代わりに平時、有事ともに武力を提供してもらうというもの。これを封建制度という。(これは土地がなくなれば立ち行かなくなる制度か?)

頼朝が亡くなって次に台頭してくるのは北条氏(平氏→源氏→北条氏って流れか)
北条氏は頼朝に変わって将軍になったわけではなく将軍はお飾りにしておいて自分は執権という地位について実質的に権力を握っていた。これを代々続けていく。(執権政治)

1221年承久の乱。後鳥羽上皇が北条義時を討つように全国の武士に命令を下した。結果は北条氏の勝ち。この時の有名な逸話が北条政子(源頼朝の妻)の演説。(頼朝が死にその子の頼家、実朝も死に源氏の血が途絶えたのに政子だけ生き残り鎌倉幕府のために生きているわけか。女傑かな?)
京都は幕府軍に占拠され後鳥羽上皇は隠岐に島流し。(承久の変)

13世紀はモンゴルの世紀!チンギス・ハンがモンゴルを統一し「元」が世界史上最大の版図を誇る大帝国を建設!当然日本にも手を広げようとする。(文永の役と弘安の役合わせて元寇)
これを幕府と朝廷は力を合わせて撃退!神風が吹いたとされるが、夏に海上で足止めを2ヶ月近く食らっていれば台風の1つや2つは来るだろう。

元寇を跳ね除けたものの防衛戦だったので新しい領土は得られなかった。この時代は領地を与える代わりに働いてもらう封建制なので領地が得られなければ御家人は困窮する一方。これに対して永仁の徳政令を出して対応しようとしたもののあまり効果は芳しくなかった。
元寇による全国的な指揮で北条氏の権力はより強まり幕政も北条氏の一門で取り仕切るようになる。(得宗専制政治)(得宗が何を指すのかは微妙なところ北条氏の偉い人の別称程度で考えとくといいかも)
北条氏一門以外の御家人はこれに反感を持つようになり、幕府の威光はどんどん陰っていくことになる。

鎌倉時代は武家政治だったので文化もそれを反映するように豪快な作風が好まれた。運慶・快慶の金剛力士像もこの時代。琵琶法師のおっさんは平家物語を全国で語り歩いた。

鎌倉時代に仏教の宗派が多数乱立する。理由としては飢饉、戦乱、末法意識による生活の苦難が仏教への救いを求める原動力になったということだろうか。
法然が浄土宗
親鸞が浄土真宗
日蓮が日蓮宗
栄西が臨済宗
道元が曹洞宗
今も全て残っている。

鎌倉幕府は後醍醐天皇に滅ぼされる。後醍醐天皇は北条氏から政治の実権を取り戻すために倒幕を計画するが失敗。隠岐に島流し。でもめげずに小舟で帰ってきて護良親王、楠木正成、足利尊氏、新田貞義などの助けを借りて1333年に鎌倉時代を倒す。

後醍醐天皇は京都に戻り政治の再建を図った。が、武士よりも公家が優遇されるなど武士の反感を買う。この機に乗じて足利尊氏は謀反を起こす。後醍醐天皇は吉野(南朝)に逃れ、足利尊氏は新しく皇族を天皇に擁立し(北朝)争いが始まる。これが鎌倉時代の後の南北朝時代。60年も続く。南北朝時代の最中に室町幕府もできる。なので広義の意味では室町時代に含まれるが、朝廷が2つ存在する日本史上の特徴的な時代でもあるので別として扱う。

足利尊氏は建武式目を定めて政治方針をハッキリさせ武家政権を樹立。3代足利義満の時に京都の室町に邸宅を構えそこで政治を行ったので室町幕府と呼ばれる。

足利義満は「大覚寺統」と「持明院統」から交互に天皇を出す条件を出して南北朝を統一することに成功。

義満は明との貿易を重視した貿易といっても朝貢形式だったので、次の足利義持は日明貿易を廃止。公武(朝廷と幕府)の融和を重視して独立国としての尊厳を図った。

この時代に二毛作や牛馬耕の発達と拡大、灌漑用水車の発達、刈草や牛馬ふんの自給肥料の使用など農業の生産力が向上。それに伴って桑、楮、漆、藍、麻、綿などの食べるための作物ではなく商品作物を作る余裕ができるようになった。
産業や流通の発達は地方都市を栄える要因となる。堺、博多が繁栄した。

八代将軍足利義政は銀閣寺を建てる。これが東山にあったのでこのころの文化を東山文化と呼ぶ。東山文化の特徴は幽玄・簡素。銀閣寺に建築様式からは王朝文化の寝殿造が無くなった。村田珠光は侘び茶を創始、龍安寺には枯山水が整えられ、雪舟は水墨画を確立した。
上杉憲実は足利学校を創設。浦島太郎や一寸法師などが登場する御伽草子や庭訓往来を教科書にして武士の子弟が寺院で教育を受ける習慣が根付いていった。
ちなみに節分・七夕・うどん・木綿の服などはこの頃が発祥。

一方で飢饉とそれに伴って苦しむ農民たちの土一揆が度重なる。ついでに三代将軍足利義満の死後、八代将軍足利義政の頃には文化は花開くが幕府の威光が弱まっていく。その結果守護大名の力が大きくなる。将軍家の世継ぎ争い、有力守護大名の畠山氏と細川氏の争いなどが重なり応仁の乱が始まる。応仁の乱の結果、室町幕府の権威は有名無実化し幕府なき群雄割拠の戦国時代が幕を開ける。

鎌倉幕府創設から室町幕府滅亡までが日本史における中世。
つまりここで終わり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?