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【読書】 平成30年度文部科学省検定不合格教科書④

大政奉還を受けて朝廷は王政復古の大号令をかけ明治天皇を中心とする新しい政府を組織することを宣言した。
ところが大政奉還、王政復古の大号令が発令されても旧幕府軍がハイそうですかと素直に従うわけがない。京都では新政府軍と旧幕府軍との衝突があり(鳥羽・伏見の戦い)、江戸では無血開城が実現し戦闘は行われなかったが東北では会津、奥羽越列藩同盟は多くの死者を出した。これら一連の新政府軍と旧幕府軍との戦いを戊辰戦争と言い勝利した新政府軍は実力と共に明治政府を樹立する。

明治政府は最初に五箇条の御誓文を発しこれからの方針を示した。(話し合いを盛んにしようとか、身分関係なく頑張ろうとかそんな感じ)

まず行ったのは版籍奉還。版(土地)と籍(人)を藩から国家に返させた。その後に廃藩置県を実施。各県に県令(後の知事)を派遣して治める。つまり中央集権化を進めていったわけである。

次なる近代国家への一手は学校制度、徴兵制度、租税制度が挙げられる。
学校制度には小学校から大学までが整備され満6歳の全ての男女を小学校に通わせる義務を定めた。徴兵制度を定めて身分に関わらず兵役の義務を課した。地租改正を実施して国民の土地所有を認める代わりに土地に課税した。

近代国家に繋がる大きな柱は国会の設立。板垣退助が民撰議院設立建白書を提出、国民の政治参加の権利を訴える自由民権運動を主導するなどした。
最終的に1885年内閣制度を創設。伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任。審議を経た上で大日本帝国憲法を発布した。

外交面においてはロシアの脅威をどうするのかが目下の課題であり、その為には朝鮮半島が独立国家として存立してほしいという地政学上の事情があった。
当の朝鮮半島では甲午農民戦争が起きそこに清と日本が軍を派遣。緊張感が高まり日清戦争が勃発(1894年)。日本勝利。

日清戦争後の講和会議で結ばれたのが下関条約。
①朝鮮の独立を認めること
②賠償金を払うこと
③遼東半島と台湾の割譲
これに対しロシア、フランス、ドイツが遼東半島の返還を要求(三国干渉)。遼東半島を返還する。

1900年清で義和団事件が起きる。清国内の攘夷運動の盛り上がりによる欧米列強への宣戦布告である。これに対し日本を含む8カ国が軍を派遣しこれを鎮圧。問題はその後ロシアが満州から軍を引き上げず留めおいたこと。
ロシアの脅威に対し①ロシアと同盟を結ぶ②ロシアと戦うの2択を検討。日英同盟を結成しロシアに対してのカードを一枚得る。

1904年日露戦争勃発。日本勝利。

日露戦争後の講話内容はポーツマス条約。
①朝鮮における日本の優越権
②旅順と大連の租借権
③北緯50度以南の樺太の割譲
④沿海州、カムチャッカ半島周辺での漁業権認可

賠償金は一切取れず国内は不満爆発。日比谷焼打事件が起きる。

朝鮮は日韓併合条約が結ばれ朝鮮が日本の統治下に置かれる。
中国は清の力が衰え、辛亥革命により中華民国が設立。孫文が臨時大総統に就任。

明治時代は日本における産業革命の時代。工業と経済が発達し中央銀行として日本銀行が設立、紡績分野など軽工業の工場が建設。ただし労働条件は厳しく労働運動が起きる。その中で社会主義思想が広がっていく。環境問題も生じていった(足尾銅山鉱毒事件など)

1914年第一次世界大戦勃発。日本はあまり関係ないのでこの機に中国への影響を強める。二十一か条の要求を突きつける(旅順の権益期間を延ばしてねとか)。中国国内ではこれに反発する運動が展開された。

第一次世界大戦終結。ドイツの大敗。ベルサイユ条約締結。ドイツは多額の負担金を背負いこむ。
一方アメリカのウィルソン大統領は国際連盟を設立。しかし当のアメリカは加盟できなかった。
さらにワシントン会議で軍縮について議論される。戦艦建造を抑制しないと歯止めが効かなくなるから制限しようね会議。

未だに明治政府は長州や薩摩出身の藩閥が実権を握っておりこれに反発が起きる(第一次護憲運動)。これに後押しされる形で原敬が内閣を組閣。全ての国務大臣を立憲政友会から任命し初の本格的な政党内閣を成立させる。

明治政府は天皇に主権を返した大政奉還が根本にあり、主権は天皇にあることが前提であった。しかし大正時代に入ると主権は国民にあるという民主主義(デモクラシー)が議論されるようになる。その尖兵が美濃部達吉の天皇機関説。この辺りから大正時代。

民主主義の基礎は何か?選挙である。
1925年普通選挙法が成立。女性への参政権付与はまだ先の話。

ウィルソン大統領が述べた民族自決の原理は世界中の地域へ独立に機運を高める契機となる。中国でも朝鮮半島でも排日・独立運動が起きる。この辺りから昭和。

当時の中国は孫文の後継者である蒋介石が独立に旗手として立ち上がり現行の政府に対抗する為に南京に国民政府を建てていた。一方現行政府のある北京で政権を取っていたのは張作霖。蒋介石は北京に向けて出兵、張作霖は満州まで撤退するがその途中で爆殺。蒋介石率いる国民政府は満州の権益を回復するために満州へ出兵。これに対応したのが石原莞爾率いる関東軍。

ポーツマス条約により満州の権益は日本のものになっているが、それを奪回しようと
中国の国民政府が狙っている。この睨み合いを打破したのが柳条湖事件。関東軍は柳条湖付近でレールを爆破、これを中国側の仕業であると発表して軍事行動を開始。最終的に関東軍の勝利に終わる。関東軍は満州国を建国した。ただしこれは関東軍の独断専行であった。この一連の流れを満州事変という。

時の首相であった犬養毅は国民政府との対話による解決を望んでおり満州国は認めない方針だった。しかし海軍将校から暗殺され(5・15事件)、政党政治は幕を下ろす。次いで首相になった斎藤実は満州国を承認した。

追認とはいえ満州国を承認したものの国際社会はこれを認めず撤兵を勧告。日本はこれに従わず国際連盟を脱退。(1933年、第二次世界大戦まであと5年ほど、この辺りから軍部主導の政治体制が姿を見せ始めているのか?)

昭和の経済の面
1929年(昭和4年)に世界大恐慌。ニューヨーク証券取引所の株価大暴落に端を発する恐慌。金融システムが混乱、銀行が破綻し、失業者が増加。これに対してアメリカはニューディール政策を実施。公共事業の大規模発注、労働時間短縮、休日の確保など政府が市場に大きく介入した。それまで市場には政府はあまり介入しない自由主義経済が主流だったが、これを機に政府が市場に対してどのような立ち位置を取るか議論されることとなる。

日本では世界大恐慌に対して当時の大蔵大臣である高橋是清が対応。低金利政策、財政支出拡大など積極的なデフレ対策を実施。これが功を奏し日本はいち早く恐慌を脱した。
物価が上昇してきたことによって政府は財政の引き締めへ舵をとる。それにあたり軍事予算の削減も盛り込んだが、これが争点になった。

軍事予算削減のためロンドン軍縮条約に批准(1930年)。しかしこれを天皇の承認なしに軍縮を約束したとして天皇の統帥権の干犯と軍部から批判される。軍部の予算にまで軍部が口を出すことはそのまま軍部の権限を強める結果になっていく。

次の軍部権限強化事案は2・26事件。
当時の軍部は大きく2つの派閥に分かれていた。皇道派と統帥派である。2・26事件は皇道派による天皇親政を実現しようとするクーデターである。各重要拠点の襲撃と制圧にも関わらず、昭和天皇からは徹底的な鎮圧を命じられ逆賊としてクーデターは失敗に終わる。
結果として軍部内の統帥派の勢力が力を増し政治への関与を強めていく。

関東軍による満州事変、天皇統帥権干犯問題、2・26事件などこれらを見ていくと軍部の政治への権限の強化が次第に大きくなっていったことがわかる。

盧溝橋事件(1937年)
北京に駐屯していた日本軍が盧溝橋付近で銃撃を受けたのがきっかけとなり、国民革命軍との戦闘に発展した。日本政府は当初、不拡大方針をとる予定だったが軍部内での調整がつかず結果として全面戦争にもつれ込んでいく。
この時に国民革命軍の本拠地である南京に攻め込んだのが南京事件として扱われる事件。内容はなんとも判断しかねる。

第二次世界大戦勃発(1939年)
ドイツがソ連と不可侵条約を結びポーランドに侵攻。これに対しイギリスとフランスがドイツに宣戦布告。これが始まり。ドイツはそれまでにチェコやオーストリアなどをすでに占領している。破竹の勢いでオランダ、ベルギー、デンマーク、ノルウェー、フランスを次々と占領。イタリアも枢軸国としてドイツ側で参戦。ヨーロッパ中をドイツが席巻する。

日本ではドイツの大勝を鑑みてそれまでオランダやフランス領だった東南アジアの権益を確保するチャンスとみなした(南進論)。当時の軍部には南進論に反対する勢力は残っておらず、南進論は国策として決定された。(そもそもまだ蒋介石率いる中国と戦争中)
蒋介石に対して援助しているアメリカからの輸送経路を遮断するためにベトナム北部に進駐。さらに日独伊三国同盟を結び枢軸国側として第二次世界大戦に参戦。アメリカはこれに対して敵国認定。鉄の輸出禁止など対日輸出制限を強める。
1941年には日ソ中立条約を締結。しかしその2ヶ月後ドイツは独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻。日本は条約を守り参戦せず。ここは割と大きな分かれ道。
日ソ中立条約を根拠に北への軍事力は削減し、その分を南に集結。南部仏印に進駐。これに対して連合国側は対日輸出制限をさらに強化(ABCD包囲網)。日本は石油の輸入がほとんどできなくなった。(兵站から攻められるヤバイ)

1940年ごろの日本の状況を整理すると、蒋介石率いる中国と戦争中。それと共にアメリカとの関係が悪化し交渉中。日独伊三国同盟を結び枢軸国側。対日輸出制限が強化され資源が手に入らない。
この状況下で次に思案するのが対アメリカ。戦争か交渉か。最終的には東条英機内閣が成立し真珠湾攻撃で開戦。真珠湾攻撃自体は戦略的には失敗。何故なら敵空母を破壊できなかったから。実質アメリカの態度を硬化させただけ。
その後はフィリピンやタイなどを攻略、独立を承認。東南アジア、満州を含め大きく領土を確保(大東亜共栄圏)。

1942年。ミッドウェー海戦で大敗。空母4隻と多くのベテランパイロットを失う。これにより日米の航空戦力が逆転。以後日米戦はアメリカ優位で進んでいく。

1945年。ヤルタ会談。アメリカ、イギリス、ソ連の3国による戦後処理の会議。

原爆投下とその後のポツダム宣言受託について。
日本降伏の条件は天皇の地位の保証が重要条件にある。一方でアメリカは譲歩した上での和平は国内世論が許さない。よって原爆投下後に天皇の地位の保証に関わらず日本側が和平を申し出て、その後天皇の地位を保証する形での終結。という形に結果的になった。

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