マンハッタン

長編小説 『狂恋 in ニューヨーク』

★目次(序章無料公開)★

【プロローグ】

【第一章 月の輝く夜に】

【第二章 不眠症狂躁曲】

【第三章 オペラ・デート】

【第四章 ミステリアス・ウーマン】

【第五章 ジュディのけたぐり】

【第六章 ニューヨーク再び】

【第七章 戦士の休息】

【第八章 ハドソン河を漕ぎ下る】

【第九章 切なき時差十四時間】

【第十章 苛酷な冬をふたりで】

【第十一章 ニューヨーク大捜索】

【第十二章 マンハッタンの花火】

【エピローグ】

       *

【プロローグ】

 ジュディが姿を消してから、ほぼ一週間が過ぎた。

 二ブロック先のベーカリーで求めた焼きたて葡萄(ぶどう)パンをかじりながら、木洩れ日揺れるリバーサイド・パークのベンチで『am New Yorker』を読むのが、朝の日課になった。

 今朝は、知的な役柄で知られるアカデミー賞受賞男優の暴行容疑事件が一面を飾っている。新作のプロモーションでソーホーのホテルに泊まった際、なかなか繋(つな)がらない国際電話とフロントの対応に苛立ち、受話器を壁に叩きつけたのだという。

 不運にも、その受話器がスタッフの頬をかすめて「御用」となったらしいが、これまでに空港やホテルで何度も同様の体験をした私としては、断然彼の肩を持ちたい。

 何しろ、とろいのである、ニューヨークのサービス・スタッフたちは。東洋人を蔑視しているのか、やたらと威張りくさっているくせに仕事はできず、逆に強い態度に出るとすぐにパニくってセキュリティに助けを求める。

 その警備員連中も、体格差に物を言わせた高圧的な脅しにこちらが怯(ひる)まぬとなると、すぐさま警察を呼ぶのである。

 ニューヨークに入って早々に滞在したホテル・ウエストサイドでは、フロントスタッフが国際宅急便の手配に手間取って、サンフランシスコ行きの飛行機に乗り遅れた。

 そのあまりにお粗末な対応に怒りを爆発させた私は、玄関外の両脇に置かれた金属製のゴミ箱を左右のミドルキックでなぎ倒した。

 ついでに、「スリップ注意」の黄色い表示板を前蹴りで道路際まですっ飛ばす。

 むろん、周りに誰もいないことを確かめて上でのことだ。

 このホテルで唯一気の利いたコンシェルジェのブリジッタが、すかさず夕方便の確保に動いている旨を告げに走り出てきた。そこで私は気持ちを収め、散歩がてらにホテルの周囲をぶらつき、道端の露店で青い薔薇(ばら)の花束を買い求めてホテルに戻った。

 すると、玄関前に三台のパトカーが停まり、ロビーにはいかつい制服警官たちがたむろしている。

「一体、どうしたんだい?」

 ロビーの真ん中まで進んだ私は、大柄な警官の顔を見上げ懸命に何かを訴えているブリジッタに歩み寄って、花束を手渡し声をかけた。すでにセキュリティが警官を呼んだのだとは気づいていたが、素知らぬ風を装って。

 ブリジッタが私の顔と花束を見て、ホッとしたような笑顔を浮かべた。まわりに立っていた若い警官たちも、その様子を眺めながらニヤリと笑う。

 一件落着。そう思ったが、

「おい、貴様!」

 身長が二メートルに近いかと思える冷酷な顔つきの白人警官が猛然と迫ってきて、私の左手首を強い力で掴(つか)んだ。

 瞬時に振りほどき、「触るな!」と睨(にら)み返す。

 一瞬、警官は怯(ひる)んだ様子だったが、十人近くいる警官やホテルスタッフ、客たちがこちらを注視している。顔色を変えた彼は再び私の手首を掴み、強引にひねり上げようとする。

 これ以上、逆らってはまずい。相手は、ごつい拳銃を腰にした悪名高きニューヨークポリスだ。完全にひねられないよう力を込めて左腕の位置をキープし、そのまま大男を引きずるような格好でロビーの外に出た。

 玄関前に停められたパトカーの脇で腕を振りほどき、大男と睨み合う。すぐさま、まわりを五~六人の若い警官が取り囲んだ。

 だが、ブリジッタの説明が功を奏したらしく、敵意を示す者はひとりとしていない。

 いきり立っているのは「Keller」という名札を付けたこの大男と、刑事らしいスーツ姿の禿げ男だけだ。 私はさっそく、この大男にキラー(殺人者)というニックネームを献上した。

「ヘイ、キラー。ちゃんと説明してくれ。俺が一体、何をしたって言うんだ? 事と次第によっちゃあ、日本のマスコミを呼んで国際問題にしちまうぞ。ニューヨークには、まだまだ日本の経済資本と金離れのいい日本人観光客が必要なはずだ」

 ……自我感情の高揚、自信過剰、尊大、無遠慮、節度の欠如、誇大妄想、多弁・多動。時に怒りっぽく、攻撃的……(広辞苑より抜粋引用)。

 今にして思えば、躁病の典型的な発露であった。

「黙れ! 黙らねえと、パスポートを破り捨てるぞ!」

 ナチス顔の殺人者が、私の胸ポケットから赤いパスポートを抜き取るような仕草をして脅しにかかる。

「そいつは困るなあ。俺は明日、サンフランシスコのガールフレンドに会いにいかなきゃならないんだ」

 心配そうなメアリーの顔が脳裡(のうり)に浮かぶ。彼女は、半年前に亡くなった妻のかつての英語教師であり無二の親友なのだ。私の到着を、今か今かと待ち詫びているに違いない。

 殺人者がパスポートを抜き取らなかったのは、すでに無罪放免が決まっていたからだろう。目付きの鋭いスーツ姿の禿げ男が、キスするほどに顔を寄せてきた。

「とにかく、黙れ! そして、すぐにここを出てJFK空港に向かうんだ。いいか、分かったな」

 ……何だ、そういうことか。これ以上、あんたらの仕事を増やすなということだな。

 この十日ほど前、北京発の飛行機の隣席に座った若いモンゴル人を手助けようとした弾みに、根も葉もない暴行容疑で十時間近くも成田空港警察の取調室に拘束された私は、バカな警官の扱いには慣れている。

 ヘイ、東北出身のM警部補よ。さんざ貴重な時間を無駄にしてくれやがったが、その後逮捕状は一体どうなったんだ? 

 ニューヨークでも、あんたみたいな素敵なお巡(まわ)りに出会えて、とても嬉しいぜ。

「オーッケイ、了解だ。ただちにお互いのビッグマウスに蓋(ふた)をしようぜ」

 遠巻きにしていた若い警官たちが、私の答えを訊いて吹き出した。

 その中のひとりが、通りかかったキャブ(黄色のタクシー)を止め、後部座席のドアを開けて私の小さな旅行バッグを放り込んだ。騒動が起きる前に、ブリジッタに預けておいたヤツだ。

「いいな、このまままっすぐ空港に向かうんだぞ」

 厄介払いを決め込んだ禿げ男が、再び臭い息を吹きかけて私に言い含めた。

「オーッケイ!」

 私は笑顔でキャブに乗り込み、窓から靴を履いたままの右足を突き出して、無言のまま足首で「バイバイ」のポーズを示した。若い警官たちが、声をあげて笑う。

 ついでに姿勢を正し、空手の「押忍」のポーズを示すと、愛らしいことに彼ら、一斉に同じポーズで挨拶を返してくれる。

 禿げ男が、苦笑しながら私に右手人差指を突きつけた。

 殺人者が、顔をしかめて路上に唾を吐く。

 キャブが走り出した。パキスタンから最近移民して来たという肌の浅黒い中年ドライバーに辺りをゆっくりと走るよう頼み、十分ほどしてからホテルに戻った。

 案の定、パトカーの姿はない。ロビーに入ると、二人のセキュリティがギョッとした顔でこちらをみつめた。彼らを無視し、歩み寄ってきたブリジッタと握手を交わす。

「無事だったの?」

「パーフェクト。でも、中国に送ろうと思ってフロントに預けておいた残りの荷物が邪魔なんだ。今度は、キミが宅急便の手配をしてくれるかい?」

「もちろんよ。でも、彼らはとてもいい加減だから、あなた自身が直接事務所に行った方がいいかも知れない。あ、これ、夕方のサンフランシスコ行きチケットの予約番号です」

「ありがとう。とんだ事に巻き込んで申し訳なかったね。キミの親切に感謝するよ」

「いいえ、こちらこそ迷惑をかけてしまってごめんなさい。きれいなお花をありがとう」

 ブリジッタがにっこりと笑う。遠巻きに様子を見ていたセキュリティが近寄ってきて、

「すぐに出て行け!」

 喚(わめ)き散らした。

「もちろんだ、あんたらの間抜け面(づら)なんぞ見たくもない」

 ブリジッタと親密なハグを交わし、大きな二個のキャスター付きバッグを引いて、ホテル裏手のビル内にある国際宅急便オフィスに向かった。

 黒人の受付係に確認すると、彼らがフロントスタッフに安請け合いしたはずの中国への配送は不可能だということが判明した。それも、三度の念押しの果てにだ。

 やむなく送り先を日本の住所に変えて、やっとのことに発送手続きを済ませた。

 キャブを待つ間、ビル前の歩道でストレッチを兼ねたいんちきカンフーダンスを舞い始めた。

 いつの間にかホテルの裏口にセキュリティ連中が集まって、道路越しにこちらを眺めている。警備員だけあって、格闘技には興味があるのだろう。

 だが、キャブはなかなかやって来ない。両手を広げて大げさに肩をすくめて見せると、一人の若い白人セキュリティーが、わざわざ一ブロック先の通りまで走り、キャブを捕まえてきてくれた。

 苦笑しながら道路を渡ると、さっき先頭に立って私を追い出しにかかったデンゼル・ワシントン似の長身黒人セキュリティが、なぜかトランクへの荷物入れを手伝ってくれている。彼ら自身が、残りのバッグをここまで運んでくれたようだ。

「すまんな」

「空港か?」

「いや、シェラトンホテルだ。ニューヨークが気に入ったから、サンフランシスコ行きはキャンセルすることにしたよ」

 デンゼルが、首を横に振りつつ呟いた。

「警察の退去命令を無視するのか。まったくクレイジーな奴……」

「あんた、俺の名前を知らないのか? 中国からやってきたクレイジー・ドラゴンだ。じゃあな、再見(ツアイチィエン)!」

 賑やかな街のど真ん中にあるシェラトン・タイムズスクエアに落ち着くと、私はすぐさまジュディに電話をかけた。

「え、まだニューヨーク? 一体、何があったの?」

 今朝方、別れの挨拶を済ませたばかりの彼女が驚きの声をあげる。

「ニューヨークポリスとファイトしたから、飛行機に乗り遅れたんだ。俺はもう、サンフランシスコには行かないよ」

 その夜から、私とジュディとの奇妙な関わりが始まった。

 ところで、気短かなアカデミー賞受賞男優よ。

 ニューヨークポリスにかまされた手錠の味は、どうだった? 

 後ろ手錠で裁判所に連行されるあんたのサングラス姿は、やけに美しかったぜ。

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