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【Nong Krok温泉でキツネに化かされる】

★青空を目指して1001号線を北上 

 雨季のチェンマイには、「晴れの日には仕事や勉強をしてはいけない」という不文律がある。これを犯すと慈愛に満ちた天に対する不敬罪が適用され、地獄寺で見るような血みどろの刑罰に処せられる。

 というのは真っ赤な嘘だが、いまだ容易には退散しそうも無い雨季末期の空と連日睨めっこしていると、早朝から晴れ間が垣間見えた途端にわくわく、そわそわ。気づいてみれば、いつの間にかスクーターにまたがって青空を追いかけている自分がいる。

 信号待ちで改めて四方を眺め回してみると、今日の青空はどうやらプラーオ方面で勢力拡大の様子。プラーオといえば、わがタイ人相棒の生まれ故郷である。

 初めて訪ねたのは、確か13〜14年前。チェンマイ定住者にさえほとんど知られていない田舎町だったのだが、温泉に入ったことだけはぼんやりと記憶している。

「そうだ、京都、もといプラーオの温泉に行こう!」

 そう心に決めた私は、愛車の新型ハーレー2000cc、も、もとい、10年落ちのヤマハスクーター“老嬢パティ”110ccに激しい愛の鞭を入れ、国道だか県道だかよく分からん1001号線を爆走したのである。

③青空とバイク

★ 不思議なことに誰も知らない

 プラーオの町に着いたのは、正午過ぎだった。チェンマイから約100キロ。昔のままのだだっ広い道路沿いにあるはずの相棒の実家を探すが、どうしても見当たらない。

 ワゴン車運転の仕事でアユタヤに行っている彼にLineメッセージを送って、昼食にクウェティオ(スープ麺)を食した。

町手前でクイティアオ

 合間にスマホでGoogleマップを眺めてみたが、この一帯に温泉は見当たらない。相棒からの返事も一向にない。

 さらには、麺屋の女将も旦那も「プラーオに温泉なんてない」と言う。

 やむなく、相棒の幼なじみのGrabタクシー女性運転手ヌンに電話で訊いてみたら、やはり「知らない」と言う。

 おかしいなあ。

 一体、どうなっているのだ? 

 やむなく大道路突き当たりの郡役所に行くと、中の一人がさすがに知っていた。温泉への目印は警察署だという。やれやれ。

★怪しいサイクリング爺さん、登場

 町を左手に抜けて、チェンダーオ方面に向かう。だが、いくら走っても警察署は見当たらない。ガソリンスタンドの若い衆も農作業の人も雑貨屋のオバさんも「そんなの知らない」の連続攻撃だ。

 バイクを停めて道端で思案投げ首していると、向こうからサイクリングの爺さんがのんびりとやって来た。声をかけると、

「ああ、それならあっちだよ!」

 その指差す先で右折した。だが、結果は同じだ。

 通りがかりの人に道を尋ねつつ行きつ戻りつするうちに、さっきの爺さんがのんびりと追いついて来た。

「アハハ迷ったか。ならば、儂のあとから着いてこい」

 だが、こんなトロトロ走行に付き合っていたら日が暮れてしまう。

 そこへ待望の相棒から電話が入った。

「大通りをチェンダーオ方向に10キロくらい進んで、軍の検問所の先を右折すればすぐに見つかるよ」

 ははーん、あの市役所の兄ちゃん、タイ語でタハーン(軍)と言ってくれればいいものを、英語が使いたくてポリスと言っちまったのだなあ。

 タイの若い人たちの間では、よくあることだ。

★またもやサイクリング爺さん、謎の出現

 サイクリング爺さんに挨拶して本道に戻り、相棒の言う通りに進んだ。

 山と畑が広がるのどかな田園を突っ走る。

ノンクロク眺め

 ところが、不思議なことにさっきの爺さんが、何故か右手前方の路地からひょいと出て来たではないか。

 こちらはかなりのスピードで飛ばして来た筈なのに、おかしいなあ。

「アハハ、今度こそしっかり儂のあとに着いてこいや」

 うへえ、そんなに分かりにくい秘湯なのだろうか。

 すっかり気を呑まれた私は、仕方なく爺さんのノロノロ走行に従った。

 1キロほど走ったあたりで、爺さんが左前方を指差す。なんと、道沿いに英語の案内板があるではないか。

 これまでのノロノロ走行は、一体何だったんだ!?

 先にゆっくりっと左折した爺さんに感謝の排ガスを見舞って、ようやくNong Krok温泉に辿り着いた。

⑧温泉看板

★ 刈り草が浴槽に浮いて香る野天の風情

 細い道沿いに立派な看板はあるものの、受付や料金所などは見当たらない。適当にバイクを停めて、東屋で休憩する男衆に声をかけた。

 その出で立ちや用具を見ると、草刈りの途中らしい。

「温泉はどこ?」「この奥だよ」「料金は?」「そんなもん、要らね」

 半信半疑で遊歩道を進むと、源泉らしきコンクリート槽にぶつかった。

⑨源泉槽

 底からぽこぽこと泡が湧き出している。確かに温泉だ。やれやれ。

 さらに進むと、地面と同じ高さに掘られた屋根付きと屋根なしの円形浴槽が4つほど。手を浸すと、どれもぬるい。源泉を引くパイプや蛇口も付いていない。

 たまには人も来るのだろうか、「飲み食い禁止」の派手な横幕が張ってある浴槽だけが適温だった。

屋根付き浴槽

⑩円形浴槽

 辺りには更衣室も見当たらない。向こうに個室風呂らしき建物が見えるが、こちとら露天風呂にしか興味が無い。

 持参のバスタオルで腰を巻き水着に着替えた。

 ざんぶりこ。

 「あー、極楽、極楽」 

 掌で湯をすくって顔を洗うと、数回で脂気が抜けた。湯質が柔らかい。

 ふと見ると、湯の表面に草が浮いていい香りがする。浴槽のまわりにもたくさんの草が散らばっている。

 ははあ、さっきの男衆が草を刈ったときに跳ね飛んだに違いない。

 いかにもタイらしいいい加減さが、この浴槽に「菖蒲湯」のような香りと風情をもたらしてくれたのかと思うと、妙に幸せな気分が胸に満ちて来た。

★プラーオの秘湯、完全制覇

 しばらく温もってから、他の浴槽にも浸かってみた。ほとんど客が入らないのか、腰掛け部分には湯の華が苔状に付着して茶色に変色している。

 底もぬるぬるする。

 やはり、最初に入った浴槽だけが「辛うじて現役」という印象だ。

丸い浴槽

 それにしても、10数年前に浸かったはずの温泉とはどうにもイメージが重ならない。

 念のために携帯でもう一度相棒にも確認してみたのだが、「プラーオにはその温泉しかない」と繰り返す、

 うーむ、まるでキツネにつままれたような気分だ。

 が、それはもうどうでもいい。はるばると迷いながら訪ね来て、「いい湯だな、ハハン〜♫」と鼻歌の出るような温泉に浸かっているのである。

 午後になって雲は増えたが、青空もまだ健在である。

 その上、温泉と青空のどちらも独り占めなのである。

 プラーオの秘湯、われ完全制覇せり。




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