「ナイトメア・アリー」感想
めくるめく映画である。
ギレルモ・デル・トロの新作、「ナイトメア・アリー」を観てきた。ウィリアム・リンゼイ・グレシャムの原作や、1度目の実写映画化作品である「悪魔が往く街」は未読・未見なのだが、個人的には2度目の映画化である今作を大変気に入ったので感想を書いていきたい。
物語は主人公スタンが家ごと遺体を燃やすシーンから始まる。なにやら相当にワケアリな雰囲気を漂わせているこの男は、猥雑で奇怪な見せ物が売りの移動式遊園地に流れ着く。1900年代前半の移動式遊園地というのは、実に治安が悪かったと言われている。というのも、定期的に場所を変えるうえに、人の出入りも激しいからだ。前科者やワケアリな人間には持ってこいの職場であり(セシル・B・デミルの「史上最大のショウ」では、犯罪者が身を隠すためにカーニバル芸人をやる姿が描かれていた)、興行主もそういった人間は安く雇えるため、喜んで迎え入れていたのだという。スタンも例に漏れず、あっさりとこの移動式遊園地に就職する。そこで、下働きをしながらも、読心術を覚えたスタンは恋仲になったモリーと共に遊園地を抜け出す。そして読心術によってスタンはその野心を膨らませていく....
本作は古典的なフィルムノワールを忠実に模倣している。ファム・ファタール、心に闇を持った男の破滅などが描かれる王道のフィルムノワール作品だ。ビジュアル・ルック面でも猥雑でどす黒い遊園地のバックグラウンドを描く前半から、アールデコ調の都市の景観へとマイナーチェンジする後半に至るまで、クラシカルでリッチな美術・画作りが細部に行き届いており、画のゴージャスさだけでお釣りが来る作品だと言っていい。一方で、描いていることのテーマは実に現代的である。デル・トロが「クリムゾン・ピーク」でも試みていた(そして失敗していた)「伝統的ジャンル映画の現代的再構築」が本作はより洗練された形で実現されている。加えて、「シェイプ・オブ・ウォーター」から繋がるデル・トロの一貫した問題意識が見て取れる。
スタンが行う読心術や霊媒行為は、明確に詐術、イカサマ、ペテンの類いのものだ。より卑近な例を出すと、「ホームレスは死んだ方がいい」などと言った人間のクズが一時期流行らせた「メンタリズム」がいちばんニュアンスとしては近いだろう。メンタリズムやらオカルトやらスピリチュアルやらといったものは例外なく全てがインチキであるが、毎朝のニュースでバンバン占いが流れ、某DaiGo的な人物が何の疑いも無くお茶の間に受け入れられているこの国の有様を観ると、暗澹たる気持ちになる。こういったイカサマがいかに悪質で空虚なものかをハッキリと言ってくれる本作をみんな観るべきだろう。何はともあれ、地頭が良く、根っからの野心家であるスタンは読心術でのし上がって行く。
本作が面白いのは、そうしたスタンの姿を通して詐術やオカルトと男性的な権力への欲望は親和性が高いということを喝破している点だ。「騙し騙され」もしくは「操り操られ」といった関係には、明確な権力勾配がある。人の「見たいものを見せ」、内側から人を支配してしまうからだ。そして詐術というのは「ハッタリをかます」という一種の「男性的な行為」であり、それが詐術であるが故に男性的な権力欲を刺激するのであろう。詐術によって人の心を理解し操ることに酔い、溺れていくスタン。そうすることで、現実に金を得て、豊かな暮らしをして、上流社会を生きる。そこには完全無欠の権力がある。スタンの姿に眉を顰める人物や、彼の暴走による被害者が軒並み女性であるというところも象徴的だ。加えて、スタンのエディプス・コンプレックスに基づく「父親殺し」の要素も並行して描かれている。移動式遊園地に流れ着いた彼の面倒を見るピートとジーナ夫妻。彼らはまさしくスタンにとっての両親でありながら、ジーナはスタンと出会って5分ぐらいでいきなり彼に手コキをする。そこには母親との性愛というエディプス期特有の葛藤を感じさせる。そして、スタンの前には実の父親、師匠筋としての父親など何人かの「父親的な人物」が入れ替わり立ち替わり現れる。スタンは彼ら父親を、直接的にも間接的にも殺していく人物である。権威としての父親へのヘイト、そして彼らと肩を並べ自らも権威になろうとする男性としてのあり方。これらの現代的な要素を中心としながら、奇をてらわない堂々とした語り口でストーリーを駆動させていく手腕は見事としか言いようがない。
こうした詐術と男性的な権力のあり方を我々が看過できないのは、現実に「人に見せたいもの見せる大衆扇動家」が同じような手口で権力を握り、支持を得ているからだ。トランプはオカルト的な手口で自らの支持層を熱狂させているわけだし、プーチンのプロパガンダに関してもロシア正教会との強い繋がりが背景にある。さらにQアノンによる陰謀論の熱の高まりも、「見たいものだけ見たい人たち」の熱狂と考えると本作の権力勾配とあまり変わらない構造が見て取れる。そういう意味で、本作はタイムリーかつ現代社会への警鐘として立派に機能していると言える。
物語は非常に皮肉でダークな結末を見せる。これまで人を操り、支配してきたスタンにとってはあまりに後味が悪い因果応報。権力欲に取り憑かれた人間が、どん底まで堕ちる。しかし、それは一種の解放でもある。権力を纏った人間がその虚さに気づき、そしてそれを脱ぎ捨て、解放されるためには「堕ちる」以外の方法はない。しかし、それに気づいたときにはスタンは人間以下の存在に成り下がっており、もう何もかもが遅すぎた....二重三重に皮肉の効いた素晴らしい着地である。
役者陣もスターキャストだらけの豪華な布陣となっている。特に、印象的なパフォーマンスを披露したのは本作のファム・ファタールとなる女性、リリスを演じたケイト・ブランシェットであろう。ケイト・ブランシェットはいつ・どの映画に出ても常に際立ち、キマりまくっているという稀有な役者であるが、本作でもその存在感は凄まじいものがある。ファム・ファタールとしての描かれ方も「主体性を持った個人」というアップデートされたものになっているのが素晴らしい。伝統的なフィルムノワールのファム・ファタールというのは「男が破滅していくこと」に関してはその主体性が発揮されないことが多い。その代わりに、本人が無意識的に醸し出す「女性の色気」によって、男は酔い、混乱し、自滅していく。しかし、スタンは自身と自身に纏わりついた権力に酔った人物であり、リリスは彼の嘘を暴くために主体的な関わりを見せる。また先に述べたエディプス・コンプレックスに絡めて言うと、リリスもスタンにとって自分を見透かす母親であり、彼の母体回帰願望を満たしていく。そしてそのコンプレックスにこそ、漬け込む隙を見つけ彼を破滅へと導いて行く。ブランシェットの古典的ファム・ファタール然とした怪しい立ち振る舞いそれ自体が、物語にツイストを与えているという点で、見事なパフォーマンス・キャスティングであった。
唯一、本作に対する不満があるとすればやはり少し長く感じるというところだろうか。特に前半はかなり冗長に感じた。たしかに前半パートで示された伏線が、ラスト30分に怒涛の勢いで回収されることを考えると丁寧な描き込みは必要であろう。さらにはスタンを、さり気なくも一貫して「読心術は得意だけど繊細な心の機微は理解出来ない」人物として描く前半あってこそ、後半のモラハラクソ野郎化した彼の姿に説得力が生まれるということもある。にしても、長い。別に無駄な描写があるわけではないのだが、あまりに前半を丁寧に積み重ね過ぎている印象を強く受けた。あと、これは完全に個人的な好みだが、映画には必ずオープニングタイトルを出して欲しいのである。本作はオープニングタイトルが無いので、どうにもヌルッと始まってしまって、イマイチど頭からのめり込めない感じがあった。(もちろん本作に限らず、その他のオープニングタイトルがない映画にはそのように感じることが多い)。
とは言え、非常にゴージャスで堂々たる映画である。万人受けは全くしないと思うが、おすすめです。
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