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「ドクター・ストレンジ MoM」a.k.a「死霊のはらわたⅣ」〜ネタバレ感想〜

「死霊のはらわたⅣ」を....じゃなかった、「ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス」を観てきたよ。

「マルチバース・オブ・マッドネス」(以下MOM)というタイトルを聞いた時に真っ先にラヴクラフトの「狂気の山脈にて」(原題「At the mountains of madness」)を連想した。そして、監督がサム・ライミである。ライミとラヴクラフトといえば勿論「死霊のはらわた」だ。「はらわた2」から登場する「死者の書」ことネクロノミコンは、一連のラヴクラフト作品に登場する架空の書物の名称であり、このことから勝手に「これは『死霊のはらわた』ユニバースが遂に開くのか!」と思って大いに盛り上がっていたわけだが、その期待に違わず本作はサム・ライミの映画としか言いようがない楽しみに満ちた作品であった。ここからは超ネタバレで書きまっせ。まだ観てない!という人は、家財を質に入れてでも今すぐ観に行って欲しい。

大前提として僕はMCUのドラマシリーズに関しては一個も観ていない。本作に関しては必須と言われていた「ワンダ・ヴィジョン」も当然ながら観ていない。ドラマシリーズまで熱心に追っているファンの方には「その程度の奴が書いた感想」として受け止めて欲しいのだが、ハッキリ言って今作はそれらを観てなくとも、何となく状況を察することが出来る程度には良心的な作りになっていたと思う。余談になるが、この「ストーリー的に分からないとこがありながら探り探り観ていく感じ」は皮肉にも、原作コミックを読んでいる感覚に近いと思った。と言うのも、原作コミックはMCU以上にありとあらゆるストーリーラインが交錯する作りになっているので、読んでいて「これは一体どう言う設定なんだ?」と混乱すること夥しい。しかし、そう言った瑣末な部分でいちいち混乱していては読み進められないので、「分からないところはひとまず放置して、本筋に集中する」読み方が求められる。そういったスキルが今後のMCUには求められるということが、「コミックに接近するMCU」というあり方を逆説的に証明しているようにも思える。

正直、最近のMCUの作品に対して、個人的には食傷気味であった感は否めない。詳しくは、以前書いた「スパイダーマン NWH」評を参照して頂きたい。しかし、サム・ライミが監督するとなれば話は別だ。なにせ僕の心の一作である「死霊のはらわた」や「スパイダーマン2」を撮った男である。その一方で、言うてもMCUは超巨大資本に基づいた「ファミリー映画」だ。その中で、サム・ライミはどのように戦うのだろうか?もはや映画とは言い難い、ファン向けのプロダクトに成り下がったMCU作品でどんな映画を撮るのだろうか?

結果的には、それらの懸念は全て杞憂に終わった。

サム・ライミはサム・ライミであることを貫き通した。完全勝利である。

MOMは昨今のMCU作品が重きを置いてきた、「知っているこの人が出た!」というファンしか喜ばないサプライズ的な楽しみを遥かに超越した、プリミティブでサム・ライミ的としか言えない「映画的な楽しさ」を大量に投入した傑作である。この「プリミティブな映画的楽しさ」は「キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー」や「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」にあったソレと非常に近しい感覚であり、「エンドゲーム」以降ではすっかり失われてしまった感覚だ(唯一「シャン・チー」にはそういう楽しみがあったと思う)。MCUは既に「映画の枠を超えたアートフォーム」であると思う。「映画」がもはや単体の「映画」としての楽しみや評価を必要とせず、ディズニーによる巨大なファンダムの中で全てが完結していく。広義な意味での「映画」を志向しないはずの(言い換えれば外部との適応性がない)このような作品群が、広義な意味での「映画」というエンターテイメントの本流となってしまっている状況はかなり危うい。マーティン・スコセッシやフランシス・フォード・コッポラのようなレジェンド監督達ですら思うように映画が撮れないような「ディズニーとファンダムによる超資本主義独裁体制」は長い目で観れば「映画」の死滅を意味しているし、そのような状況では当然ながらインディペンデントから新たな才能が登場することだってなくなってくるだろう。

MOMはそういった「ファンダムならではの楽しみ」にハッキリと背を向けている。と言うよりも、そういった「楽しみ」を明確に拒絶し、「映画」といえばMCUしか観ないようなファンを蹴り飛ばし、「こっちはサム・ライミだ馬鹿野郎!!!」と高らかに宣言してみせる作家主義の作品だ。サム・ライミはMCUから「映画」を取り返した(と現時点では思える)。予告編から仄めかされていた最大のサプライズは「イルミナティ」の登場だろう。声を発するだけで宇宙を破滅させる超人、ブラックボルト。兼ねてから出演を熱望していたジョン・クラシンスキー演じるミスター・ファンタスティック。そして、長らくパトリック・スチュワートが演じてきたプロフェッサーXことチャールズ・エグゼビアなどなどファンなら歓喜すること間違いなしの重要キャクターが一気呵成に登場する。しかし、本当のサプライズはここからで、なんとこいつらが数分後にはバタバタと死ぬのである。しかも、極めて悪趣味にだ(ここでいう悪趣味とは「人体をおもちゃ感覚で破壊するカートゥーンアニメ的な悪趣味」を指す)。ブラックボルトは口を塞がれ脳みそが破裂。ミスター・ファンタスティックは裂けるチーズのように切り刻まれ爆発。キャプテン・カーターは盾で身体を真っ二つ。プロフェッサーXは呆気なく首をへし折られてしまう。サム・ライミの「サプライズとかもう鬱陶しいし、面倒臭い!!」という声が聞こえてくるようだ。サプライズをちゃっちゃと切り捨て、その代わりにライミは「ライミ的としか言えない最高に楽しいアイデア」と「物語」を提供する。

まずサム・ライミとは如何なる映画作家かということを説明したい。長いキャリアの中で様々な作品を撮っている監督だが、根底には「ギャグマンガ的なスラップスティックなユーモア」がある。彼の作品ではマンガ的な出来事がマンガ的に起こる。「死霊のはらわた」ではブルース・キャンベル演じるアッシュが死霊に何回も殴り飛ばされ何回も本棚に激突する。「死霊のはらわた2」では右手を死霊に乗っ取られたアッシュが自分の右手と死闘を繰り広げる。「ダークマン」では怒りに震えたダークマンの目に本当に炎が灯る。「スペル」では地面がパカっと開き登場人物が本当に地獄に落ちる。このようなマンガ的な描写、もしくはマンガ的な比喩表現をストレートに画面に落とし込むのがサム・ライミだ。この特異な演出力は「スパイダーマン三部作」でも遺憾無く発揮されていたし、久々の監督作となった本作でも一貫されている。

本作は、序盤からライミ的な演出が炸裂する。ストレンジとガルガントスと呼ばれるひとつ目の巨大タコとの格闘がニューヨークで繰り広げられるのだが、ストレンジがトドメの一撃でガルガントスの目を引っこ抜く。ここで目を引っこ抜いた瞬間に「ポンっ!」という恐ろしく間抜けな音が鳴るのだ。この「ポンっ!」の瞬間、僕は「これは間違いなくサム・ライミの映画だ」と確信した。正しく前述した、「生命をおもちゃ感覚で面白おかしく破壊する悪趣味描写」である。そして、ここの戦闘シーンが何より超上手いのである。「なにを争点に争われているのか?」が極めて明確であり、人物の位置関係に混乱をきたさない。それ故に、決着の「キメのショット」が最大限に活きてくる。ここ最近のマンネリしきったMCUのアクションとは段違いの上手さを冒頭でサラッと見せてくるこの余裕。僕はコマンドーの名台詞ばりに「余裕の音だ」と言いそうになってしまった。余談ではあるが、その後の会話シーンも上手い。カフェでピザを食べながらアメリカ・チャベスとストレンジとウォンが会話するシーンである。ここは本作の重要な前提が示される会話シーンなのだが、ここのエキストラの動かし方が一級品だ。本来なら「前提を説明するだけ」の一歩間違えれば間延びしてしまうシーンで、ライミは会話に句読点を打つかのように画面にエキストラを横切らせる。何気ない演出だが、定期的にエキストラが横切ることで会話にリズムが生まれていく。これは上手すぎる。この時点でやはりライミは凡百の監督とは格が違うことが分かる。

このように序盤からライミの妙技を充分に堪能させられるのだが、話が中盤から終盤に進んでいくに連れて、サム・ライミが突き抜けて行く。と言うか、終盤に至ってはもうほとんど「死霊のはらわた4」である。ディズニー重役の「馬鹿!誰がここまでやれって言った!」という怒号が聞こえてきた気がした。マルチバース?じゃあ何でもアリだな!ならば思いつく限りの超面白いアイデアをぶち込んでやる!詳しくは伏せるが、あまりにブッ飛んだアイデア、それを強引に成立させる力づくの編集。ホラー的でありながら、あまりの過剰さに笑い転げるしかないこの感覚。ここまでのMCU的な文脈に基づくファンダムならではの限定的な楽しみは陽炎の彼方へ。「いま!このシーン!この瞬間に起こっていることこそが超面白いんだ!」という原初的で「純映画的」としか表現できない悦びに満ちたクライマックス。「これが映画だろ!!」。ライミの誇示が、「映画」が全てを力強く凌駕していく。

そして、地に足のついた「物語」を語ることにもライミは抜かりがない。ドクター・ストレンジという人間は元来、傲慢な男だ。その強大すぎる力ゆえに他人を信用しようとしない。「あなたは自分でメスを握らないと我慢ならない」。かつての恋人に指摘されるストレンジ。ここで面白いのはマルチバースという概念が、自分を写す「鏡」として作用している点だ。マルチバースは「どこかにある全く別の世界線」ではなく、「この世界線に存在する自分の延長」である。どの世界線であろうがストレンジは傲慢な鼻つまみ者であり、自分でメスを持ちたがる。めくるめく多元宇宙の旅で幾度となく「自分自身」と向き合うことになるストレンジ。いつしか彼は「この方法しかないんだ」と1400万605分の1の勝機を見出した自分と決別する。1400万605分の1はあくまで「自分の範疇で知りうる確率」に過ぎない。たしかに「自分でなんでも出来ること」は「強さ」だ。同時に最大の「弱さ」でもある。時に強権的に他者の意思を無視してしまうからだ。それは独善だ。本当の強さとは、本当の「善性」とは決定的な判断を、運命が決する瞬間を他者に託すことが出来るかどうかにかかっている。ストレンジがある人物に「託した」瞬間の「美しさ」を見よ。僕の脳内では同時に「Groovy....」という名台詞がリフレインしてしまった。しかも、こういった確かな物語が、あくまで「ひとつの作品の中」でしっかりと完結しているのが、昨今のMCU作品としてはかなりポイントが高い。

本当にいいところだらけでニコニコしながら観れた作品ではあるが、激怒する人もいるだろうなというのも正直なところ。実際、結構怒っている人もいるみたいである。特に、「ワンダ・ヴィジョン」も含めるドラマシリーズまで思い入れたっぷりに追っている人が怒るのも無理はないと思う。僕は「ワンダ・ヴィジョン」は観ていないが、あまりにワンダが不憫だという意見には同意する。特に、序盤の話運びがスムーズであるが故に、「早々にワンダが今回のヴィランであることが発覚するという件」に関してはドラマシリーズを観ている人からするとかなりの落差を感じるのだろう。僕もワンダは大好きなので(とか言うならドラマも見ろや!と言われそうだが)、彼女のあんまりな境遇にはところどころ涙してしまった。しかし、最終的な顛末としては彼女が自分で選択し目を覚まし、少しではあるが彼女にとっての「救い」も描かれていたように感じられたので、そこまでの不満はなかったりもする。「薬をぶち込めばOK!」という、無神経でそれこそ独善的としか言いようがない解決の仕方よりは100倍マシであろう。そして、安心して欲しい。サム・ライミ的な映画文法からすればワンダは生きている可能性が高い。というのもサム・ライミの映画では毎回、人が死ぬ時は「明確にそいつが死んでいる姿を見せる」傾向にある。今回、ワンダは明確に死んだ姿が映っていないので、生きてる可能性が高いのでは?と思う。願望込みでの予想ではあるが.....うぅん、どうか生きててくれ....てか、「ワンダ・ヴィジョン」観てなくてもこのテンションなのだから、そりゃドラマ観てた人は辛いはずである。

何はともあれ、サム・ライミの間違いない手腕とその健在っぷりを堪能出来ただけでも大満足。どころか個人的にはMCU作品ではトップクラスに好きな作品になった。そして、この作品を観て「サム・ライミ」という名前をこれまで知らなかった!という人がいたら是非「死霊のはらわた」から観てみて欲しい。

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