「アネット」〜ネタバレ感想〜
レオス・カラックスの「アネット」を観てきた。
僕自身、レオス・カラックスってあまりストレートに面白いと思ったことがないのが正直なところで。特に、最初の3作(「ボーイ・ミーツ・ガール」「汚れた血」「ポンヌフの恋人」)は悪い映画だとは思わないけども、「うーん....なんか住んでる世界が違うなこの人は....いいや、サンゲリアでも観よう」なんて感じであまりマトモに取り合ったことがなかった。まぁ、そういうことって良くある。「ホーリー・モーターズ」も最初は大学生の頃(多分20歳くらいの頃だと思う)に観て、あまりに意味がわからなくて途中で脱落した。しかし、「ホーリー・モーターズ」は割と最近になって見返してみたらこれが頗る面白くて、年齢を重ねて少しは頭の方も進歩してるんだなぁとボンヤリ嬉しくなったりもしたものだ。
そして今回、実に9年ぶりの新作である「アネット」は初めてカラックスの映画で初見から素直に「面白いな」と思えた作品であった。個人的には大満足である。カラックスの作品はどれも自己言及的で、それ故に鼻に付くところがあったのだが、今回は自己言及的なスタンスはぶらさずにより成熟した「大人」の作品になっていたので、非常にすんなりと無理なく受け入れられた。公開から既に時間も経っているので、「何周遅れだよ!」と言われてしまいそうだが、せっかくなのでレビューしていく。
お話的には何ら難しい作品ではない。というか、すごく分かりやすい。アダム・ドライバー演じるヘンリーはスタンダップ・コメディアン。マリオン・コティヤール演じるアンはオペラ歌手である。2人のロマンスと結婚生活の破綻、そして2人の子供である「アネット」を巡る顛末が描かれる。本作が面白いのは2人のアーティストの姿を通じて、「創作と支配/被支配」および「創作とパーソナリティ」について言及している点だ。ヘンリーは毒舌と過激なユーモアでカルト的な人気を誇る新進気鋭のコメディアンである。序盤、延々と彼のショーが長回しで描かれるのだが、個人的にはあまり笑いどころが分からなかったものの、パフォーマンス能力自体はすごく高いので、むしろ「カルト的人気を誇るコメディアン」という役にはマッチしているように感じた。そんな彼はボクシング・ローブをステージ衣装として身に纏い、本番直前までシャドーボクシングをして自分を奮い立たせる。そして、ステージ上で炸裂する攻撃的なユーモア。終演後、アンにステージの出来を尋ねられた際に、彼はこう答える。「死なせた(killed them)」と。このことから彼は「人を笑わせる」ということを暴力的/男性的な支配欲の発露として捉えていることが分かる。一方、アンである。アンは(オペラに限らずあらゆるジャンルで描かれる)典型的な悲劇のヒロインばかりを演じている。ステージに上がる度に彼女は伝統的な女性像を演じ、暴力と支配の被害者となり死にまくるのだ。
このように創作による支配/被支配の関係を提示した上で、2人のパーソナリティや私生活にまで「創作」が侵食していく様が描かれる。アンは冒頭「女王の王国に王はいらない」と歌う。これは読んで字の如く、男性に自分の人生を奪われず自立して人生を歩みたいという彼女の心情を表している。しかし、彼女はヘンリーに惹かれ、結果的に自らが演じる役と同じように自分の王国に支配的な王を迎え入れることとなってしまう。一方、ヘンリーはアンが舞台に登っている間、家で子守りに勤しむ。元来、「男性的な男性」であるヘンリーは、男としてのプライドが踏み躙られているように感じてしまう。そして何を血迷ったか、ついにヘンリーはステージ上で面白くとも何ともない妻殺しに関するネタを披露してしまうのだ(ここでの「ゼロ笑いっぷり」が素晴らしい)。観客からはもちろん大ブーイング。彼のキャリアは下降線を辿ってしまう。だけならまだ良かったものの、この舞台でのネタがヘンリー自身を侵食し、中盤にはついにネタと同じことが現実に起こる。ヘンリーは創作と同じように他者を暴力で支配しようとし、アンは創作と同じように暴力的に支配される。彼らは、自らの創作と同じ人生を生きてしまうのだ。「ホーリー・モーターズ」も創作に関する映画であったが、本作もまたアーティストにとって創作がいかなる影響を与えるのか?ということを警鐘も込みで描いているように思う。
そして、そんな2人の軋轢の割を食わされるのが、娘のアネットである。なんとこの子供はパペットである。ここで重要なのが、ヘンリーとアンのどちらの目からも彼女はパペットに見えているという点だ。要は、アネットというのは2人のエゴに基づいた自己実現のための「モノ」であるということだ。こういった親って結構多いように思う。子供に厳しくスポーツを叩き込んだりしている親とかは大体この部類だったりする。ヘンリーにとってアネットはアンと同じように支配の対象でしかない。彼は支配と被支配の構造でしか人間関係を築けない。アン亡き後のヘンリーは、徹底的にアネットを搾取する。そこではアネットの意思や人格は完全に無視されてしまっている。つくづく同情の余地のない男である。一方、アンはアンでかつて望んでいた「王を迎え入れない女性」としての生き方をアネットを愛することで実現しようとする。支配を被った彼女の愛情でさえ、アネットにとっては一種の支配のようだ。アンがアネットを抱きながら、彼女への愛を歌い踊るシーンがあるのだが、ここではアネットが「いかにもパペット」といった様子で扱われるので、愛を捧げるシーンでありながらゾッとするような暴力性が纏わりついている。そして、ヘンリーによってその命を奪われた後、アンは彼への怨念をアネットに託す。そんなもの託された側はたまったもんじゃないが、アンは死してもなお自らの「怨念の成就」のためにアネットを利用しようとしてしまう。
どうしようもない親のどうしようもなさをたっぷりと見せつけられる本作であるが、最終的に話は「アネットの自立への讃歌」として収束していく。おそらく、この部分にカラックスは強く自己を投影しているのだろう。カラックスの初期3部作はカラックスの分身とも言える主人公の一方的な思いを受け止める女性との関係を描いていると言える。その当時にはその当時のカラックスなりの切実さがあったのだろう。しかし、そういった話が何らかのロマンチシズムを伴って受け止められる時代はとうに終わっている(と同時に過去まで遡って初期三部作の価値が下がったりすることはない、ということは強く言っておきたい、むしろ価値判断の軸がひとつ増えたと捉えるべきだ)。そこに対してカラックス自身も自覚があるのだと思う。一方的な思いを相手にぶつけることは時として加害性を持ちうる。それが例え愛情であろうが。毒親からアネットが自立を決意した瞬間、それまでパペットであった彼女は人間になる。親の所有物に貶められていたアネットは、ついに自分の声で「パパもママも決して許さない」と宣言する。「これは僕が父親になってからの映画だ」とカラックスは語る。これは冒頭にも登場した自身の娘への讃歌と取るべきだろう。過去に他者への一方的な思いを剥き出しにし、終いには他者を占有するような映画を撮ってきた自身と真摯に向き合い、そんな中でも正しく育ってくれた娘への愛を歌う。ううむ、ええ話じゃないか....「ええ話」なんだが、しっかりと苦味も感じさせる「大人な着地」も個人的には凄く良かったと思う。
てなわけで、カラックスの作品ではダントツで好きな作品になったですよ。全編を彩るスパークスの楽曲も素晴らしいものばかりなので、サントラも購入しようかしら。
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