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ちょっと思い出しただけ〜Noネタバレ感想〜

これから感想を書こうという話の腰を自分自身でへし折っていくが、僕は松居大悟監督という人の映画を一本も観たことがなかった。というか、名前すら知らなかった。こんなことを言うと「こいつは本当に映画好きなのか?」と思われてしまうこと必至だが、人には人の好みというものがある。そう言う君はルシオ・フルチの映画を観ているのかい?なんて幼稚な反論をしたくなってしまうが、そういうのはもういい加減卒業しよう。今回の「ちょっと思い出しただけ」も丁度「映画の日」で安く観れるようだったので、時間潰し的に鑑賞したのであった。で、観終わってあーだこーだと考えていると、どうにも言いたいことが溜まってきてしまったので、今回このように感想を書こうということである。

まず大大大前提として、僕はこの映画けっこう楽しく観た。ということは言っておかねばならない。と言うのも、この作品のウェルメイドなギミックが最大限の効果を上げているということは否定のしようがない事実だからだ。話はまさしくコロナ禍真っ只中の2020年代を起点とし、池松壮亮演じる照生の誕生日のみに的を絞って時間を遡っていく。かつて照生と付き合っていた伊藤沙莉演じる葉が、照生を偶然を見かけたことでおよそ6年間に及ぶ彼との物語を「ちょっと思い出し」ていく。この「ちょっと思い出す」ギミックが上手い。ダイアローグやテロップによる安易な説明を一切排して、照生の部屋のレイアウトや、髪型、またコロナ禍以前/以降の世の中の景観の移り変わりという必要最小限の見せ方で、物語が遡っていく。このギミックのおかげもあって、観客としては「一体いま映っているのはいつの時点の話なのか?」ということを、能動的に読み取っていかねばならない。故に、ドラマチックな展開をあえて回避しながらも観客が飽きることはない。またディティールやアイテム同士が有機的に繋がりを持って描かれていく感じも大変に上手い。そりゃ、面白く観れるわけである。また、コロナ禍という人類であればほぼ誰もが無縁では無いトピックを扱うことによって、普遍性を獲得している部分もあるだろう。マスクのある日常、そこかしこに設置されたアクリル板、東京オリンピック。今思えば、コロナ禍以前の日常は遠い昔のことのように感じられてしまう。正しく「過ぎ去った時間を愛おしく思う」本作においてはギミックとして抜群の効果を上げていると言って良いだろう(一方で、コロナ禍を単にノスタルジックな感傷に浸るためのオカズにしてしまって良いのだろうか?という倫理的な疑問は残る)。そういったギミックに加えて、主演の2人(伊藤沙莉氏と池松壮亮氏)の演技が素晴らしい。この2人のことを思わず好きにならずにはいられない魅力が炸裂しているし、はっきり言ってこの2人がいるだけで間が持ってしまうぐらいの引きの強さがあったように思う。

ここまでは事実としてこの映画の良かった部分。こっから文句ばっかりになるので、この映画のことを好きな人は高確率で不快な気持ちになるので要注意である。僕がこの作品に感じた最大のノイズ、それは「今さら『ナイト・オン・ザ・プラネット』って…」ということである。本作のオープニング。東京の街を走らせるタクシー運転手の葉と、後部座席の乗客の会話が描かれる。この時点で、それなりに勘の良い観客ならば「ナイト・オン・ザ・プラネット」だ!と気付くのだが、次の瞬間には驚くべきことに照生が「ナイト・オン・ザ・プラネット」を観ているシーンが流れるのである。はっきり言って今どきジャームッシュの映画から着想を得ています!ということをここまで声高に宣言するのって、むっちゃダサいと思うのだが....別にジャームッシュ自体がどうこうということを言いたいのではなく(僕自身はジャームッシュに対してはそれほど思い入れはないが)、問題の本質はもっと別のところにある。僕は「作家やその周辺の関係者の趣味性を単にリファレンスとして丸ごと入れ込むのって、2020年代の映画としてはあまりに工夫に欠けているのではないだろうか」ということを言いたいのである。ここ数年の映画は洋の東西を問わず、大量のリファレンスの氾濫と言うべき状況があるのだが、そういったリファレンスは当然のことながら「作品の厚みを増す」ために用いられるべきだ。例えば、作品内に大量のリファレンスを投入する作家としてはクエンティン・タランティーノが挙げられる。彼の引用の用い方は、それこそ文脈もクソも無い「単に好きだから入れた」ようなものも多いのだが、その引用元が「誰が分かるねん!」と言いたくなるような、極めてマニアックなものであるため他の追随を許さない「目利き感」が生まれている。加えて、過去の映画からの大量の引用が「今では忘れられてしまったが、過去に確かにあった映画の息吹や体験を蘇らせる」ように使われている点に、彼でしか生み出せないオリジナリティがある(まぁ、このような手法のパイオニアなので許されてる点はあるとは思うが)。このような手法は「良いものやオリジナリティがあるものは全部昔の人がやっちゃってるんだよね」なんてことを言われがちな時代において、ポストモダンな感性でもって創作の裾野を押し広げた(そして、このポストモダンな時代は一体いつまで続くのかを我々は注視する必要がある)。さらに、ここ数年で一気に時代精神が進歩していることもあって、過去の映画を引用することで引用元に対して、今の時代感覚に則った批評性を加えていくようなリファレンスの示し方も増えてきた。スパイク・リーの傑作「ブラック・クランズマン」では、70年代ブラックスプロイテーション映画をストレートに引用することで、その当時の表現における黒人の表象にいかに問題があったか?を現代の視点から喝破している。

というようなことが星の数ほどあるわけである。それを考えると、今作のリファレンスは軽薄で、貧しいものと言わざるを得ない。てか、そんなダサいことしなくても映画の内容には全く関係ないんだから、やめればいいのである。そんなことしなくても面白いんだからさ。僕は「擦れた残念な映画ファン」なので、こういった安易な引用を見ると途端にイラッとしてしまうのである。許してくれ!

もう一点。まだ続ける。先に「この映画が持つ普遍性」みたいな話を少ししたが、それが比較的射程の狭い限定的なものであるということは言及せねばならない。これはディティールや時代感の表現が精緻である、というこの作品の長所と表裏一体な部分がある。要は、この作品って登場人物たちと「同時代に」、「東京で生きていた」、「同世代の人々」にとっての「リアル」のみを描いているのではないだろうだろうか?その試み自体は前半で書いたように、これ以上なく成功していると思う。しかし、それ故に結果として特定の世代の、ごく一部の観客にしか届かないものになっているように見える。僕個人の話になってしまうが、田舎生まれ田舎育ちのクソ田舎もんである僕にとっては、本作の世界はどこかクローズドなものに見えてしまって、はっきり居心地の悪さを感じてしまった。で、冒頭に「松居大悟監督という作家を全然知らない」と書いたが、本作を観たのでついでに数作鑑賞してみたのである。ぶっちゃけどれもそこまで面白いとは思えなかった(加えて、本作が松居大悟監督の作品としては出色の出来であることが分かった)のだが、本作で感じたこの「閉じられた感じ」というのはどの作品にも共通するテイストであった。特に同性同士のイチャイチャ描写。これが多い。内輪ノリ感、ホモソーシャル感みたいなやつである。それ自体は多くの人が身に覚えのある場面だったりもするのだが、そこに対するあまりの無邪気さゆえにどれも非常に閉じられた、居心地の悪い作品になっていると感じた(唯一、「くれなずめ」だけはそういった内輪ノリ感に客観的な視点を組み込んでいたと言えなくもない)。また、そういった描写がリアルで上手いもんだから、余計に居心地が悪い。で、僕は本作の「閉じられた世界」のあり様は、過去作でのそれと完全に区別がつかない。映画というメディアが描き出す射程の広さを舐めてはいけないのだ。極めてミニマムで個人的なカットが、ショットが、シーンが、ありとあらゆる場所に向かって乱反射し巨大なスペクタクルを、ひいては「世界」を映し出すことが映画には出来るのだ。単に個人のノスタルジーを刺激する程度の範疇に収まるものではないはずだ。そういったポテンシャルを本作が秘めていると思ったので、余計に残念でならない。

最後に。これは完全なる愚痴だが、なんか最近の邦画は昔の恋愛のことばっかり思い出し過ぎな気がする。そりゃ、ふと思い出したりすることもありますよ....人間は弱い生き物ですから....でも前向いてやっていきましょうよ....なんてふうに最近の邦画を観るたびに思ってしまうのは僕だけだろうか....本当はもっと未来世界でモンスタートラックが縦横無尽に宙を舞う!みたいな映画がみたいのだ。


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