「おいとけさま」に代わるもの

結構前ですが、NEO表現まつり・鳥公園の『abさんご』/2022年度の研究報告と座談会いってきました

鳥公園の西尾さんが新しい劇作論を書くため、3年にわたり『abさんご』を題材に試行してきた企画の、報告会とゲストを招いた座談会で、
西尾さんの問題意識が見えてきた回でした

近代的な個の輪郭をほどく、とは
役と俳優が1対1で結びつかないありかた、というふうにわたしは捉えたのだけど
つまりそれはある種のスタンダード演技(以前ののnoteで書いた、舞台上に俳優が役に見えるように振る舞う演技)とは別の方法の模索、ということだと思う

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西尾さんの報告会でとったメモ↓

シアターに限界を感じる、「おいとけさま」に代わるもの

「おいとけさま」は、別役実が書いた、実在しない道具について書いたエッセイ『道具づくし』の中に出て来るアイテムで、以下の説明がある

三人以上が集まれば座がなごむが、二人きりで対座するとなると、どうしても気詰まりだ。という感じは一般的によく知られている。《おいとけさま》というのは、そうした二人きりの対座の時、座をなごますためにかたわらに置く、等身大の坐像のことである。(「おいとけさま」より)

演劇は、始まりは神様にささげられていたので、観客はそれにたちあう、という形で観劇していた

演劇→神
  ↑↑↑
  観客

でも今の観劇スタイルは、観客が舞台上の俳優を見る形になっている、だから客席と舞台は1対1になっている

演劇↔観客

これがしんどい、シアターでやることの限界がある、という話だったと思う

で、今演劇を1対1ではなく、観客が立ち会う形で演劇に参加するためには、「おいとけさま」がいるのではなかという

演劇→おいとけさま
  ↑↑↑
  観客

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で、ここでの「おいとけさま」は一体何なんだろう、という

わたしはそれが戯曲なんじゃないか、もしくは、舞台上で起きるリアルタイムの出来事なんじゃないか、という気がしている

演劇→戯曲
  ↑↑↑
  観客

わたしはいま俳優が戯曲に追随しない有り方に興味があって、(戯曲をゴールにしない演技をしたい)だから、その間、俳優と戯曲の間で何が起きているのか、みたいなことを観る、ということは出来るかもしれない、と思っている

でもこれは、やはり観客が一方的に鑑賞するスタイルからはあまり離れていない

それでもう一つ考えたのが

演劇→出来事←観客


能とかは、おいとけさま的なもの?神様なのか幽霊なのか到来する者なのか、ちょっと能のことは今のところ不勉強で、詳しくはないのだけど
そういうものがある、はずで
だから、能では観客と舞台の間にはきっと何かあったんだと思う

だから、能スタイル?にはヒントがあるよなと思う

わたしは、何か到来するもの、というのは、希望的観測というか、能全盛期の時代では観客もそれを信じられたかもだけど、現代の客はそれにはノれないかも?という気がしていて

だから到来するものを待つのではなくて、舞台上に何事か起こす必要があるんじゃないか

何事か起こすというのが、ドラマになると、それは一方的に鑑賞するスタイルと結果同じになると思うが、
なにかドラマとは外れたところで、空間で起きていることを体験できれば、それはおいとけさまになれると思う

観客が、劇場空間で起きていることを、俳優と一緒に体験すること、俳優と共有すること、が、1対1の関係(シアター)から脱却できる方法かもしれない

シアターの脱却、と言っているが、わたし自身は劇場が好きで、劇場でやる演劇が好きです
シアター的な、1対1一方的に鑑賞されるスタイルは、もちろん劇場がそれに適していて、劇場の力によってそうなっているとは思うのだけど
シアター的な鑑賞スタイルを脱却できるのも、劇場だと思う、わたしは
場所を共有できる他者(俳優はほかの観客)と何事かを一緒に体験できる、というのも劇場という特殊な空間だからこそできると思う

とっても前に、娯楽は一方的に享受できるもの、演劇も基本的にはそのように受け取られていると思うけど、
そして演劇は役に共感することでそれを享受できる、ということを書いたのだけど
それには限界がある、という話なんだとも思う
共感ではなくて、共有していく空間として、劇場を使いたい、わたしはそういう演劇が好き
前にもそういうのかいたな(コミュニケーションと想像、共感から共有へ

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