戯曲をゴールにしない演技をしたい
一般的に、オーソドックスな演技といえば、総じて、舞台上で役が役のように振る舞うことことを指している、と思う
スタニスラフスキーが書いた『俳優の仕事』には(以下は私の読書メモだが)「役を生きる芸術」「俳優は意志を離れて、役の生活を生きることになる」「≪与えられた状況≫のなかに、真実の情念がある」「≪与えられた状況≫を真剣に生きると、おのずと情念の真実が生まれる」とか書いてある
(≪与えられた状況≫とは、役の置かれた状況のこと、おそらく一般的な設定とかではなく、役にとっての、主観的な状況のこと)
アクターズスタジオの俳優がハリウッドで活躍しているのを考えると、メソッド演技がおそらく世界的に演技の主流だし、メソッドはスタニスラフスキーシステムから派生したものなので、まあ大まかに考えて、だから役を役らしく演じるのが、演技の中で目指されているといっていいと思う
そして役が役らしく見えるほど、リアルに見えるほど良い演技、うまい演技、という
ここまでは前提でして
わたしの中の演技の流行で、最近は、さも登場人物です、みたいに舞台上にいるのを避けているのですが、
それは俳優と役が同時に見える方が面白いんじゃないだろうか、無理に「役です」みたいにしないほうが、自身にとって面白いんじゃないだろうか、という予感からくるものだったのですが
なんかこれは、もしかすると、わたしなりに「戯曲に徹さない、尽くさない」、という姿勢だったんじゃないだろうか、と思ってきた
戯曲に徹さない、というのは、戯曲に沿おうとしない、ということなんですけど
演技は一般的に、役が役らしく見えることが求められているから、
例えば戯曲に「叔父に復讐する」と書いてあったら、その役が叔父に復讐しようとする根拠や、そのための行動や、葛藤や、実行に移すまでのきっかけとかを読み解いて、「叔父に復讐できるように」演技の設計をすると思うのですが
それって、つまり演技のゴールが戯曲なんじゃないか、という気がしている
(戯曲は行動の結果が書かれているわけなので、当然と言えば当然なのですが)
戯曲をゴールにして、ゴールから逆算して役をつくる、演技の道筋をつくる、みたいなことが、いわゆる演技の組み立てというか
で、もちろんわたしもかつてオーソドックスにそうやって演技を組み立てていたんですが
そうすると、役が理解できない、みたいなことや、生理的にそうはならない、みたいなことがたくさん出てきます
それはそうだよね、役はフィクションで、わたしじゃないから
で、そこの辻褄を合わせる、つまり、理解できないところを解釈したり、生理的にそうはならんやろというところを設定や前提から考え直して「まあそうなるかも」ぐらいに折り合いをつけてく、そうはならんかもだけど理解はできる、みたいにして役の行動に沿うように作っていく、というのが、まあ演技の組み立て方というか、準備?戯曲の読みこみ方?だったわけです
で、これもままぶちあたった壁なんですが、「じゃあ演劇にしなくても戯曲読めばよくない?」という
これは極論ですけど
もちろん活字には活字の良さがあり、舞台には目の前に人がいるという力や、リアルタイムで起きているライブだ、という良さがあります
ので、戯曲がゴールだとしても舞台上で演劇として立ち上げる良さは、まあある、といっていいと思うのですが
逆にいうと、舞台のうまみは空間が立ち上がってライブだということでもあるわけです
ちょっと脱線しますけど、わたしはフィクションの力を信じています、信じているっていうか、フィクションだからできることがあると思っています
ライブの良さで言うと、音楽だってサイコーだし、スポーツ観戦だってアツいと思うのですが、
演劇の良いところは、フィクションを演ってますよ、というところにあると思っていて(ドキュメンタリーとかもあるけど、それは作品として構成されているだろうし)
フィクションだからこそ、現実世界だけではできない方法で、リアリティを感じたり、世界をとらえ直したり、自分のことを再認識したりできる場所になれると思う
で、そう言う作品を立ち上げるためには、役をそれらしく演じること以外でもできるんじゃないか、と思っている
で、演劇のうまみを「フィクションで空間を立ち上げたライブ」だと仮にしたときに
フィクション(というか戯曲)に徹する姿勢が、はたしてライブに貢献できるのか?という
「台詞を覚えて忘れられるのか問題」というのがわたしはあると思っているのですが
これは、台詞は覚えないと言えないけど、さも初めて言った、聞いた、みたいに新鮮なリアクションを何度でもするの難しいぞというジレンマを指しています
で、この問題って、実は前提として、役はそのことを初めて体験するはずだからそうあるべきだけど、でも俳優はあらかじめ言うことは決まっているし何度も繰り返さないといけないから、という条件があると思うんですけど
役のふりして未来を予測できないみたいにするのは、役に沿って演技プランをつくっているのに、むずすぎるのでは、という
で、最近、べつに初めて言うみたいな振りしなくてもいいんじゃないか、ということを考えいます
つまり、書かれてることやりますよというスタンスでいいんじゃないか、という
(これは別に段取りをやればいいというわけではないです、念のため)
じゃあどこにライブ感があるのかというと、それは①俳優と決まり事の間、そして②その行動を受けた空間や相手と俳優の間、にあるんじゃないかという
①決まり事っていうのは、戯曲に書かれている台詞やト書きのことですが
たとえば、「尼寺へ行け」と言うのは決まり事としてあるときに、「尼寺へ行け」と言えるように準備する必要はなくて、
その言葉を発することに対する俳優の距離感?みたいなのが面白いんじゃないかと思っていて
つまり、役を理解できなくても、台詞を言っていいと思っている
決まり事だから言うけど、なんでこんなひどいこと言うんだろう、とか思っていてもいいし、尼寺というチョイスについて疑問に思っていてもいいし、逆にめちゃくちゃ必然だと思うかもしれないし、俳優個人がたとえば修道院とか行ったことあるならそのイメージを持っていてもいいかもしれない
②で、「尼寺へ行け」という言葉が発された後、それは自分の耳にも届くし、オフィーリア役の俳優にも届くし、観客にも届くし、空間にも放たれている
このことによる影響というのがあって、それは自分にダメージを負うのかもしれないし、相手役の俳優が変な様子になるかもしれないし、空間の質が変わるかもしれない
で、②のフィードバックを受けてまた①をする、②の影響を受けたまま①を続ける、ことが、ライブ性を担保し、結果ドラマにもなる気がしていて、
もし、そのあとが相手の行動だとしてもそれは決まり事なので①で、どういう音で発されるか、どういう態度なのか、身体なのか、そういったものに影響を受ける、
という繰り返しで、
決まり事というフィクションと現実に存在している俳優が、同時に表れるんじゃないか、
あと、戯曲に沿った演技プランをつくっていると、どうしても言葉に雁字搦めになるし、どんなに集中して注意を払っていても演技プランとは関係ない相手のリアクションとか、自分がそれすることへの違和感とかが見過ごされやすい気がしていて、(わたしの場合はですが)
戯曲に頼りすぎずにその場で起きることに集中できれば、そこへの解像度が上がるんじゃないか、その解像度が舞台の見応えに繋がるんじゃないか、とおもっている
それこそ、戯曲読むだけではわからないことが、そこで生まれるんじゃないか
とか、考えています
なので、そうやって演技したいな、というのが、最近の目標です
来月のお布団の新作絶対に見てくれよな(宣伝)
『ザ・キャラクタリスティックス/シンダー・オブ・プロメテウス』
追記
今年の出演これで終わりなのでいまのところ、よろしくです
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?