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感想:海辺のレストラン~ガスパール&ロバンソン(1996年)

ガスパールとロバンソン

 親に捨てられた過去をもつ男(ロバンソン)と、職を失い、家族にも捨てられた男(ガスパール)が海辺の廃屋に住んでいる。椅子を拾ってきては、まだ使えそうなものに色を付け直して売っている(と思われる)。食べるものは人の家から頂戴している。
 ロバンソンは自分の悲しい経験から困っている人を放っておけない。映画は、一人の老婆が置き去りにされる(日本で言えば姥捨て山?西洋では山でなく海に捨てるのだろうか?)場面から始まる。やがて彼女は、ロバンソンに拾われ、ガスパールの反対に合いながらも家族の一員となっていく。家族を失った悲しみ、妻への変わらぬ愛情。今日もガスパールは、思い出のレコードをかけながら、酒をあおって泣いている。
「泣かない?」ロバンソンと老婆のやさしさに触れ、傷を癒していくガスパール。ロバンソンは、家族というものを知らない傷、一人で生きていくことの寂しさを、ガスパールは家族を失うことの悲しさをそれぞれ抱いている。二人の夢はこの廃屋をレストランにすること。

「一人で世界中の悲劇をなくす気か?」

 娘を育てながらも病気で働けず、物乞いをする女。ロバンソンはもちろん放っておかない。「一人で世界中の悲劇をなくす気か?」ガスパールは今回も反対。それでも最終的に女とその娘を受け入れたとき、ロバンソンと女、その娘とお婆ちゃん、四人の姿。それは家族だった。家族がいいものだということを再び受け入れるガスパール。そして、同時にそこに自分は必要ないと悟る。車を売った金でレストランの営業許可証を手に入れ、それと残った金、短い手紙を残して、もう一度自らの人生を、家族を築く旅へ出ていく。野良犬を連れて。

「食べに寄るよ」

 ガスパールはロバンソンのやさしさに触れ、そして新しく誕生した家族の暖かさに触れて新しく人生を踏み出す力を得ることができた。やさしい(だけ)のロバンソンには今から家族を守るという難しい仕事がまっていることをガスパールは知っている。だからこそ、今度(レストランに)食べに寄るよと書き残している。ガスパールが、そして観ている私たちがこの家族の幸せをこころから願うのである。

 食う心配、食わせる心配がいらないなら、誰だって不幸な人間に手を差し伸べるだろう、と食料を盗んでくるロバンソンに、そんな思いが浮かぶ。でも、本当にそうだろうか?私にロバンソンの悲しみ、そしてやさしさの一端でもあるだろうか?余裕があれば本当に赤の他人に手を差し伸べるだろうか?今がどんな状況であれ(余裕があろうがなかろうが)、今やらないなら、今そういう気持ちが起こらないなら、きっといつまでもできないだろう。ロバンソンの屈託のない笑みが忘れられない。

 これを書いたのは20年近く前。さっき調べたら、邦題が変ってた。そんなこともあるんですねえ。

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