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「教養」のある人になりたい

 昨日の日曜日の夜は焼き肉パーティーでした。別にパーティーを開催したわけでもないけど、ホットプレートを囲んで肉を焼けば自然とパーティーになる。子どもが好きそうな、あの味付けしてある肉を最初に焼いたんだけど、自分もおなかが減っていたので、子どもと一緒に白ご飯とガツガツいってしまった。で、ちょっとだけビールも入ってたし、すぐおなか一杯になっちゃって、その後出てくるタンやら、黒毛和牛やら、ホルモンやら、目の前でどんどん焼かれては消えていくのを眺めているだけでした。以前も書いたけど、食欲がある、食べられるって幸せだよなあ。死ぬまでにあと何回食事ができるだろうか。そのうち、何回自分の好きなものを好きなだけ、リラックスした環境で食べられるだろうか。しかも年とともに味覚も衰えて、量も食べられなくなっていくんだろうし、病気とかして食べるものも制限されるかもしれないし。今のうちに好きなもの食べよう!お金とか、ちょっと高めの尿酸値とか気にしてる場合じゃない!

貧乏舌

 と、ここまでは、もう何年か前に到達した結論だったんだけど。最近また気づいた、というか、気づかされたのは、食べたいものがあんまりない。食にこだわりがないのか、舌が肥えてないのか。知識がないのか。どれも、原因の一つなんだろうなあ。
 このことも今までは結構プラスに捉えていて。そこに、お金とか時間をかけないのは逆にかっこいいとすら思っていた。やっぱり「清貧」の思想がこの辺にも影響してるかも。男子たるもの、何を食べるか、などという俗なことに頭を悩ますのでなく、もっと大きいことを考えるのだ、みたいな偏った考えもあったかも。男子厨房に入らず的な。そういう意味じゃないか、この言葉は。。。

食育

 でも、やっぱり、それでは、人生の楽しみを一つ失ってる、と。いや、もっと積極的に「無教養」だと思い始めて。「僕って食にこだわりないんですよ~」って簡単に言っちゃうのは、「いや、政治なんて興味ないです」とか臆面もなくに言っちゃうのと同じなんじゃないか。したり顔で蘊蓄を語る必要は全くないが、食というものについての定見をやっぱり持っておかなくては、自分なりの考えを。大人だったら。
 高いブランドでなくても、自分に似合う、清潔感のある服装を選ぶように、食についても、自分の体質に合った、自分が心から満足するものを日々選ばなきゃいけないんじゃないか。「食育」ということが言われて久しいが、その中身はよく知らない。フードロス、とか栄養素が、とかバランスよく、とかだけじゃなくて、「豊かな」食事ができるように、「勉強」しよう。興味を持ちましょう、ってことも教えて欲しいと思います。そういう意味では、ファッションとかインテリアとかも、数学とか英語と同じように学校で教えてもいいような気もするな。子どもは勉強すること多くて大変だ。

「それでいい」から「それがいい」へ

 なんだって「なんでもいい」って言ってしまったらそれでおしまい。人間の活動はすべからく社会的だから、どんなことにでも、「私はなんでもいい」はやっぱりゆるされない気がする。何を食べるか、という一見個人的なことでも、何らかの仕方で誰かと繋がってる。何に対しても、「なんでもいい」じゃなく、更にもう一歩進んで、「これいい」でもなく、自分なりに考えて「これいい」と言えることが教養かなあ。そういうお手本が去年まで職場にいました。お元気にされてるだろうか。たまには連絡してみよう。

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