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20年前の画家さんのことば

 一時期(もう20年弱前の大学院生時代)、ほとんど引きこもりのような生活をしていた時に、一日多いときで三本ほど映画を観ていた。現実逃避なのか、単に暇だったのか、何でもいいから「意味のあること」をしたかったのか。かっこつけて、アクションとかホラーとかSFとかそんなジャンルは観ない、と決めていた。過去の名作とか、ヨーロッパとか中東とか映画館ではやってなさそうなものとかを借りてきたり、DVD(VHSだったかな?)を買ったり。誇張ではなく、近所の某有名レンタルビデオ店のそれ系の棚にはもう観ていないものがないほどだった。

 ただ、いつからかぱったりとやめてしまった。今も年に1本観たらいい方で、一番最近観た映画が何だったかなんて全く思い出せないくらいだ。映画をたくさん観ていた時は、ただ時間を浪費していると思っていたし、自分の実生活、人生が空虚なものだから、作り物であれ人の人生を映画で追体験することによって埋めようとしているのかもしれない、と思っていた。映画を観て感動して泣いても、実際の自分の人生は惨めなまま、目の前の課題にも向き合えない。と、そんな状況だった。

 でも、今映画を観る気になれないのは、単純に2時間集中するのがしんどい。そして、あまり感動できないからだと思う。映画で感動できたあの頃が懐かしいし、うらやましくさえある。映画にかんするマガジンをつくるにあたってそんなことを考えていたら、次のような過去の日記を見つけた。その中のお客さん(当時飲み屋さんのバイトをしていた)の話が、まったく今の私の気持ちを代弁しているなあと思って。

 今日は画家の○○さんが来たが、本当に働かなければ生きていけないのかということに疑問を持ち、一時期いなかで生活をしていたらしい。ありあまる時間の中、彼は一枚も絵を描けなかったという。必要がなかったらしい。芸術作品はやはり苦しみや悩みから生まれてくるのだろうか。それとも、苦しみや悩みを解消するために必要なのだろうか。
 そんな話の中で、私は一人でいる時間、何もしない時間が増えるにつれて映画を多く観るようになったが、それは自分自身の人生にドラマがないからで、それを埋めているだけなのかも知れない、と彼に言った。しかし、彼は、それは違うと。1本作品を観て感動し、また次を観ようという意欲が湧くというのは、あなた(私のこと)の中に想像力があるからだ。それに共鳴する力があるからなんだと言った。
 彼も酔っていたし、私も酔っていた。が、そのことを差し引いてもうれしかった。想像(創作)行為のただの消費者として、私はいくつも作品を観ながらもどこかにコンプレックスというか虚しさのようなものを感じていたし、今もその想いは完全に払しょくされていない。しかし、彼のことばで、映画を観る(そして、考える)という行為が全く受動的なものではなく、幾分か能動的な行為であるのかも知れないと思えるようになった。また、彼は、自分の想像力に合うというか、偉そうに言えば、自分に相応しい作品というものはあちらからやってくるものだとも言っていた。彼の人生観は全般的に多分に運命論的だったが、なんとなくその感覚は分かるような気もした。

 この後に、大上段に構えた文化論みたいなことも書いてあったが、しょうもないので省略。自分に相応しい作品はむこうからやってくる。最近映画や小説がおもしろくないのは、自分がおもしろくない、ということなのだ。

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