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【小説】幕開け<前編>

【あらすじ】
都内のイベント会社で働く深山千秋は、真面目でひたむきな28歳。コンサートや展示イベントの企画プロデュース業に日々奔走していたが、突如現れた新型コロナウイルスによって仕事が立て続けに中止になり、やるせない日々を送っている。仕事のやりがいを見失いかけていたある日、親友の高田彩綾が主催するオンライン同窓会に参加し、高校時代の友人・箕島駿介と再会する。世界で活躍するアイドルグループ「STARS」のSYUNでもある駿介と共に想い出の地を巡りながら、2人はかつての大きな決意、約束を思い出す。新たな約束を交わした2人は、様々な制限が解かれた世界で、エンタテインメントを創る仕事仲間として大きな夢の舞台に立つ。

*本文:2023年6月加筆修正


「おつかれさまです。鍵、お願いしまーす」
 時計の針が、八時をさしている。今どき珍しい手巻き式の腕時計は、祖父から受け継いだ大事な形見だ。レトロなデザインで気に入っているけれど、ずぼらな性格の私は一昨日から一度も巻いておらず、当然ぴくりとも動いていない。それなのに、低いガラス戸をカラカラと開けながら、今日は絶対に最後じゃないぞ、と思った。
「はい、Bの三番、受け取りました。深山ちゃん、今日も最後だよ。最近残業多いねえ」
「えーっ、今日は少し早いと思ったのになあ」
 根拠のない自信も、最近とことん冴えなくなった。ずり落ちそうになったトートバッグを、右肩にかけ直す。手指のアルコール消毒を済ませると、返却表B-3の欄に、深山千秋、とサインする。
「もうすぐ十一時だからねぇ。働き過ぎは身体に毒だよ。ほら、今日の飴ちゃん、一つ持っていきな」
 川田さんの声を聞きながらふうと息を吐き、三秒目を瞑る。毎日のルーティーン。目の前に差し出された小さな箱から、包みを一つつまみ上げる。和紙の折り紙で丁寧に折られた箱は、奥さんの手作りなんだとこの前教えてもらった。
「よ、っと」
「なんだった?」
「んー、レモンキャンディだ!」
「レモンは最後の一個だよ。当たりだな、こりゃ」
「ふふ。いいことありそう! 川田さんも、夜勤はほどほどに頑張ってくださいね」
「あいよ、任せとき。気をつけて帰るんだよ」

 大学卒業後に今の会社に入社してから、六年が過ぎた。全国各地のイベント企画や運営、空間演出などを請負っている、わりと大きな会社。自宅アパートからは電車と徒歩でちょうど一時間の距離にある。忙しいんだから近くに住めばいいじゃない、と周りの人からよく言われるけれど、電車に揺られながら考え事をする時間が、実は好きだった。カタン、コトン。カタン、コトン。カタン、コトン。煌びやかな都心から段々と地元の埼玉に近づくにつれ、絡まった思考が少しずつほぐれていく感覚。これはきっと、東京人にはわからないだろう。
 勤務時間がバラバラな部署が集まっているこの会社では、各部署で最後に残った人が安全点検をした後、施錠をして夜間警備室に鍵を預けて帰るのがルールだ。警備室のおじちゃんたちは顔馴染みで、私のことをまるで親戚の子どもみたいに可愛がってくれる。去年の今頃、梅雨の蒸し暑い日、メイクもドロドロに溶けきった状態の私があまりに不憫だからと、組合イベントで余ったパインアメをくれたのが始まりだった。この効果が、意外とすごい。糖分補給という身体的メリットもあるけれど、電車に揺られながら舌の上で飴玉を転がすと、おじちゃんたちの優しさがじわり、じわりと染みてくるのだ。翌日、川田さんたちにお礼を伝えると、いちご味や黒飴など、更に色々な種類のキャンディを用意してくれるようになった。 毎回クジ引きで、何が出るかわからないスリリングさもいい。まるで昭和の駄菓子屋みたいだ。昭和を生きたことはないけれど、今の私の生活はスカばっかりだな、とふと思う。
 生温い風を頬に感じながら、小さな黄色い粒をぽんと口に放る。買ったばかりのワイヤレスイヤホンをセットして、最寄り駅へ向かった。


 ふと横を見ると、駅ビルのディスプレイが、桃色から青色に変わろうとしていた。もうすぐ、夏がやってくる。無造作に開かれたガラスウィンドウの近くに置かれているのは、麦わら帽子にビーチサンダル、水玉柄のワンピース。すぐ側で背を向けて立っている八頭身のマネキンが、これらを爽やかに着こなすのだろう。向日葵の造花と貝殻の飾りが、大きな段ボール箱からちらりとのぞく。土曜日、午後十一時。多くの人が家で過ごしているであろうこの時間、静かに街の衣替えが始まろうとしていた。こんな瞬間に出会うと、心が疼く。身体がくすぐったいような、むず痒いような、そわそわした気持ちになる。
「そっちの装飾、もう少し右にずらしてください」
「よいしょ、っと。このあたりで、どうだ?」
「いい感じです! あー……あと、正面の照明が少し暗いですね」
「電球変えようか。おーい! そっちにあるの、取ってくれ!」
 レイアウトの指示を出すプロデューサーらしき若い男性が一人。衣装や小物をセッティングする女性が一人。ヘルメットをつけた職人が、三人。
「おつかれさまでーす」
 五人が同時に振り向き、ぺこっと頭を下げるのを見て、しまった、と思った。知り合いでもないのにこういう場面で声をかけてしまうのは、職業病みたいなものだ。しかし自分勝手なことに、労いの言葉は、今は自分自身にも向けられている。謎の新型ウイルスによって世界が大きく変化してから、一年以上経った。感染予防対策、営業時間の短縮、ワクチン摂取、医療現場の逼迫、会社の倒産、緊急事態宣言……毎日毎日、情報番組やワイドショーで、政治家やコメンテーターがそれぞれの正義をぶつけ合う。正解なんて、誰にもわかるはずがないのに。マイナスなワードばかり飛び交う番組を観ていて、面白いわけがない。
 私は私で、面白くない毎日を過ごしながら、好きだったはずの仕事の意味を見失いかけていた。報われない、悔しい、悲しい、苦しい。こんな気持ちになるのは、人生で初めてだ。ずっと深い海に潜りながら、見えない何かを掴もうともがいているような、そんな気さえした。知らぬ間に少しずつ身体と心が擦り減り、自分で労わないと、もうそろそろやっていられない。こんな日は、キンキンに冷えた生ビールを一杯ひっかけて帰れたら良いのに。今はそんなささやかな願いさえ、夢物語になってしまった。
 ガリッ。
 溶け始めたキャンディを、奥歯で二つにかみ砕く。五人の背中を見つめる。パチパチとはじける酸味が、上顎を刺激する。怪我をしているわけでもないのに、染みるように痛い。
「はやく、やりたいな……コンサート」
 小さな呟きは誰にも届くことなく、夏の大三角が微かに瞬く夜空に消えていった。


 自宅は、アパートの二階、一番奥にある。ドアを開け壁のスイッチを入れると、青白い蛍光灯が静かな1DKの部屋を照らす。今朝の食器は、シンクに置きっぱなしだ。
「私のやる気って、どこいっちゃったんだろ。ねえ彩綾、その辺に落ちてなかった?」
 右耳と肩の間にスマホを挟み、冷蔵庫から麦茶を取り出す。ガラスのコップに注ぎ、立ったまま一気に飲み干した。昨日より、少し苦い。
「おつかれさま。今日も遅かったねえ。千秋、ちゃんと休めてるの?」
「んー」
「んーじゃないよ。ご飯食べた?」
「食べてなーい」
 日々のくだらない愚痴を受け止めてくれるのは、親友の彩綾くらいだ。どんなに遅い時間でも電話に付き合ってくれる相手がいるというのは、正直すごくありがたい。いつも一方的で、多少申し訳ない気持ちもあるのだけれど。
「ちゃんと食べなきゃダメよ。食べなかったら、今度こそ、無理矢理家に乗り込むからね」
「んー、私は正直、その方がいいんだけどなぁ」
 彩綾のため息を聞き流しながら、電話をスピーカーホンに切り替えた。枕の横に投げ置く。一日働いてクタクタになった身体をベッドにどすんと沈めると、途端に眠気に襲われる。メイクも服もそのまま、シャワーも浴びていない。さすがにまだ、寝落ちるわけにはいかない。
「あっ、肝心なこと言い忘れるところだった! 明日、高三のクラス会だからね。オンラインで夜八時から。私が幹事なんだから、絶対参加してよ」
 この一年で世の中に普及したものは数え切れないほどあるけれど、その中でも上位にランクインするのが、オンライン飲み会だろう。自粛生活が始まったばかりの頃は、地元の友人や大学のサークル仲間と週二くらいで開催していたが、一年も経てば物珍しさは消える。最近は、声をかけることもかけられることもなくなった。それはそうと、高校のクラス会なんて、いつ以来だろう。大宮駅近くのホテルで盛大に開催された同窓会以来だから、モニター越しとはいえ、クラスメイトと顔を合わせるのは数年ぶりになる。正直、仕事の後にパソコンを開くなんて考えるだけで億劫だ。けれど、担任だった鈴木先生が参加するというのだから、断るわけにもいかない。ジャージ姿でにっこり笑う恵比須顔を、ふと思い出した。
「んー、仕事終わったら参加する」
「はい。いま、言質とったからね? それじゃ、ちゃんとご飯食べてメイク落として寝なさいよ。おブスになっちゃうんだから。わかった?」
 実家の母より母らしい声に、思わず吹き出してしまう。「それじゃ、おやすみ」電話を切ると、零時半を過ぎていた。少し眠ってからシャワーを浴びよう。スマホのプレイリストをシャッフルで流したまま、静かに目を瞑った。

・・・

「オンタイムでいくよー!」
「二曲目の最初、センターの照明確認して」
「PAさん、マイク調整終わってますかー?」
「楽屋にある姿見、早く取りに行ってきて!」
「アンコール衣装、最終調整終わりました!」
「移動、あと三十分でーす」
 華やかな舞台の裏側は、とにかく慌ただしい。渋谷のスクランブル交差点のごとく縦横無尽に人が動き回り、大声が飛び交う。コンサート本番は二時間から三時間が一般的だが、施工や諸々の準備、リハーサルを含めれば、現場スタッフは数日間夜まで働き通しだ。企画段階まで遡ると、それはもう年単位の話になる。自分がいわゆる「お客さん」だった学生時代は、裏でこんなに大勢の人が働いているなんて、想像もできなかった。
「本番前の時間こそ、俺らのゴールデンタイムだよな。あの雰囲気、病みつきになるんだよ」
 数日前に喫煙所の前で話していた職人の言葉が、頭をよぎった。今なら少しわかる気がする。働いている、生きている、そんな実感が全身に湧いてくる。
「深山さん、ぼけっとしてないで。はい、これ。そっちに運んで!」
「はっ、はい!」
 部長の声に、ハッとした。
 アーティストのケータリングやステージドリンクの準備、監督との打ち合わせ、メイクチームや衣装スタッフとの最終調整、警備スタッフの配置確認。目の前の仕事をバタバタとこなしていたら、あっという間に開演時刻が近づいていた。真っ黒なTシャツが、体にべたりと纏わりつく。上に羽織っていたスタッフパーカーは、暑くてさっき脱いでしまった。

「深山さん、頑張ってるね。どう? 気分は」
 目の前に、高橋先輩が立っていた。外見も内面もパーフェクトで、漫画に出てくる主人公みたいな人。社内には、密かにファンクラブもあるらしい。直属の部下である私は、給湯室でお姉様たちからいつも「羨ましい」「今日はどうだった?」と突撃取材を受けるけれど、一緒に働いていると、正直自分のできなさに落ち込むことの方が多い。歳が四つ上なだけなのに、この余裕は一体どこから来るのだろうと思う。普段はネイビーのスーツを着こなしているけれど、今日はスタッフTシャツにジーンズ、スニーカーはエアマックスだ。
「そうですね……想像以上にバタバタで。今はちょっと不思議な気分、です」
「初日だからね。でも、今日はきっと、深山さんにとって特別な一日になると思う。しっかり、目に焼き付けておくといいよ」
 公演開始数分前。先輩が、スクランブル交差点の合間を器用にかいくぐり、メインステージの裏まで連れて行ってくれた。暗い。何の光も当たらない、薄暗い場所。

 ガヤガヤした雑音の中、ほんの一瞬だけ、スタッフの空気がぴりつくのがわかった。イヤホンから、キューの合図が聞こえる。
 ーードクン。
 鼓動が、一度だけ深く鳴った。
 メンバーたちが一斉にステージに昇っていく。
 ドクン。
 白いステージライトが、中央に集まってきた。眩しい。思わず片目を瞑る。
 ドクン。
 一曲目のイントロが流れ、ドラムがカツカツカツ、とリズムを取りはじめる。
 地響きのような、五万の歓声が一気に上がる。
 ドクン、ドクン。
 舞台の幕が、いよいよ上がる。
 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
 心臓が、今までにないくらい高鳴る。
 この舞台の一員になれたんだという、武者震いにも似た感覚。
 ああ、そうか、これか。これだ。
 私はステージで輝くアーティストではない。実力もない。まだまだ下っ端で、大したことなんてできていない。けれど、裏方としてようやく、スタートを切ることができた。
 ふと隣に立つ高橋先輩を見上げると、満足そうな笑みを浮かべてゆっくりと頷いていた。

 もしかすると、あの日の約束も、叶えられるかもしれない。
 ぐっと、拳を握る。
 この時私は、人生で初めて自分を肯定できた気がした。


「はっ……」
 買ったばかりの白いブラウスに、冷たい汗が滲む。右手は強く握りしめたまま、壁の時計を見た。午前三時半。無意識にサイドテーブルに置かれたコップをつかむけれど、水は一滴も入っていない。注ぎにいくのも億劫なくらい、身体が重い。仕方なくブラウスのボタンを一つ外し、素手で汗を拭う。
 ここ数ヶ月、頻繁にこの日の夢を見る。入社して初めて補佐に入った、ガールズバンドの公演初日。最近はようやく一人でサブ担当を任せてもらえるようになったけれど、あの頃は右も左もわからない新人だった。コンサートに演劇、展示会、スポーツイベント、フードフェスティバル。有り難いことに、多くの経験を積ませてもらった。楽しさと忙しさの天秤に毎日揺られながら、寝る間も惜しんで働き、大泣きするほど苦労もした。その甲斐もあって、スポーツの歴史的瞬間や有名アーティストの公演を見届けられたことは、正直誇らしく思う。でも、目を瞑って瞼の裏に映るのは、あの日の、あの幕開けの瞬間だった。それだけは今までも、きっとこれからも変わらない。
 重い身体を無理矢理起こし、洗面台へ向かう。湿気のせいか、鏡は曇ってまるで何も見えない。手のひらで上半分だけを拭う。メイクを落としながらぼうっと見つめていると、コロナのせいで開催できなかったイベントや公演が頭をよぎる。会場の消毒、自動検温器の導入、座席の間引きや調整、演出の見直し、大幅なマニュアルの変更。ようやく承認がおり、あとはお客さんを迎えるだけーーというところで、中止になった公演がいくつもあった。仲間たちが一つ一つ積み重ねて作り上げてきた物たちが、一瞬で、なくなってしまった。「目の前が真っ暗になる」という表現が比喩ではないことを、何度も実感した。
 無意識に噛みしめていた唇を、ふっと解放する。私は記憶を掻き消すように、一気にクレンジングを洗い流した。そうするしかなかった。忘れることなんて、できるはずがないのに。
 さっき拭ったはずの鏡の曇りが、より一層濃くなっていく。
 乾いた唇から、鉄の味がした。

・・・


「深山さん、まーた眉間に皺寄ってるよ。それより、時間大丈夫?」
 高橋先輩の声が、フロアに響く。整った顔立ちからは想像できないくらい低音で、少し渋くて、心地いい。お姉様たちが先輩の声を褒める理由も、わかる気がする。
「はい。これだけ、今日中にどうしてもまとめちゃいたくて」
「気持ちはわかるけど、無理しすぎないように。今日は、俺ももう作業終わったから。何かあったら、いつでも声かけてね」
 ホットミルクが入ったプラスチックカップが、キーボードとスクリーンの間の僅かな隙間にコトン、と置かれた。
「すみません、ありがとうございます」
 一度パソコンに向かうと、時間を忘れてのめり込むのが深山の悪い癖だ、と部長によく注意されている。今も、半年後のオフラインコンサートに向けた行程表の見直しで、二時間以上、水も飲まず座りっぱなしだ。先輩は、睨めっこしていた画面から私を引き剥がすために、ここにカップを置いたに違いない。側面には、猫のキャラクターと「がんばれ」と書かれたシールが貼られている。いつもはコーヒーだけれど、この時間だからホットミルクなのだろう。先輩には、逆立ちしたって敵いそうにない。
 同窓会まであと三十分。会社から自宅までの時間を考えると、開始時刻には到底間に合わないだろう。
――ピコン。
 『新着メッセージがあります』チャットアプリのお知らせが、スマホの待ち受け画面に表示される。見慣れたひよこのアイコンだ。
「準備できましたか? 千秋さま」
 心の中でごめん、と呟きながら、彩綾が好きなキャラクターのスタンプをタップする。
「もう少しかかりそう。途中参加できるように頑張る」
 一秒もしないうちに既読がついた。
「了解。最後の数分でもいいから、間に合ったら参加して。とっておきのプレゼントもあるから、お楽しみに!」
 メッセージの後に、今度は私がハマっているゆるキャラのスタンプが送られてきた。フキダシに「がんばらないで」と書いてある。
 がんばれ、とがんばらないで。真逆の言葉なのに、どちらも自分を気遣ってくれているのだから、言葉というのは不思議なものだ。
 二つのメッセージを有り難く噛みしめながら、ホットミルクを少し口にふくみ、もう一度画面に向き合った。
 今日は絶対に先輩には頼らない、と心に決めていた。



 残業から帰宅してパソコンを立ち上げたのは、夜十時だった。盛り上がらなければ早めにお開きになるだろうと思っていたけれど、その心配は無用だった。明日は月曜日だが、祝日だ。すっかり忘れていた。この仕事をしていると、曜日感覚がなくなるのだ。
「はいはい、みなさんお待ちかね。やーっと千秋様がきましたよ!」
「もう。やめてよ、彩綾。みんな、ごめんね。遅くなっちゃって」
 小さなアイコンが並ぶ画面の右上で、懐かしい丸メガネがにっこりと微笑んでいた。
「わー! 鈴木先生、お久しぶりです!」
「深山さん、相変わらず忙しくしているようだね。元気にしていたかい?」
「はい。この通り、元気です! 先生もお元気そうで」
「元気元気。みんなの顔見て、なんだか嬉しくなっちゃって。飲みすぎているところだよ」
 鈴木先生だけではない。画面全体から、陽気な空気が伝わってくる。お酒のせいだろう。最初の一時間はきっと気まずい空気が流れていただろうから、これくらいの方が、今の私にはちょうど良い。
「それじゃあ千秋。お疲れのところ悪いけど、改めて自己紹介お願いね。これ、さっきみんな一人ずつやったんだから」
 昨日テレビで見かけた新発売のレモンサワーを手に、少し頬を赤らめている彩綾は、普段よりぐんと大人びて見えた。メイクもしっかり整えているのがわかる。
「うん。あー、でもちょっと待って。その前に、お酒持ってきていい?」
 画面に映る四十弱の顔が、どっと笑った。正直、こんなに大勢集まるなんて予想外だったけれど、お陰であの頃の記憶が鮮明に蘇ってくる。懐かしさに、一瞬飲まれそうになる。ノスタルジックな気持ちを胸の奥にしまい、冷蔵庫に入れておいた缶ビールを手に、もう一度パソコンの前に座った。
「改めまして、深山千秋です。えー、高校の時は、ハンドボール部でした。今は、えー、都内のイベント会社で働いてます。コンサートや舞台のプロデュースをしたり、企画書を書いたり、ありがたいことに、毎日バタバタ走り回ってます。うーん……うん。そんな感じで。それじゃ、カンパーイ!」
 自分のことを話すのは、昔からすごく苦手だ。今も左手に汗が滲んでいる。これ以上突っ込まれたらたまらないと思い、乾杯でごまかした。
 画面に映る懐かしい面々は、確かに昔の面影はあるけれど、どこか違和感があった。住んでいる場所や仕事、背負っているもの、将来の夢。高校の頃は同じ場所で同じ時間を過ごしていたけれど、今は一人一人違うのだから、纏う空気感が違うのは当たり前だ。それでも、どこかもの寂しく感じてしまう。

「では、これからオンライン二次会ということで、グループに分かれてもらいます。さっき教えてもらった職種で分けてみようかな。みんな、いいですかー?」
「高田さん、ちょっといい?」
 画面の左下で遠慮がちに手を挙げたのは、学級委員の伊藤くんだ。たしか昔、彩綾のことが好きだったはずだ。
「はい、なんでしょう?」
「僕、弁護士で、なんとなく、その……特殊っていうか。同業者っていないと思うんだけど、一人にならないかな」
「いい質問ですね。えー、一人になりそうな職種の場合は、幹事の私がいい感じに決めまーす! ママになった皆は、ママ友グループに招待するから、安心してね。社会人は、付き合いとかもあるだろうから。今後の情報交換の場所にも活用してくださーい!」
 言われてみれば、私の仕事も、特殊といえば特殊だ。今日が何曜日で明日が休みかどうかわからないなんて人、他にもいるだろうか。サービス業は、何人かいるかもしれない。そういえば、貴子はデパートで働いていると噂で聞いたことがある。でも、それ以外はよく知らない。
「それでは皆さん。これからグループルームを作るので、ちょーっと待っててくださいね」
 幹事が面倒くさい、なんて電話では言っていたけれど、彩綾の仕切りはなかなかスムーズだ。経験上、大人数のオンライン飲み会を仕切るのは難しいはずなのに、段取りよくこなしている。学生時代は私の方が成績が良かったとはいえ、要領の良さは間違いなく彩綾の方が上だ。実家の花屋を本格的に継ぐようになってから、より一層頼れる女になった。歳を重ねるというのは、マイナスなことばかりではないのかもしれない。
 グループ分けの間、画面は待機状態になっていた。ぼうっと見つめていると、お腹が情けない音でぐう、と鳴った。
「今で良かった……」
 そういえば、先輩がくれたホットミルク以外、何も口にしていない。何か食べないと、また彩綾に怒られてしまう。たしか、三日前に買ったミニトマトとチーズがあるはずだ。トマトをさっと水洗いし、チーズはそのまま皿に乗せる。ストック買いしたお気に入りのさきいかと一緒に、ビールのつまみにすることにした。即席にしては、上出来だ。缶ビールのプルトップを開け、ごくりと飲む。画面はまだ真っ暗なままだった。誰からも見られていないことを良いことに、さきいかの袋をえいや、と豪快に破る。一気に、酒屋の匂いが広がる。女子が好きな肉バルのお洒落な前菜より、私は断然、こっち派だ。

「久しぶりだな、深山」
 突然画面から聞こえた声に、トクン、と心臓が鳴った。
 どうしてだろう、忘れてしまうことは、山ほどあるはずなのに。この声は、身体が記憶してしまっている。チーズに向けていた顔をゆっくり前に戻すと、声の主がこちらを見て微笑んでいた。駿介だ。
「なんで、なんで……いるの」
「なんでって、ひどいな。高三の同窓会だろ。ちょうど仕事も休みで、暇だったからさ」
 忙しい駿介がクラス会に参加するなんて、これっぽっちも考えていなかった。冷静になろうと一度缶ビールを置いて、深呼吸を二回繰り返す。
 毛先が紫色にカラーリングされたショートヘアに、整った眉、キリッとした瞳、長い指が映えるシンプルなゴールドリング。パソコンのカメラではあり得ないだろうと突っ込みたくなるほどの、きめ細やかな肌。私よりずっと、ずっと綺麗だ。今目の前の画面に映っているのは、三年四組の箕島駿介ではなく、世界的スーパーボーイズグループ「STARS」のSYUNに違いなかった。
「あのさ……」
「えっ、な、なに?」
「そんなに警戒するなって。それより、俺ら以外に、誰か来ないのかね」
「ち、ちょっと待って。彩綾に確認してみる」
 悔しいくらい落ち着いている駿介とは違い、私の心臓はドクドクと鳴りっぱなしだ。左手に持っていたさきいかの袋を放り投げスマホを立ち上げると、通知が届いていた。
「私からのサプライズプレゼント。あとは、駿介と二人で楽しんで☆」
 ああ、彩綾の策略にまんまとはまってしまった。こうなるなら、メイクを少し整えておけば良かった。ヨレヨレのシャツだって、もう少しどうにかできたはず。いや、わかっていれば、さきいかなんて用意しなかった。自分のがさつな行動が情けなくなり、はあ、とため息をついた。
「どうした? 何かあったって?」
「う、ううん。とりあえず、二人で話せってさ」
「そっか。ん、りょーかい」
 戸惑った時に鼻の頭を右手で触る癖は、昔から変わっていない。そこにいるのは確かにテレビで見るのと同じSYUNなのに、ふと駿介の面影が見えると、ほっとする。ウイスキーグラスを回す大人っぽい仕草とは裏腹に、赤みを帯びた表情は、どこか幼くも見えた。そんな風に観察していると、鼓動が少しずつ落ち着いてきた。
「ところで、今日はなんで参加したの? 暇だから、だけじゃないでしょ。あんたの性格からすると」
「うわー、そんなことまでわかんのか。さすがだね、キャリアウーマンさん」
「もう。そんなこと言うなら、この先ずーっとスーパースター様って呼ぶからね?」
「お願いだから、それだけはやめてくれ」
 くだらない話を続けていたら、いつの間にか緊張はほぐれていた。それと同時に、どんなに頑張っても駿介に敵わないという事実を思い出してしまった。私の高校時代の成績は、 万年学年二位。勉強時間を増やして点数が上がっても、一位になったことは一度もない。 一位は、いつも駿介だった。十分も話せば、駿介の成績を思い出さない人はいないだろう。 間の取り方や言い回し、ボキャブラリー、表現力、こちらを飽きさせない会話術、全部私より上だ。もうどうにでもなれ、と思い、諦めてさきいかの袋を拾い直した。
「そういえば、さっきの質問だけど」
 駿介が言った。いつの間にか、ウイスキーグラスは缶ビールに持ち替えられていた。
「ん?」
「なんで同窓会に参加したのかって聞いただろ?」
「うん。やっぱり、理由があるの?」
 数秒の沈黙に、緊張感が増す。
「なんつーか、そんな大したことじゃないんだけど。ちょっとカッコよく言うと、俺の将来のため、ってとこかな」
 駿介はそう言いながら頬杖をつくと、一瞬で表情を変えた。右の眉をキッと上げて、唇を一文字に結ぶ。あの時と、同じだ。

 高校三年の七月、全国高等学校野球選手権埼玉大会、県営大宮球場。駿介は、エースピッチャーだった。埼玉の強豪校は、私立校が多い。うちは予算もない県立高で、実力は中の下くらいだ。それなのに、駿介たちのチームは、数年ぶりに四回戦まで進んでいた。派手なマーチングバンドやチアリーダーを率いる反対側のアルプススタンドに比べ、こちらは情けなくなるくらい地味だ。そもそも、県立の進学校だからという理由で、平日の試合は保護者と必要最低限の生徒だけしか観戦を許されていない。
「かっとばせー!」
「粘れ粘れー! あと一球!」
「ナイスバッチー!」
 彩綾と二人でタオルを振り回しながら叫ぶと、遠慮がちに観戦していた保護者も少しずつ声を出してくれるようになった。高校野球好きの近所のおじちゃんたちは「姉ちゃんたちも頑張れ!」と、うちわで扇ぎながら声援を送ってくれた。
 スコアは四対三、九回裏、ツーアウト二塁。あと一人抑えれば、念願の五回戦に進める。次の試合は日曜日だ。学校も休みだから、全校生徒での応援も許される。横断幕を掲げながら、私たちは叫び続けた。
「ふんばれー!」
「あと一人! あと一人!」
 これ以上できないと思うほど、全力で応援した。汗が額からこめかみを通って、つう、と顎まで流れていく。声を出しすぎて、喉はカラカラだ。水分補給のためにグラウンドに背を向けた、ほんの一瞬だった。
 ーーカン。
 相手チームの四番が打ったボールは大きな弧を描き、ライトスタンドに吸い込まれていく。逆転サヨナラホームラン。その瞬間スクリーンに映ったのは、相手チームの選手ではなく、 駿介だった。右の眉をキッと上げ、唇を一文字に結ぶ。見ているだけで、苦しい。
 私はそれ以上周りの音を聞くこともグラウンドを見ることもできず、その場に崩れ落ちた。

「おーい。おーい、深山」
 画面から聞こえた低い声に、びくりとした。
「ああ……ごめん。少しぼうっとしてた」
「疲れてるよな、悪い。じゃ、端折って話すけど。明日は仕事休みか?」
「う、うん。休みだけど……」
「よし。じゃあ、大宮駅に十三時集合な」
「んっ? えっ、な、なんで?」
「理由はさっき話したのに聞いてなかったのが悪い、ということで。詳しいことは、また明日」
 白い歯を出してニッと笑う駿介を見て、これは断れないやつだ、と察した。休日とはいえ、まだ外出も頻繁にできない状況で、特に予定は入れていない。半ば反射的に、頷いてしまった。
「それじゃ、明日。いつもんところに十三時な。気をつけて来いよ」
 右手でひらひらと手を振ると、ぱっと画面が切り替わり、私の顔だけが大きく映る。数秒してからようやく、駿介が退出したことを理解する。
 頭の中だけでは整理できず、声に出してみた。
「十三時、大宮駅、いつものところ」
 最後に待ち合わせたのはもう十年も前のことなのに、いつものところ、という表現で伝わると思っているのが駿介らしい。現実を理解し始めてから、どっと疲れを感じた。今朝は五時起きで仕事をしてきたからだ。いや、慣れない同窓会で自分を繕ったからかもしれないし、その両方かもしれない。更に明日駿介に会うことを考えると、緊張で余計疲れそうだ。
 赤い退出ボタンを押し、そっとパソコンを閉じる。電池残量の少ないスマホで彩綾に簡単に報告したあと、 私は急にやってきた静けさから逃げるように歯磨きと着替えを済ませ、するりとベッドに潜り込んだ。

・・・

 最後尾の八号車には、サラリーマンが一人、女子高生が二人。オレンジ色のライン、十分間隔の時刻表、のどかな車窓風景。毎日乗っているメトロに比べて遙かに高い場所を走っている武蔵野線は、ガタゴトと大きな音を鳴らして揺れている。高校時代、通学時間を課題の時間に充てていたのは、あまりに激しく揺れるせいで寝過ごす心配もなく、ちょうど良かったからだ。武蔵浦和駅で埼京線に乗り換えると、十分で大宮駅に着いた。
 埼玉の本当の県庁所在地は浦和だ、大宮だ、と一時期クラスで議論したことがあった。 そこに、埼玉のルーツは埼玉古墳群だと自慢する行田市民も加わると、さらに白熱した。私はどちらにも住んでいなかったし、正直どうでも良かったが、浦和に住んでいた駿介が威張っていたのはよく覚えている。それなのに、いつも待ち合わせ場所に指定するのは、大宮駅の中央改札前にある「まめの木」だった。数年前、駅の改修工事で一時撤去されるという記事を見かけたが、仕事でほとんど東京にしか出ない私には関係ない出来事だった。上へ上へと伸びる銀色のモニュメントを久しぶりに見上げると、この木が十年間ずっと同じ場所で私を待っていてくれたような気がしてならなかった。

 右肩にぽん、と懐かしい重みを感じた。
「待たせたな」
 シンプルな白シャツに、ラフなジーンズスタイル。変装のためか、黒いバケツハットと大きなマスクをつけている。見える範囲は少ないのに、それが確かに駿介だとわかるのは、どうしてだろう。
「ひ、久しぶり」
「おう。なあ、まめの木って、ずっとここにあるんだな」
 駿介はほお、とため息をつきながら、さっきの私と同じようにまめの木を見上げている。あの頃とは少し雰囲気が違う。百八十センチというだけでも目立つのに、どこか私たちと違う空気を纏う駿介は、知らない人が見ても芸能人だとわかってしまうのではないだろうか。そう思った途端、背中がじわりと汗ばんだ。
「ねえ。もしパパラッチに撮られたらどうしよう。私、やっぱり男装してきたほうが良かったかな……」
 駿介は二重の目を更に丸くして、数秒してからぷっと吹き出した。
「ははっ、相変わらず面白いな。深山がもし嫌なら、やめてもいいけど?」
 私と駿介では、目線が二十五センチも違う。首をかしげながら、まるで小さな子どもをあやすように見つめられると、少し困る。
「まあ、埼玉だし。さすがにここまでは追っかけて来ないか」
「お前は昔から、埼玉をなめてるな。俺は今でも埼玉ラブだぜ」
 肩を揺らしながらケラケラと笑う姿は、まるで子どもみたいだ。
「んじゃ、早速行くぞ」
「ちょ、ちょっと! これからどこ行くの? 私、まだ何も聞いてないんだけど!」
 駿介は返事もせず、東口方面にぐんぐん進んでいく。あの頃よりもっと広く厚くなった背中。置いて行かれないように、私は急いで着いて行く。スラリと長い指は、やっぱり駿介だ。目の前の懐かしさをふいに掴もうとして、慌てて引っ込めた。

「一つ目の場所は、やっぱここだろ」
 晴れ男の駿介を象徴するかのような青天の下、どっしりと構える二の鳥居が見えてきた。
「うわあ」
 思わず、ため息が漏れる。
「懐かしいだろ?」
「うん。すっごく久しぶりに来たよ」
 大宮氷川神社は、東京と埼玉を中心に二百以上ある氷川神社の総本社なんですよ、と鈴木先生が授業で話してくれたのを思い出した。鳥居をくぐると途端に肩の力が抜け、不思議と気持ちが落ち着く。さすが、関東屈指のパワースポットと紹介されるだけある。さっきまで温かかった風の温度まで、少し変わった気がする。
 駿介は背筋をしゃんと伸ばすと、とりあえずお詣りしようぜ、と言いながら長い参道をゆっくりと進んでいった。
「あの日、初詣で人がすごく多かったよね」
「ああ。後ろから投げられた賽銭が、全部俺のフードに入ってたもんな」
 本殿を眺めていると、あの日の出来事が急に甦ってくる。あの後、フードに入ったお賽銭を全部まとめて丁寧にお参りしていた駿介を見て、こういう人には、将来絶対に良いことが起こるだろうな、と思ったのだ。
 本殿の隣にある摂社の門客人神社や、神池の中島にある宗像神社など、私たちは時間をかけて境内を丁寧に、ゆっくりと回った。
「なんだか、気持ちがすうっと落ち着いた気がする」
「ようやく笑ったな、千秋」
 心臓がトクっと震えた。下の名前で呼ばれるのは、卒業式以来だ。駿介が意図的にそうしたのか無意識なのかは、わからなかった。
「えっ、わ、私、笑えてなかったかな」
「昨日から、顔ずーっと強張ってたぞ」
 少しずつ増えてきた参拝客を横目でちらりと確認すると、駿介は大きな目を隠すかのように帽子を深く被り直した。
「それじゃ、次のとこ行こうぜ」
 参道を戻り始めた駿介がくるりと振り返ると、三日月の目がきらりと光った。その時私は、直感的に次の場所がわかった気がした。

 チリン、チリン。
 夏でもないのに、なんでいつもこのお店には風鈴があるんだろう、と高三の私が呟くと、駿介は迷わず、風鈴は癒しの音だからだろ、と答えた。
 あの時と同じ音が鳴ったことに、少し驚いた。
「いらっしゃいま……」
 花柄エプロンの店主が、奥からひょっこり顔を出した。目をまん丸に広げたまま、大きく開いていそうな口元をマスクの上から抑えている。
「お久しぶりです、みつこおばちゃん」
「わあ! びーっくり! どうしましょ」
「ごめんね、驚かせて」
「嬉しいわあ。ささっ、とりあえず、奥の席に座って座って」
 みっちゃんのパン屋さん。こじんまりとしたこの店は、私たちの秘密基地だった。多い時には週三で通ったと思う。焼きたてパンと手作りスイーツが絶品で、試験前は奥のテーブルに参考書や教科書を広げながら、二人でよく勉強していた。みつこおばちゃんが東大出身だと知ってからは特に、塾のように通ったといっても過言ではない。多くの飲食店が閉店する状況の中、お店が変わらずここにあることが、何より嬉しかった。
「俺、カレーパンとブレンドで」
「ふふ、変わってないわね。千秋ちゃんはどうする? 季節のスイーツは杏のタルトよ」
「わぁ、じゃあそれで! あとは……」
「アイスロイヤルミルクティー、だろ」
「はい。お願いしますっ」
「ふふ。承知しました。少し待っててね」
 アンティークの椅子も机も、あの頃に比べて色は淡くなっていたけれど、確かに同じものだとわかる。おひとつどうぞ、と書かれた皮付きの胡桃が、テーブルの隅に置かれている。
「これも、まだあるんだね」
 私が言い終わる前に、駿介が胡桃を二つ手に取った。素手で割るにはコツがいる。昔、おばちゃんに教わった。片方の胡桃の硬い溝の部分ともう片方のへこんだ柔らかい部分を合わせて、両手でぐっと握る。駿介は慣れた手つきで胡桃を剥くと、半分をぽんと口に入れた。
「懐かしい味って、涙出そうになるな」
「おばちゃんのパン食べたら、号泣しちゃうんじゃないの」
「だな。最近事務所からダイエットでパン禁止令出てたから、余計かも」
 今日は私が許してあげるよ、と言うと、嬉しそうにくしゃりと笑った。その表情だけで、 如何に色々なことを我慢してこのバランスの良い身体が作り上げられているかわかる気がする。何も知らない人に自衛隊員だと紹介しても疑われないくらいがっちりとしているのに、顎はシュッと細い。
 もう一つの胡桃を二人で分け合いながら、このテーブルで数学のチャート式ドリルをやったよね、古文がわからないとおばちゃんに頼ってた、なんて昔話に花が咲く。記憶というのは一人ではぼんやりと曖昧なままなのに、一緒に過ごした人がいると鮮明に思い出せるということに、初めて気がついた。
「さっ、お待たせ」
 木のトレイに乗せられた焼きたてのパンと、珈琲の匂い。タルトは瑞々しい杏にシロップが綺麗にコーティングされていて、思わずほぉ、と声が漏れてしまう。
「そういえば、駿介くん。先月表紙に出てた雑誌、読んだわよ」
「うわっ、本当ですか、嬉しい。もしかして、あの思い出特集の?」
「そうよ。二冊も買っちゃった」
「でも、おばちゃんなら見てくれてるかなって、信じてました」
「あのインタビュー読んで、泣いちゃったわ……」
 おばちゃんは鼻をすすりながら、駿介の肩に手を置いた。
「それにもう、会えないと思ってたから……」
 駿介はそれを見ても動揺することなく、大きな掌を重ねている。まるで、おばちゃんが泣くことをわかっていたような表情に見えた。
「あの頃、家帰っても親は仕事でいなくてさ。おばちゃんがいなかったら、俺、絶対グレてたし、東大なんて行けなかったと思う」
「それは違うわ。あなたの実力だもの」
 駿介はおばちゃんの言葉をゆっくりと受け止めながら、首を振った。
 数秒の沈黙が、ひどく長く感じられた。
「今更過ぎるかもしれないけど……今日は、あの日言えなかったことを言いに来たんだ。本当に感謝してます。俺の居場所を作ってくれて、ありがとう」
 二人が優しい目で微笑みあっているのを見て、心がじん、と震えた。杏とカスタードクリームが、口の中で静かに溶けていく。
 それから駿介はソーセージロールと大きな苺デニッシュまで追加して、時折おばちゃんが手があく時間は一緒にテーブルを囲み、二時間も滞在してしまった。ここは俺が出すから、と駿介が奢ってくれた。店を出る時に、おばちゃんがお土産に持たせてくれた五つの胡桃は「絶対また来てね」という言葉と一緒に、大切に大切に鞄にしまった。

「雑誌の企画で、思い出の場所と感謝したい人っていう質問があってさ。高校の頃に通った秘密のパン屋、って答えたんだ。店の名前も出さなかったから、読んでくれてるかは、ちょっとした賭けだったんだけどな」
「おばちゃん、読んでくれてたね」
 実は私も先月本屋でその雑誌を読んでいた。それがみっちゃんのパン屋さんだということを知っているのは、きっと私だけだと思った。けれど、なんとなく、今は読んだことは黙っておこう、と思った。
 私はもう「次はどこへ行くの」と聞くのはやめた。駿介の考えがわかり始めていたし、知らない方が面白いと思ったからだ。結末がわからない舞台や、コンサートが始まる前の、 あの高揚感に少し似ている。
 思い出の場所にふらりふらりと寄りながら、さいたま新都心駅方面へ向かう。私たちの足取りは、少しずつ、でも確かに軽やかになっていた。校舎の近くにあった文房具屋、チェーンのハンバーガー店、緑色のベンチ、初めてキャッチボールをした小さな公園。一つずつ巡るたび、まるで高校時代にタイムスリップしたかのような感覚に包まれた。
 それから、閉店時間が近い駅前の大きな本屋へ行くことにした。駿介は懐かしそうに目を細めながら、一直線に参考書コーナーへ向かうと、東大の赤本をペラペラとめくっている。駿介は、本当に頭が良かった。それなのに、学年一位であることを偉ぶるわけでも、運動や行事を疎かにすることもない、完璧な学生だった。現役で東京大学に入学するだけでも凄いのに、学生の間に芸能界に入っても、四年できっちり卒業したのだという。その事実を改めて思うと、隣に立っている自分がひどく情けなく思えた。
「私、もうひとつ行きたい所があるんだけど……寄っても良いかな」
「おう」
 駿介も、どこに行くのかとは聞かなかった。同じことを考えているという確信も、ほんの少しだけあった。
 昔に比べて広く整った駅のデッキや、人がまばらなけやき広場を通り過ぎる間、私たちは一言も喋らず、ただひたすら前だけを見て歩いた。

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