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幕開け[第1話]

【あらすじ】
都内のイベント会社で働く深山千秋は、真面目でひたむきな28歳。コンサートや展示イベントの企画プロデュース業に日々奔走していたが、突如現れた新型コロナウイルスによって仕事が立て続けに中止になり、やるせない日々を送っている。仕事のやりがいを見失いかけていたある日、親友の高田彩綾が主催するオンライン同窓会に参加し、高校時代の友人・箕島駿介と再会する。世界で活躍するアイドルグループ「STARS」のSYUNでもある駿介と共に想い出の地を巡りながら、2人はかつての大きな決意、約束を思い出す。新たな約束を交わした2人は、様々な制限が解かれた世界で、エンタテインメントを創る仕事仲間として大きな夢の舞台に立つ。

*本文:2024年6月加筆修正


「おつかれさまです。鍵、お願いしまーす」
 時計の針が、八時をさしている。今どき珍しい手巻き式の腕時計は、祖父から受け継いだ大事な形見だ。レトロなデザインで気に入っているけれど、ずぼらな性格の私は一昨日から一度も巻いておらず、当然ぴくりとも動いていない。それなのに、低いガラス戸をカラカラと開けながら、今日は絶対に最後じゃないぞ、と思った。
「はい、Bの三番、受け取りました。深山ちゃん、今日も最後だよ。最近残業多いねえ」
「えーっ、今日は少し早いと思ったのになあ」
 根拠のない自信も、最近とことん冴えなくなった。ずり落ちそうになったトートバッグを、右肩にかけ直す。手指のアルコール消毒を済ませると、返却表B-3の欄に、深山千秋、とサインする。
「もうすぐ十一時だからねぇ。働き過ぎは身体に毒だよ。ほら、今日の飴ちゃん、一つ持っていきな」
 川田さんの声を聞きながらふうと息を吐き、三秒目を瞑る。毎日のルーティーン。目の前に差し出された小さな箱から、包みを一つつまみ上げる。和紙の折り紙で丁寧に折られた箱は、奥さんの手作りなんだとこの前教えてもらった。
「よ、っと」
「なんだった?」
「んー、レモンキャンディだ!」
「レモンは最後の一個だよ。当たりだな、こりゃ」
「ふふ。いいことありそう! 川田さんも、夜勤はほどほどに頑張ってくださいね」
「あいよ、任せとき。気をつけて帰るんだよ」

 大学卒業後に今の会社に入社してから、六年が過ぎた。全国各地のイベント企画や運営、空間演出などを請負っている、わりと大きな会社。自宅アパートからは電車と徒歩でちょうど一時間の距離にある。忙しいんだから近くに住めばいいじゃない、と周りの人からよく言われるけれど、電車に揺られながら考え事をする時間が、実は好きだった。カタン、コトン。カタン、コトン。カタン、コトン。煌びやかな都心から段々と地元の埼玉に近づくにつれ、絡まった思考が少しずつほぐれていく感覚。これはきっと、東京人にはわからないだろう。
 勤務時間がバラバラな部署が集まっているこの会社では、各部署で最後に残った人が安全点検をした後、施錠をして夜間警備室に鍵を預けて帰るのがルールだ。警備室のおじちゃんたちは顔馴染みで、私のことをまるで親戚の子どもみたいに可愛がってくれる。去年の今頃、梅雨の蒸し暑い日、メイクもドロドロに溶けきった状態の私があまりに不憫だからと、組合イベントで余ったパインアメをくれたのが始まりだった。この効果が、意外とすごい。糖分補給という身体的メリットもあるけれど、電車に揺られながら舌の上で飴玉を転がすと、おじちゃんたちの優しさがじわり、じわりと染みてくるのだ。翌日、川田さんたちにお礼を伝えると、いちご味や黒飴など、更に色々な種類のキャンディを用意してくれるようになった。 毎回クジ引きで、何が出るかわからないスリリングさもいい。まるで昭和の駄菓子屋みたいだ。昭和を生きたことはないけれど、今の私の生活はスカばっかりだな、とふと思う。
 生温い風を頬に感じながら、小さな黄色い粒をぽんと口に放る。買ったばかりのワイヤレスイヤホンをセットして、最寄り駅へ向かった。


 ふと横を見ると、駅ビルのディスプレイが、桃色から青色に変わろうとしていた。もうすぐ、夏がやってくる。無造作に開かれたガラスウィンドウの近くに置かれているのは、麦わら帽子にビーチサンダル、水玉柄のワンピース。すぐ側で背を向けて立っている八頭身のマネキンが、これらを爽やかに着こなすのだろう。向日葵の造花と貝殻の飾りが、大きな段ボール箱からちらりとのぞく。土曜日、午後十一時。多くの人が家で過ごしているであろうこの時間、静かに街の衣替えが始まろうとしていた。こんな瞬間に出会うと、心が疼く。身体がくすぐったいような、むず痒いような、そわそわした気持ちになる。
「そっちの装飾、もう少し右にずらしてください」
「よいしょ、っと。このあたりで、どうだ?」
「いい感じです! あー……あと、正面の照明が少し暗いですね」
「電球変えようか。おーい! そっちにあるの、取ってくれ!」
 レイアウトの指示を出すプロデューサーらしき若い男性が一人。衣装や小物をセッティングする女性が一人。ヘルメットをつけた職人が、三人。
「おつかれさまでーす」
 五人が同時に振り向き、ぺこっと頭を下げるのを見て、しまった、と思った。知り合いでもないのにこういう場面で声をかけてしまうのは、職業病みたいなものだ。しかし自分勝手なことに、労いの言葉は、今は自分自身にも向けられている。謎の新型ウイルスによって世界が大きく変化してから、一年以上経った。感染予防対策、営業時間の短縮、ワクチン摂取、医療現場の逼迫、会社の倒産、緊急事態宣言……毎日毎日、情報番組やワイドショーで、政治家やコメンテーターがそれぞれの正義をぶつけ合う。正解なんて、誰にもわかるはずがないのに。マイナスなワードばかり飛び交う番組を観ていて、面白いわけがない。
 私は私で、面白くない毎日を過ごしながら、好きだったはずの仕事の意味を見失いかけていた。報われない、悔しい、悲しい、苦しい。こんな気持ちになるのは、人生で初めてだ。ずっと深い海に潜りながら、見えない何かを掴もうともがいているような、そんな気さえした。知らぬ間に少しずつ身体と心が擦り減り、自分で労わないと、もうそろそろやっていられない。こんな日は、キンキンに冷えた生ビールを一杯ひっかけて帰れたら良いのに。今はそんなささやかな願いさえ、夢物語になってしまった。
 ガリッ。
 溶け始めたキャンディを、奥歯で二つにかみ砕く。五人の背中を見つめる。パチパチとはじける酸味が、上顎を刺激する。怪我をしているわけでもないのに、染みるように痛い。
「はやく、やりたいな……コンサート」
 小さな呟きは誰にも届くことなく、夏の大三角が微かに瞬く夜空に消えていった。


 自宅は、アパートの二階、一番奥にある。ドアを開け壁のスイッチを入れると、青白い蛍光灯が静かな1DKの部屋を照らす。今朝の食器は、シンクに置きっぱなしだ。
「私のやる気って、どこいっちゃったんだろ。ねえ彩綾、その辺に落ちてなかった?」
 右耳と肩の間にスマホを挟み、冷蔵庫から麦茶を取り出す。ガラスのコップに注ぎ、立ったまま一気に飲み干した。昨日より、少し苦い。
「おつかれさま。今日も遅かったねえ。千秋、ちゃんと休めてるの?」
「んー」
「んーじゃないよ。ご飯食べた?」
「食べてなーい」
 日々のくだらない愚痴を受け止めてくれるのは、親友の彩綾くらいだ。どんなに遅い時間でも電話に付き合ってくれる相手がいるというのは、正直すごくありがたい。いつも一方的で、多少申し訳ない気持ちもあるのだけれど。
「ちゃんと食べなきゃダメよ。食べなかったら、今度こそ、無理矢理家に乗り込むからね」
「んー、私は正直、その方がいいんだけどなぁ」
 彩綾のため息を聞き流しながら、電話をスピーカーホンに切り替えた。枕の横に投げ置く。一日働いてクタクタになった身体をベッドにどすんと沈めると、途端に眠気に襲われる。メイクも服もそのまま、シャワーも浴びていない。さすがにまだ、寝落ちるわけにはいかない。
「あっ、肝心なこと言い忘れるところだった! 明日、高三のクラス会だからね。オンラインで夜八時から。私が幹事なんだから、絶対参加してよ」
 この一年で世の中に普及したものは数え切れないほどあるけれど、その中でも上位にランクインするのが、オンライン飲み会だろう。自粛生活が始まったばかりの頃は、地元の友人や大学のサークル仲間と週二くらいで開催していたが、一年も経てば物珍しさは消える。最近は、声をかけることもかけられることもなくなった。それはそうと、高校のクラス会なんて、いつ以来だろう。大宮駅近くのホテルで盛大に開催された同窓会以来だから、モニター越しとはいえ、クラスメイトと顔を合わせるのは数年ぶりになる。正直、仕事の後にパソコンを開くなんて考えるだけで億劫だ。けれど、担任だった鈴木先生が参加するというのだから、断るわけにもいかない。ジャージ姿でにっこり笑う恵比須顔を、ふと思い出した。
「んー、仕事終わったら参加する」
「はい。いま、言質とったからね? それじゃ、ちゃんとご飯食べてメイク落として寝なさいよ。おブスになっちゃうんだから。わかった?」
 実家の母より母らしい声に、思わず吹き出してしまう。「それじゃ、おやすみ」電話を切ると、零時半を過ぎていた。少し眠ってからシャワーを浴びよう。スマホのプレイリストをシャッフルで流したまま、静かに目を瞑った。

・・・

「オンタイムでいくよー!」
「二曲目の最初、センターの照明確認して」
「PAさん、マイク調整終わってますかー?」
「楽屋にある姿見、早く取りに行ってきて!」
「アンコール衣装、最終調整終わりました!」
「移動、あと三十分でーす」
 華やかな舞台の裏側は、とにかく慌ただしい。渋谷のスクランブル交差点のごとく縦横無尽に人が動き回り、大声が飛び交う。コンサート本番は二時間から三時間が一般的だが、施工や諸々の準備、リハーサルを含めれば、現場スタッフは数日間夜まで働き通しだ。企画段階まで遡ると、それはもう年単位の話になる。自分がいわゆる「お客さん」だった学生時代は、裏でこんなに大勢の人が働いているなんて、想像もできなかった。
「本番前の時間こそ、俺らのゴールデンタイムだよな。あの雰囲気、病みつきになるんだよ」
 数日前に喫煙所の前で話していた職人の言葉が、頭をよぎった。今なら少しわかる気がする。働いている、生きている、そんな実感が全身に湧いてくる。
「深山さん、ぼけっとしてないで。はい、これ。そっちに運んで!」
「はっ、はい!」
 部長の声に、ハッとした。
 アーティストのケータリングやステージドリンクの準備、監督との打ち合わせ、メイクチームや衣装スタッフとの最終調整、警備スタッフの配置確認。目の前の仕事をバタバタとこなしていたら、あっという間に開演時刻が近づいていた。真っ黒なTシャツが、体にべたりと纏わりつく。上に羽織っていたスタッフパーカーは、暑くてさっき脱いでしまった。

「深山さん、頑張ってるね。どう? 気分は」
 目の前に、高橋先輩が立っていた。外見も内面もパーフェクトで、漫画に出てくる主人公みたいな人。社内には、密かにファンクラブもあるらしい。直属の部下である私は、給湯室でお姉様たちからいつも「羨ましい」「今日はどうだった?」と突撃取材を受けるけれど、一緒に働いていると、正直自分のできなさに落ち込むことの方が多い。歳が四つ上なだけなのに、この余裕は一体どこから来るのだろうと思う。普段はネイビーのスーツを着こなしているけれど、今日はスタッフTシャツにジーンズ、スニーカーはエアマックスだ。
「そうですね……想像以上にバタバタで。今はちょっと不思議な気分、です」
「初日だからね。でも、今日はきっと、深山さんにとって特別な一日になると思う。しっかり、目に焼き付けておくといいよ」
 公演開始数分前。先輩が、スクランブル交差点の合間を器用にかいくぐり、メインステージの裏まで連れて行ってくれた。暗い。何の光も当たらない、薄暗い場所。

 ガヤガヤした雑音の中、ほんの一瞬だけ、スタッフの空気がぴりつくのがわかった。イヤホンから、キューの合図が聞こえる。
 ーードクン。
 鼓動が、一度だけ深く鳴った。
 メンバーたちが一斉にステージに昇っていく。
 ドクン。
 白いステージライトが、中央に集まってきた。眩しい。思わず片目を瞑る。
 ドクン。
 一曲目のイントロが流れ、ドラムがカツカツカツ、とリズムを取りはじめる。
 地響きのような、五万の歓声が一気に上がる。
 ドクン、ドクン。
 舞台の幕が、いよいよ上がる。
 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
 心臓が、今までにないくらい高鳴る。
 この舞台の一員になれたんだという、武者震いにも似た感覚。
 ああ、そうか、これか。これだ。
 私はステージで輝くアーティストではない。実力もない。まだまだ下っ端で、大したことなんてできていない。けれど、裏方としてようやく、スタートを切ることができた。
 ふと隣に立つ高橋先輩を見上げると、満足そうな笑みを浮かべてゆっくりと頷いていた。

 もしかすると、あの日の約束も、叶えられるかもしれない。
 ぐっと、拳を握る。
 この時私は、人生で初めて自分を肯定できた気がした。


「はっ……」
 買ったばかりの白いブラウスに、冷たい汗が滲む。右手は強く握りしめたまま、壁の時計を見た。午前三時半。無意識にサイドテーブルに置かれたコップをつかむけれど、水は一滴も入っていない。注ぎにいくのも億劫なくらい、身体が重い。仕方なくブラウスのボタンを一つ外し、素手で汗を拭う。
 ここ数ヶ月、頻繁にこの日の夢を見る。入社して初めて補佐に入った、ガールズバンドの公演初日。最近はようやく一人でサブ担当を任せてもらえるようになったけれど、あの頃は右も左もわからない新人だった。コンサートに演劇、展示会、スポーツイベント、フードフェスティバル。有り難いことに、多くの経験を積ませてもらった。楽しさと忙しさの天秤に毎日揺られながら、寝る間も惜しんで働き、大泣きするほど苦労もした。その甲斐もあって、スポーツの歴史的瞬間や有名アーティストの公演を見届けられたことは、正直誇らしく思う。でも、目を瞑って瞼の裏に映るのは、あの日の、あの幕開けの瞬間だった。それだけは今までも、きっとこれからも変わらない。
 重い身体を無理矢理起こし、洗面台へ向かう。湿気のせいか、鏡は曇ってまるで何も見えない。手のひらで上半分だけを拭う。メイクを落としながらぼうっと見つめていると、コロナのせいで開催できなかったイベントや公演が頭をよぎる。会場の消毒、自動検温器の導入、座席の間引きや調整、演出の見直し、大幅なマニュアルの変更。ようやく承認がおり、あとはお客さんを迎えるだけーーというところで、中止になった公演がいくつもあった。仲間たちが一つ一つ積み重ねて作り上げてきた物たちが、一瞬で、なくなってしまった。「目の前が真っ暗になる」という表現が比喩ではないことを、何度も実感した。
 無意識に噛みしめていた唇を、ふっと解放する。私は記憶を掻き消すように、一気にクレンジングを洗い流した。そうするしかなかった。忘れることなんて、できるはずがないのに。
 さっき拭ったはずの鏡の曇りが、より一層濃くなっていく。
 乾いた唇から、鉄の味がした。

・・・


「深山さん、まーた眉間に皺寄ってるよ。それより、時間大丈夫?」
 高橋先輩の声が、フロアに響く。整った顔立ちからは想像できないくらい低音で、少し渋くて、心地いい。お姉様たちが先輩の声を褒める理由も、わかる気がする。
「はい。これだけ、今日中にどうしてもまとめちゃいたくて」
「気持ちはわかるけど、無理しすぎないように。今日は、俺ももう作業終わったから。何かあったら、いつでも声かけてね」
 ホットミルクが入ったプラスチックカップが、キーボードとスクリーンの間の僅かな隙間にコトン、と置かれた。
「すみません、ありがとうございます」
 一度パソコンに向かうと、時間を忘れてのめり込むのが深山の悪い癖だ、と部長によく注意されている。今も、半年後のオフラインコンサートに向けた行程表の見直しで、二時間以上、水も飲まず座りっぱなしだ。先輩は、睨めっこしていた画面から私を引き剥がすために、ここにカップを置いたに違いない。側面には、猫のキャラクターと「がんばれ」と書かれたシールが貼られている。いつもはコーヒーだけれど、この時間だからホットミルクなのだろう。先輩には、逆立ちしたって敵いそうにない。
 同窓会まであと三十分。会社から自宅までの時間を考えると、開始時刻には到底間に合わないだろう。
――ピコン。
 『新着メッセージがあります』チャットアプリのお知らせが、スマホの待ち受け画面に表示される。見慣れたひよこのアイコンだ。
「準備できましたか? 千秋さま」
 心の中でごめん、と呟きながら、彩綾が好きなキャラクターのスタンプをタップする。
「もう少しかかりそう。途中参加できるように頑張る」
 一秒もしないうちに既読がついた。
「了解。最後の数分でもいいから、間に合ったら参加して。とっておきのプレゼントもあるから、お楽しみに!」
 メッセージの後に、今度は私がハマっているゆるキャラのスタンプが送られてきた。フキダシに「がんばらないで」と書いてある。
 がんばれ、とがんばらないで。真逆の言葉なのに、どちらも自分を気遣ってくれているのだから、言葉というのは不思議なものだ。
 二つのメッセージを有り難く噛みしめながら、ホットミルクを少し口にふくみ、もう一度画面に向き合った。
 今日は絶対に先輩には頼らない、と心に決めていた。



 残業から帰宅してパソコンを立ち上げたのは、夜十時だった。盛り上がらなければ早めにお開きになるだろうと思っていたけれど、その心配は無用だった。明日は月曜日だが、祝日だ。すっかり忘れていた。この仕事をしていると、曜日感覚がなくなるのだ。
「はいはい、みなさんお待ちかね。やーっと千秋様がきましたよ!」
「もう。やめてよ、彩綾。みんな、ごめんね。遅くなっちゃって」
 小さなアイコンが並ぶ画面の右上で、懐かしい丸メガネがにっこりと微笑んでいた。
「わー! 鈴木先生、お久しぶりです!」
「深山さん、相変わらず忙しくしているようだね。元気にしていたかい?」
「はい。この通り、元気です! 先生もお元気そうで」
「元気元気。みんなの顔見て、なんだか嬉しくなっちゃって。飲みすぎているところだよ」
 鈴木先生だけではない。画面全体から、陽気な空気が伝わってくる。お酒のせいだろう。最初の一時間はきっと気まずい空気が流れていただろうから、これくらいの方が、今の私にはちょうど良い。
「それじゃあ千秋。お疲れのところ悪いけど、改めて自己紹介お願いね。これ、さっきみんな一人ずつやったんだから」
 昨日テレビで見かけた新発売のレモンサワーを手に、少し頬を赤らめている彩綾は、普段よりぐんと大人びて見えた。メイクもしっかり整えているのがわかる。
「うん。あー、でもちょっと待って。その前に、お酒持ってきていい?」
 画面に映る四十弱の顔が、どっと笑った。正直、こんなに大勢集まるなんて予想外だったけれど、お陰であの頃の記憶が鮮明に蘇ってくる。懐かしさに、一瞬飲まれそうになる。ノスタルジックな気持ちを胸の奥にしまい、冷蔵庫に入れておいた缶ビールを手に、もう一度パソコンの前に座った。
「改めまして、深山千秋です。えー、高校の時は、ハンドボール部でした。今は、えー、都内のイベント会社で働いてます。コンサートや舞台のプロデュースをしたり、企画書を書いたり、ありがたいことに、毎日バタバタ走り回ってます。うーん……うん。そんな感じで。それじゃ、カンパーイ!」
 自分のことを話すのは、昔からすごく苦手だ。今も左手に汗が滲んでいる。これ以上突っ込まれたらたまらないと思い、乾杯でごまかした。
 画面に映る懐かしい面々は、確かに昔の面影はあるけれど、どこか違和感があった。住んでいる場所や仕事、背負っているもの、将来の夢。高校の頃は同じ場所で同じ時間を過ごしていたけれど、今は一人一人違うのだから、纏う空気感が違うのは当たり前だ。それでも、どこかもの寂しく感じてしまう。

「では、これからオンライン二次会ということで、グループに分かれてもらいます。さっき教えてもらった職種で分けてみようかな。みんな、いいですかー?」
「高田さん、ちょっといい?」
 画面の左下で遠慮がちに手を挙げたのは、学級委員の伊藤くんだ。たしか昔、彩綾のことが好きだったはずだ。
「はい、なんでしょう?」
「僕、弁護士で、なんとなく、その……特殊っていうか。同業者っていないと思うんだけど、一人にならないかな」
「いい質問ですね。えー、一人になりそうな職種の場合は、幹事の私がいい感じに決めまーす! ママになった皆は、ママ友グループに招待するから、安心してね。社会人は、付き合いとかもあるだろうから。今後の情報交換の場所にも活用してくださーい!」
 言われてみれば、私の仕事も、特殊といえば特殊だ。今日が何曜日で明日が休みかどうかわからないなんて人、他にもいるだろうか。サービス業は、何人かいるかもしれない。そういえば、貴子はデパートで働いていると噂で聞いたことがある。でも、それ以外はよく知らない。
「それでは皆さん。これからグループルームを作るので、ちょーっと待っててくださいね」
 幹事が面倒くさい、なんて電話では言っていたけれど、彩綾の仕切りはなかなかスムーズだ。経験上、大人数のオンライン飲み会を仕切るのは難しいはずなのに、段取りよくこなしている。学生時代は私の方が成績が良かったとはいえ、要領の良さは間違いなく彩綾の方が上だ。実家の花屋を本格的に継ぐようになってから、より一層頼れる女になった。歳を重ねるというのは、マイナスなことばかりではないのかもしれない。
 グループ分けの間、画面は待機状態になっていた。ぼうっと見つめていると、お腹が情けない音でぐう、と鳴った。
「今で良かった……」
 そういえば、先輩がくれたホットミルク以外、何も口にしていない。何か食べないと、また彩綾に怒られてしまう。たしか、三日前に買ったミニトマトとチーズがあるはずだ。トマトをさっと水洗いし、チーズはそのまま皿に乗せる。ストック買いしたお気に入りのさきいかと一緒に、ビールのつまみにすることにした。即席にしては、上出来だ。缶ビールのプルトップを開け、ごくりと飲む。画面はまだ真っ暗なままだった。誰からも見られていないことを良いことに、さきいかの袋をえいや、と豪快に破る。一気に、酒屋の匂いが広がる。女子が好きな肉バルのお洒落な前菜より、私は断然、こっち派だ。

「久しぶりだな、深山」
 突然画面から聞こえた声に、トクン、と心臓が鳴った。
 どうしてだろう、忘れてしまうことは、山ほどあるはずなのに。この声は、身体が記憶してしまっている。チーズに向けていた顔をゆっくり前に戻すと、声の主がこちらを見て微笑んでいた。駿介だ。
「なんで、なんで……いるの」
「なんでって、ひどいな。高三の同窓会だろ。ちょうど仕事も休みで、暇だったからさ」
 忙しい駿介がクラス会に参加するなんて、これっぽっちも考えていなかった。冷静になろうと一度缶ビールを置いて、深呼吸を二回繰り返す。
 毛先が紫色にカラーリングされたショートヘアに、整った眉、キリッとした瞳、長い指が映えるシンプルなゴールドリング。パソコンのカメラではあり得ないだろうと突っ込みたくなるほどの、きめ細やかな肌。私よりずっと、ずっと綺麗だ。今目の前の画面に映っているのは、三年四組の箕島駿介ではなく、世界的スーパーボーイズグループ「STARS」のSYUNに違いなかった。
「あのさ……」
「えっ、な、なに?」
「そんなに警戒するなって。それより、俺ら以外に、誰か来ないのかね」
「ち、ちょっと待って。彩綾に確認してみる」
 悔しいくらい落ち着いている駿介とは違い、私の心臓はドクドクと鳴りっぱなしだ。左手に持っていたさきいかの袋を放り投げスマホを立ち上げると、通知が届いていた。
「私からのサプライズプレゼント。あとは、駿介と二人で楽しんで☆」
 ああ、彩綾の策略にまんまとはまってしまった。こうなるなら、メイクを少し整えておけば良かった。ヨレヨレのシャツだって、もう少しどうにかできたはず。いや、わかっていれば、さきいかなんて用意しなかった。自分のがさつな行動が情けなくなり、はあ、とため息をついた。
「何かあったって?」
「う、ううん。とりあえず、二人だってさ」
「そっか。りょーかい」
 戸惑った時に鼻の頭を右手で触る癖は、昔から変わっていない。そこにいるのは確かにテレビで見るのと同じSYUNなのに、ふと駿介の面影が見えると、ほっとする。ウイスキーグラスを回す大人っぽい仕草とは裏腹に、赤みを帯びた表情は、どこか幼くも見えた。そんな風に観察していると、鼓動が少しずつ落ち着いてきた。


・・・

<第2話>

〈第3話〉

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