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【小説】幕開け<後編>

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 夕方のほこすぎ橋はとても静かで、穏やかな空気が流れている。あの頃と何も変わっていない。隣にはさいたまスーパーアリーナがそびえ、橋の下はJRの線路が何本も走っている。絵の具で描かれたような鮮やかな夕空の下、しばらく私たちは何も話さないまま、ただそこに佇んでいた。まるで、今自分たちがここにいることを噛みしめるような時間だった。

「今日は、ありがとな。俺のわがままに付き合ってくれて」
 周囲に人がいないことを確認すると、駿介は白いマスクをそっと外す。丁寧に二つ折りにしたそれをポケットにしまうと、私がもたれていた手摺りのすぐ隣に並んだ。駿介のシャツが、ワンピースに少し触れる。ただそれだけで鼓動が伝わってしまいそうな気がして、私は反対側にそっと身体を寄せた。
 駿介が大きく息を吐いた。
「俺、実はさ……今の仕事辞めようかなって、迷ってたんだ」
 いつも前向きな駿介が弱音を吐こうとしていることに驚いたけれど、冷静を装ってうん、 とだけ返事をする。横を見ると、短いシャツの袖に顔を半分埋めながら、目だけは真っ直ぐ東京方面を向いているように見えた。
「高校卒業した後、大学で偶然スカウトしてもらって、事務所入って、グループが組まれて、デビューして。とにかく必死だったんだ、俺。歌もダンスも、やったことなかったし」
「高校の頃、苦手だったもんね、ダンス」
 体育祭でクラス全員で踊ったチームダンス。野球部で練習時間がなかったとはいえ、リズムも合わなければ振りも覚えていない状況で、正直、ひどい出来だった。完璧な駿介の、唯一の苦手分野と言っても良い。だからこそ、今テレビで観る姿があの駿介だとは、初めは信じられなかった。
「ははっ。ほんとだよな。よく頑張ってると思うだろ?」
 下手だと言われても、駿介は決して怒らない。自分が悪いと思ったら謝る。困っている人がいれば迷わずに助ける。間違っている人がいれば丁寧に教えてあげる。そういう人だ。
「俺、年齢的には上から二番目なんだけど、皆本当に凄い奴らでさ。最年長の光輝はリーダーシップ抜群だし、センターの勝也は歌もダンスも世界レベル。下から二番目の阿比人は作曲の才能があるし、 末っ子の大賀はあの美貌だろ。それなのに、俺には何もないって感じてたんだ、ずっと」
 駿介はここまで一気に喋ると、さっき買ったばかりのスポーツドリンクを一口こくりと飲んだ。もう一本あるからお前も飲む?と聞かれたけれど、今は大丈夫、と断った。
「自分に満足できないまま、でもがむしゃらに活動してたらさ、ある曲が大ヒットして、 気づいたら海外からもオファーされるようになったんだ」
「知ってるよ。ほんと……すごい勢いだったよね」
 約一年前だ。日本だけじゃない、アジアでも人気を博したドラマの主題歌。音楽アプリやCMでも瞬く間に話題になり、一気にチャート一位を独占した。高校の同級生だと知らない友人たちでさえ、私の周りもSTARSの話題で持ちきりだった。
「俺たちも驚いたし、多分、事務所も想像してなかったと思う。今思い出しても、忙しすぎてぞっとするんだけどな。毎日起きたら、どこにいるかもわかんなかったし」
 鼻をすすりながら小さく笑うその表情は、今まで見たことないくらい、切なく見えた。テレビで紹介されるSYUNは、頭脳明晰、優れた身体能力、メインの音楽活動ではハスキーボイスでチームを支える才能溢れるアーティストだ。私が知らない、見えない場所で、どれだけ大変なことを乗り越えてきたのだろう。どんなに寄り添いたくても、今隣にいるSYUNには届かない気がしてしまう。
「海外のエージェントと契約して、来年から世界ツアーを始めましょうって、事務所のスケジュール表にいろんな国が追加されるのを見てたらさ……ある日、背中がぞわっとしたんだ。俺は確かにSTARSとして活動してきたけど、本当にこのまま進み続けていいのか。迷いながらこの大船に乗っていいのか。四人がこれから頑張ろうって時に、俺だけがこんなことを考えてていいのか。皆に迷惑をかけるだけじゃないのかって。そう思ってたらさ、コロナのパンデミックになったんだよ」
 橋の下を、湘南新宿ラインが勢いよく走っていく。各駅停車から、急に無理矢理快速急行に乗せられたような気分だろうか。芸能の端くれを知っている私は、この例えがどんなに浅はかかわかっていたけれど、少しでも自分事に置き換えたくて、必死に頭を回転させる。
「そうしたら、今度はびっくりするくらい暇な時間が増えてな。他の四人は、次の曲を作ろう、オンラインイベントしようって前向きな話してるのに、俺、何も言えなかったんだ。時間ができたことで余計色々考えちゃってさ……らしくねえよな」
 声をかけたいのに、うまく言葉が出てこない。私はうん、とだけつぶやいて、駿介の声を受け止める。
「一ヶ月位前かな、リーダーの光輝と社長に、辞めたいって話したの。そしたら、二人とも意味わかんないくらい泣いてさ。俺が言いたいこと、その場で全然言えなくなるくらいに」
 駿介の物憂げな瞳が、空に向けられる。右の眉をキッと上げて、唇を一文字に結ぶ。私はたまらなくなって、駿介の左手をきゅっと掴んだ。駿介は目線を合わせないまま、同じ位の強さで握り返してきた。
「それから数日経って、二人から提案されたんだ。仕事のことは忘れて、まずは二ヶ月、ゆっくり過ごしてみろって。積極的に外出できない時期だけど、できる限り家族や会いたい人に会って。自分が楽しいこと、安らげること、やってみたいこと……とにかく今はSYUNじゃなくて、箕島駿介として生きてこいって」

 気がつくと橙色の夕日は沈み、辺りはすっかり夜の色に包まれていた。さっきより少しだけ穏やかになった声色を確認してから左手の温もりをそっと離すと、橋の手摺りに背中を預けたまま、駿介と向き合った。
「やっぱりすごいと思うよ、駿介は」
「……こんな話してるのに、か?」
「うん。だって、普通はそんな辛いとき、ぐうたら過ごす人がほとんどだよ」
「ははっ。なんだよ、それ。そんなこと、ないだろ」
 心底わからないという表情のまま、駿介は首をかしげていた。
「ううん、そういうものだよ、普通はね。でも、駿介は違う。自分を見つめ直すために、きっと色々したんでしょう。いつもは出ない同窓会に参加してみたりさ。……きっと今はもう、心は決まってるんじゃない?」
 駿介は少し驚いた表情のまま、ゆっくりと、深く頷いた。
「千秋の言う通り、俺、じっとしてらんない性分だからな。いろんなこと試してみたんだ」
 やっぱり根は変わらないんだなと思いながら横顔を見つめると、駿介は身体をリラックスさせるように大きく伸びをした。
「どんなことをしたの?」
「んー。まずは母ちゃんに会いに行って、親父の墓参り行った。で、今度は自分が知らない仕事を経験したいと思って、お世話になってる大道具さんに弟子入りしたんだ。骨組みの仕組み教えてもらって、舞台セット作ったり。衣装さんには問屋に連れてってもらったし、イベント清掃の体験もした。あとは、美術さんと一緒に駅前のディスプレイ装飾も。そこにいたんだよなー。知らない俺らにおつかれさまでーすって、元気に声かけてくれた人がさ」
 私ははっとして、咄嗟に両手で口を塞いだ。
「うそ……」
「ははっ。やっぱり、そうだったか。声が似てるとは思ったんだけど、まさかなーと思ってさ。あんな遅くまで働いてるんだな」
 別に恥ずかしいことをしていたわけでもないのに、ドクドクと心臓が早いリズムを刻んでいる。偶然を、偶然とは思いたくなかった。
「俺、この一ヶ月で学んだよ。見えない場所で汗水流して働いてくれてる人が、大勢いるってこと。俺は練習してステージで披露することだけに集中してたけど、それはただ俺らがその役割を担ってるだけで、皆で創り上げてたんだなって、当たり前のことをさ。情けないけど、改めて知ったんだよ」
 線香花火の火種がぽっと灯ったように、駿介の眼が輝き始めたのがわかった。
「それから、昨日と今日で、一番大事なこと、思い出せた気がする」
「大事なこと?」
 ペットボトルのキャップを回してスポーツドリンクをゴクゴク飲み干す姿は、CMみたいに爽やかだった。悩みがある人には到底見えない。こうやって、今までもうまく隠してきたんだろうな、と思った。
「今の自分は、大勢の人との出会いや経験の上で成り立ってるってこと。ファンのみんなのことはもちろん大切だけど、これまで関わってきた人の中にも、応援してくれる人がいる」
「みつこおばちゃんとか、ね」
「うん。それから、千秋。お前みたいに、俺を信じてくれる人がいるってこと。俺はもう、自分のためだけに音楽をしてちゃ、だめだ。忙しいことを理由に忘れてたけど、思い出したんだ。皆の為に、俺らの音楽を、言葉を、パワーを届けたいっていう、覚悟をさ」
 目の前にある大きな瞳には、ほこすぎ橋のライトと月明かりが反射して、小さな宇宙みたいだった。駿介は私の目を真っ直ぐ見つめたまま、右でキラキラと輝くアリーナを指差している。この目を見たら、思い出さずにはいられない。高校を卒業してからも、大学生になってからも、社会人になってからも、私が何度も何度も反芻した、あの言葉を。

 高校三年の夏。受験勉強の合間を縫って、二人でバンクスのライブに行った。今は解散してしまったけれど、当時は日本で名前を知らない人はいない位、有名なバンドだった。アリーナ中に響き渡るファンの歓声と底知れないパワーが紡ぎ出す音に、私たちは圧倒された。そして、最後に聞いた、アンコールの一曲。本編とは違うアコースティックなリズムで、心地良く身体に響き渡る言葉と音。
 今思い出しても、心が震えるほどの経験だった。

「あの日、リーダーが最後に言ってた言葉……俺、頭から離れなくってさ」
「『俺たちの夢は、明日を生きるのが辛い人の、一筋の光になることだ。俺たちの音が、どこかの誰かの、世界でたった一人でもいい。誰かを少しでも救えるなら、これ以上嬉しいことはない』って」 
「ああ。あの一言が今の俺らを作った、と言っても過言じゃないよな」
 それから私たちは、何も喋らず、ただ線路を進む列車を見下ろしていた。昔のことを思い出していた。ぼんやりとしか見えなかった思い出が、少しずつ鮮明になってくる。さっきより冷たくなった風が、頬と腕を冷やす。この感覚が、心地良かった。

「……あのさ。少しだけ、私の話をしてもいいかな」
 黙って頷く駿介を見て、誰にも言えなかった本音を、今この場所でなら話せると思った。
 自分が関わってきたコンサートやイベントのこと。準備がうまく進まなくて大泣きしたこと。それから、コロナのために準備していた公演が直前で中止になったこと、そのせいで私が最近ひどく落ち込んでいたこと。
「コロナでイベントができないのは、誰のせいでもない。開催が善でないことも、もちろんわかってるつもり」
「うん」
「それでも、誰かが楽しんでくれる、ひとときでも幸せになってくれるものを、どうにかして届けたくて、ギリギリまで準備して、それでもできなくってさ」
「うん」
「光の当たらない場所で沢山の人が泣いてたのに、私、どうすることもできなかったんだ。でも、この悔しさを絶対に忘れたくないって、忘れちゃだめだ、って思ったの」
「ん……俺、今それ聞いて、少しほっとしたわ」
「えっ、どうして?」 
 駿介は短い前髪をふわっとかき上げると、少しだけ首を傾げながら話し始めた。
「ネットでは、エンタメが死んだって言われてたろ。サブスクとか動画で、家にいても楽しめる時代になったし。一人で考える時間が多いと、本当にそうなんじゃないかって不安になるんだ。音楽や舞台は、画面で見ればいいってもんじゃないと、俺は思う。あの日みたいに、本物に触れることで伝わることがあるって、信じてる。だから、そう思ってるのは俺だけじゃなかったんだ、って」
 私は俯いたまま、こくりと頷いた。遠くから、列車の汽笛の音がした。

「卒業式の後、ここで話したことも覚えてるよ、俺は」
「私も今、同じこと考えてた」
 卒業式の後、橋から見下げる線路には、少しだけ雪が残っていた。埼玉は、冬でも雪が積もるのは珍しい。打ち上げの食事会を少し早く抜け出した私たちは、誰もいないこの橋で話をした。
 クラスメイトが三年間の楽しい思い出を振り返っている時に、私たちは将来の話をした。まるで漫画のように、指切りをしながら。俺たちは、バンクスみたいな大人になろう。世界中の苦しい人を救えるようなことを成し遂げよう。例え誰かに馬鹿にされても、諦めないで夢を持ち続けよう。それから最後に「お互い自慢できるくらいの大人になれたらここで再会しよう」と。

「私との約束なんて、駿介はもう忘れちゃってるかと思った」
「忘れるわけない。一日だって忘れたことなかった。大学の時も、もちろん、今も」
 強く吹いた風によろけそうになった私の身体を、駿介に支えられる。
「今日ここで、改めてしてみないか。なんていうか……新しい約束、ってやつ」 
「ちょっと、恥ずかしいけど」
「千秋との約束なら、叶えられそうな気がするからさ」
 私は身体ごと、駿介の方を向き直す。指切り自体あの日以来だなと思いながら、小さな宇宙を正面から見つめる。
「じゃ、私からでいいかな」
 駿介が背筋を正すのを見て、私も真似をした。息を深く吸い込む。
「私は、例え表に見えない小さなことでも丁寧に、感謝を忘れずに。裏方としてアーティストの声や言葉を、届けられる人になる」
 駿介の物憂げな表情が、合わせた指に向けられる。
「俺は、今よりもっと……もっと、世界中の、大勢の人の心を救えるアーティストになる」
 約束をこの場に刻むかのように小指に力を込めてぐっと下ろすと、どちらからともなく静かに指を離した。

 二人の間を、湿った空気が通り過ぎていく。
「ねぇ、突然だけど、どうして星が瞬くか、知ってる?」
「急だな。んー……地球の大気の影響、か?」
「当たり。流石だね。去年担当したプラネタリウムのイベント前に、星の知識が全然なくて、勉強したんだ。それで初めて知ったの。星が瞬くのは、ゆらぎがあるからなんだって」
 私たちはほぼ同時に、真っ暗な夜空を見上げた。東京よりも少しだけ、星がはっきりと見える。誰にも言ったことはないけれど、私が埼玉を離れられない理由の一つでもある。
「駿介が悩んだり葛藤したりするの、いいと思うな。無責任に聞こえるかもしれないけど、すごく魅力的だよ」
「そんなこと言ってくれるの、千秋だけだろ」
「そんなことないよ。だって、遠い存在だったSYUNが、駿介らしく見えるもの。ゆらぎがあるからこそ、もっと輝けると思わない?」
 駿介は驚いた目をして、その後すぐに考え込むような表情をした。鼻の頭を右手で触る。うーん、と唸りながら、言葉を噛みしめているようにも見える。
「千秋はほんと、今の仕事向いてるな。お前に励まされてる表舞台の人間、絶対多いと思う。なんか羨ましいわ」
 それでもまだ納得いかないというように、駿介は頭をぽりぽりとかいている。私は少しだけ勇気を出して、駿介の隣にぴたりと寄り添ってみた。
「知ってるかどうかわからないけど、駿介は私にとってライバルで、何より憧れなの」
「それって、喜んでいいのか? 褒められてるのかよくわかんないけど」
「褒めてるに決まってるよ。昔からずーっと、芸能人になっても変わってない。でも、今日久々に会って、短所も変わらないなって思っちゃった。なんだと思う?」
 駿介は嫌な顔ひとつせず、でもちょっぴり照れながら、教えてくれと小さく呟いた。
「駿介の短所はね、自分が凄いことを、わかってないことだよ。それから、辛いとき、誰にも言わずに無理するところ。高校の頃もそう。お父さんのことがあってすごく辛いはずなのに、気づいてあげられなかったこと、ずっと……ずっと、後悔してた……」
 言葉が、続かない。悔しい気持ちが、お臍から胃袋を伝い、喉にまでこみ上げてくるようだった。でも、今ここでまた伝えられなかったら、この先一生後悔するかもしれない。駿介も、少しだけ苦しそうな顔をした。拳を胸の上に置き、強く唾を飲み込む。
「あのとき、もし私が駿介の異変に気づけていたら。少しでも気持ちを楽にさせてあげられたんじゃないかって。私がくだらない悩みぶつけて、どうでもいいことで言い合いしちゃった。後から気づいたの、あの日の駿介は変だったって。もっと、もっと私にできることがあったんじゃないか、って」
「千秋、それは違……」
 駿介の声を遮るように、今日一番大きな声を出した。
「駿介は、今でも充分凄いんだから! まずは自分を認めて、大切にして。自分のこと、たくさん褒めてあげてよ。じゃないと……」
 アスファルトに一粒、雫がぽたりと染みている。その時初めて、自分が泣いていることに気がついた。唇をぐっと噛んで感情を抑えようとしても、涙が溢れて止まらない。

 気づくと私は、駿介の腕の中にいた。
「千秋、千秋。大丈夫だから。ほら、落ち着けって」
「私、こんなはずじゃなかっ……」
「お前、昔っから泣き虫だけど、そういうとこは変わってないんだな」
 背中をとんとん、とあやされる。結局、あの頃と同じくらい弱い自分に、嫌気が指しそうになる。これ以上涙を見せたくないと思い、ぐっと堪える。
 大学生になってから駿介に一度も連絡できなかったのは、悔しさのせいだった。あのとき何より大切だった駿介を、支えられなかったからだ。
「ありがとな、千秋。でも、多分、一つ間違ってることがある」
「ふぇっ……?」
「なんだよ、その声。ははっ」
「か、からかわないで」
「ごめん、ごめん。あのな、あの頃、お前がいてくれたから、心をなんとか保ててたんだよ。どうでもいいことで喧嘩したり、また仲直りして勉強したり。父ちゃんが事故で死んじゃってからは特に、一人じゃ飯も全然美味しくなかったけど……お前と食べてる時だけは、ちゃんと味がしたんだよ」
 今は顔を見られたくなくて、厚い胸に顔をぴたりとくっつけるしかなかった。トクトクと規則正しく鳴る鼓動が、気持ちを和らげてくれる。
「今日、会いたかった本当の理由は、千秋にありがとうって、ちゃんと伝えたかったんだ。ごめんな、遅くなって」
 私にできることなんて、ないと思っていた。駿介の優しさが、昔も今も、苦しかった。そのぎこちなさが、いつの間にか距離になった。大学生になってから何度か連絡をくれていたのに、私が返さなかった。どう返していいか、わからなかった。それで責められたことも、質問されたこともない。いつだって、駿介は他人には優しい。でも、もしかしたら駿介は、私のそんな気持ちも知っていたのかもしれない、と思った。
「駿介、ごめんね」
「何でお前が謝るんだ?」
「えっと……いろいろ、ごめんって思ってる」
「ははっ。いいよ、気にしなくて。それに俺は、高校の頃、お前からいつももらってばっかりだった。だから、何かで返したいってずっと思ってきたんだ」
 私は駿介の胸板をそっと押し返した。顎まで流れた涙を、自分の拳で拭う。メイクが落ちることも、もう気にならない。
「それはこっちの台詞だよ。約束を果たせたら、少しでも返すことになるかなって思ってた。それに、駿介に負けたくないとも思ってたしね」
 駿介はふいに何かを思い出したように、口に手をあてて思いきり笑った。
「昔、高田に言われたこと、急に思い出したわ」
「彩綾に?」
「うん。俺と千秋は似てるって言われたんだよ。確か、文化祭の準備してる時だっけな。そんなことないと思ったけど、もしかしたら似てるのかもな」
 ほこすぎ橋に流れる空気が、ふと柔らかくなった。今ここにいる駿介は、テレビで見るSYUNよりもずっと自然で、優しくて、強くて、魅力的だ。もっと大勢の人にこの人の良さを知って欲しいと思う反面、この柔らかい表情だけは独り占めしたい、とも思ってしまう。

「でも、ほんと。俺の短所は千秋がさっき言ってくれた通りかもな。俺はまず、自分のこと……ちゃんと見てあげないと、いけないよな」
「大丈夫。駿介は、もっともっと輝けるよ。絶対に。それは、私が保証する」
「頼もしいなーまったく」
 けらけら笑って、私の髪をぐしゃぐしゃにする。もうそこに、ぎこちなさはなかった。理由はわからない。でも、さっきより、もしかすると卒業式のあの日より、ずっと近くに感じられた。
「俺はもっと自分のことさらけ出して、ゆらいでもいいのかもな。なんてったって、STARSだから……なんてな」
「もう、なにそれ」
 二人で、声を上げて笑った。
 涙で滲んだけやき広場の電飾が、ゆらゆらと瞬いていた。

 それから私たちは、もう一度だけ指切りをした。あの日と同じように、決意の約束を。
「二人で、世界に届くようなエンタメを創ろう。例え誰かに馬鹿にされても、諦めないで夢を持ち続けよう。夢を成し遂げられたら、その時は二人で、美味しいお酒を飲もう」と。

 きっともう会えなかったとしても、この先どんなに仕事が大変で悔しい思いをしたとしても。
この約束さえあればきっと頑張れる。そう思った。


 暗いトンネルの中で、先が見えずにただただもがいていたけれど、駿介との再会は、私にとって大きな変化になった。
 大勢の人の心を動かすには、まず目の前の人を幸せにできる人でないといけない。それから何よりも、自分が幸せでないといけないのだ。


・・・



「東京の今日の最高気温は三十四度です」 
 今朝のニュースを、ふと思い出す。まだ七月に入ったばかりなのに、夏を絵に描いたような快晴だ。久しぶりの現場で、私は全身から汗が噴き出るほど慌ただしく走り回っていた。
「こちら高橋です。深山さん、取れますか?」
 いつも冷静な高橋主任の声が、今日はどことなく高揚している。外れかけたイヤモニを、 慌ててセットし直した。
「深山です。どうぞ」
「昨日の会議で出た特攻の火薬について、担当者に最終確認できそう?」
「はい。さっき消防担当と打合せして、解決済みです。そちらはどうですか?」
「ありがとう。ミーティングが終わったら、そっち向かいます。メンバーたちも、あと十五分くらいでそっちに着くと思う。装飾の件も、お願いね」 
「了解です」

 今日は、私が初めてメイン担当を任された公演の初日だ。関係各社と細かな調整を重ね、小さなものも含めれば、恐らく百回以上打合せをしてきた。心臓がそわそわするようなこの緊張感と高揚感は、何年経っても慣れそうにない。よし、と心の中で気合を入れてから、 後輩の山下ちゃんにマイクを飛ばす。
「山下ちゃん、今そっちの状況はどう?」
「深山さーん! こっち来られますか? あと少しなんです」 
「了解。今行くね」
 胸ポケットのピンマイクをずらしながら、早足でステージへ向かう。身をかがめて鉄骨をくぐると、いつもの赤い豹柄カーディガンが手招きしているのが見えた。 
「仕上げと確認、お願いしまーす!」
 昨日誕生日を迎えたメンバー、大賀くんの待機場をチームカラーの青色で装飾しよう、と提案したのは私だった。三日前、衣装チームとの打合せで、青い造花が大量に余っているという話を聞き、企画チームからのサプライズプレゼントとしてやらせてほしいと頼んだのだ。ステージ下にある鉄骨だらけの簡易休憩所は、すごく殺風景だ。狭いスペースには、姿見とメイク道具など必要最低限の物しか置かれていない。でもここは、メンバーたちが本番中、何度も戻ってくる場所だ。これから大勢の人にパワーを与える主役の休憩場を、どうにかして華やかにできないものかと、ずっと考えていた。舞台セットは前日に完成するし、予算もギリギリ。準備は、リハーサルが終わってメンバーが楽屋に戻る数時間しかない。初めは反対されたけれど、先輩が後押ししてくれ、せっかくだからいいじゃないか、と監督も最後は乗ってくれた。
 STARSは、あれからオンラインコンサートやデジタル音源の配信、更にはバラエティ番組にも積極的に出演し、爆発的にヒットした。飛ぶ鳥を落とす勢いで、二年越しの世界ツアーも決まった。今日の公演後にファンに発表するというのだから、きっと盛り上がるだろう。大賀くんは末っ子で、まだ二十歳になったばかり。アイドルグループなんて、 裏では性格が悪かったりするんじゃないの、と疑う人も多い。私も駿介から聞くまでは、少し不安だった。しかし、初めての顔合わせの場でその疑いは完全に晴れた。あの駿介が大人しく見えるほど、四人全員、見上げるくらい良い人ばかりだった。音楽やパフォーマンスだけでなく彼らの人柄に惚れたことで、より一層企画に力を入れてここまで来られたと言っても過言ではない。
 段ボールに積まれた造花を、ジェルで丁寧に飾りつける。小指くらいの小さなものから手のひらより大きなものまで。青、水色、エメラルドグリーン。最後は衣装担当も助っ人に加わり、鉄骨の味気ない待機場が、華やかなブルーに染まった。
「なんとか、間に合いましたあっ!」
「ありがとね。山下ちゃんのおかげで完成したよ。きっと喜んでくれるはず」
 山下ちゃんは額に汗を滲ませながら、急いで写真を撮っている。マネージャーに送るよう頼まれているのだという。ファンクラブの会報に、現場の裏側として載せる画像らしい。
「おはようございまーす。あっ深山さん、ここにいたんだ。探しちゃいました」
「おはようございます! え、これ何?  わっ、大賀、はやくこっち来てよ!」
「え? うわー、どうしよう。俺、始まる前に泣いちゃいそうなんだけど……」 
 先に到着した年下の三人は、黒のスタイリッシュな衣装に身を包み、スターの風格が漂っているのに、発言や仕草は素直な少年の素顔そのままだ。この愛くるしさが、きっとファンの心を掴むのだろう。
「お誕生日おめでとう。これ、スタッフからのプレゼントです」
「これ、深山さんの企画ですか? これはちょっと、ずるいですよ……」
 外国人のようなブルーのカラーコンタクトを潤ませる大賀くんを見て、あとから来た光輝くんが状況を一瞬で察し、トントンと背中をあやしている。さすが、リーダーだ。
「大賀、ちゃんとお礼言ったか? 本番はこれからだぞ。スタッフさんたちの想いに応えるためにも、頑張ろうぜ」
「うん。ありがとうございますっ。俺、頑張ってきます」 
 近くでメイクさんが綿棒とティッシュを持ったまま、ヒヤヒヤしながら見つめている。ようやくきれいに整えたのに、本番前に泣かれたら元も子もない。心の中でごめんなさいと呟きながら、どうか涙が流れませんように、と小さく祈った。
 駿介の姿は、まだ見えない。きっと、最後まで身体を整えているのだろう。ギリギリまで準備して、時間ぴったりに到着する。まめの木での待ち合わせと、同じだ。

「よーし、円陣組むぞ。あ、監督と深山さんも入ってくださいよ。今日は特別。コロナでこれだけ我慢して、やーっとできる公演なんだから。みんなで頑張ろうの意味も込めてさ」
 私はとんでなもない、と首を振って遠慮したけれど、監督に無理やり背中を押され、気づいたら円陣に組み込まれてしまった。本番まであと十分。数えられないくらいのプロが集まるこの場所では、私なんてちっぽけな存在だけれど、今ここで働く人たちの目標は、 全員、同じだ。これが今、私にできることの一つなら、参加しない選択肢はない。
「駿介も来たな。よーし、今日は東京公演初日。チケットは完売。久しぶりのオフラインコンサートだぞ! みんな、わかってるなー?」
「っしゃー!」
「心を込めて、感謝の気持ちを込めて、俺らの最高の歌を届けよう。ワンフォー」
「オール!」
「オールフォー」
「ワン!」
「スターズイズ」
「スペシャル!!」
 テレビでしか見たことのなかった円陣にこの数年の出来事を重ねると、目頭がじわりと熱を帯びる。まだ始まっていないのだからとぐっと堪えて顔を上げると、二つの大きな瞳と目が合った。

 あの頃の駿介とは、全然違う。そこにいるのは、何倍も、何十倍も覚悟を持った熱い眼をした、プロのSYUNだった。

「あとは、頼んだよ」
「おう」
「行ってらっしゃい」
「ありがとな。行ってくる」
 登場リフトに乗る直前、誰も見ていない隙を狙って、グッと拳を合わせた。

 心を震わせるほどの大きな感動を生み出すために必要なのは、多くの人の細やかな仕事と努力の積み重ねだ、とつくづく思う。会場の裏では、今も撤収のために準備を始める人がいる。レストルームを整える人がいる。交通整備をする人がいる。このステージのために働いている人が、大勢いる。今日はどうか、その一人一人まで、笑顔になれますように。 あのとき泣いていた全ての人の心が、報われますように。
 私たちの人生をかけたエンタテインメントが、血と汗の結晶が、いよいよ始まる。どうか、届きますように。この苦しい時代を生き抜いた人たちへのエールが、彼らの音が、声が、言葉が、心が。今ここから見えている人だけじゃない、全員の想いが、パワーが、伝わりますように。私は祈るように手を合わせ、ステージ裏へ向かった。

 光輝くんの合図でステージに上がると、五万の観衆が一気に沸いた。五人の背中に、黄金のライトが降り注いでいく。
 私は確信した。これからの人生で、どんなときも、きっと死ぬ間際でさえも、目を瞑って初めに瞼の裏に映るのは、この瞬間だ、と。

 さあ、幕開けだ。



illustration by a k i


【あとがき】

エンタメサービス業界で働き、ここ数年、苦しくて悔しくて悲しい瞬間を何度も目にしてきました。
時には唇をかみしめ、我慢できずほろほろと涙が溢れ、心がぎゅっと掴まれるような気持ちでした。

それと同時に、少しでも楽しいことを、喜んでもらえるものをと誰かのために、前向きに、未来を見据えて努力し続ける人たちがいることを知りました。

これは私みたいな女の子の話でもあり、今も見えないところで頑張る"あなた"の話でもありたい。
そう思いながらこの「幕開け」を書きました。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます☺︎ いただいたサポートは、今夜のちょっと贅沢なスイーツとビール、そして今後の活動費として大切に使わせていただきます…⭐︎