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野球場でヒーローに出会った日

あなたは、ヒーローに出会ったことがあるだろうか。


私は、ある。

今までも、これから先も、ずっと変わらない、大切な大切な私のヒーロー。

彼は私のことをもちろん知らないけれど、私は彼のおかげで、彼の背中を見続けることで、10歳の頃から今まで、なんとか強く生きてこられた、とさえ思っている。

今の私が在るのは、間違いなく、「野球」というスポーツのおかげだ。

あの日の"あの1球"をきっかけに、ちっぽけな胸に大きな夢が宿ったのだから。

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「チケットもらったから、明日野球場行くよ!」

あれは、小学3年か4年生の夏休みだ。
楽しみにしていたテレビ番組が中継のせいで中止になったりするものだから、私は野球というスポーツが好きではなかった。今思えば、あの頃はまだ、プロ野球のナイター中継が地上波で放送されていた時代だ。

「えー、面倒くさい」

「そんなこと言わないでさ。野球好きな母ちゃんにつきあうつもりで、行ってみようよ。面白いから」

母の言葉を信じることはできなかったけれど、野球場にはおいしいご飯もありそうだし、何せ小学生の夏休みは暇なので、ついて行くことにした。母がいつにも増して楽しそうに見えたから、ここまで母を高揚させるものがどんなものか一度見てみたい、とも思った。



今でも、ハッキリと覚えている。
あの日は、とても晴れていた。雲ひとつない青空だ。
お菓子と飲み物を詰めた小さなリュックを背負って、電車をいくつか乗り継いだ。

球場の周りには、それはそれは見たことのないくらいのーー何千人、何万人だろうーーとにかく大勢の人たちが並んでいたものだから、着いた瞬間から渦のような熱気に飲まれそうになった。はぐれないよう母の上着の裾をつかみ、鼓動をどうにか落ち着けようとするので精一杯だ。

チケットのもぎり。荷物検査。飲食店が並ぶコンコース。グッズショップ。ビールの匂い。
初めて見るものばかりだけれど、なんだかお祭りみたいで、母がここに来るだけで笑顔になるのもわかる気がした。
コーラとホットドッグを買ってから、いざスタンドに足を踏み入れると、テレビで見るよりずっと芝の色が鮮やかなことにも驚いた。


その時はまだ、その日が今後の人生に影響するほど重要な1日になるなんて、露程も思っていなかった。

私たちの席は、ライトスタンドの前から5列目。
母が野球好きなことは知っていたけれど、どんな選手がいるだとか、そもそも野球のルールすら私は知らない。

「ほら、はじまるよ」

気づくと、さっきまでベンチにいた選手たちが、一斉にグラウンドに飛び出している。
こんなに大勢の人が集まって試合が行われているなんて。選手だけじゃない。両チームのファン、スタッフ、横を見ると複数のテレビカメラ……画面越しではわからなかったスケールの大きさに、ただただ圧倒された。

ライトスタンドには、ホームチームの応援団がある。派手な法被を着た女性やメガホンを回すサラリーマン、肩を組む大学生、 金管楽器の集団。
好きが高じて時に罵声まで飛び交うスタンドは、活気に溢れているのに、どこか神聖な空気さえ漂っている。
その空気の中で何万人が一つに熱中している光景は、なんとも言えない、すごいパワーで包まれていた。色で表現するなら、間違いなく赤だ。


圧倒されているうちに、試合はテンポ良く、どんどん進んでいく。
「なんで今アウトになったの?」
「この選手はどんな選手?」
「次どうなったら点が入るの?」
疑問に思ったことを1つ1つ母に尋ねていくうちに、少しずつではあるけれど、ルールを学び、楽しみ方もわかるようになっていった。

外野スタンドは、バッターボックスから1番遠い。声を出したりタオルを広げて応援をするのは楽しいけれど、バッターの姿は、肉眼でほんの豆粒くらいにしか見えない。

立ち上がって応援することに少し疲れた私は、冷たいプラスチックの椅子に腰を下ろす。

ふと顔をあげて振り返ると、ついさっきまで目の前を守っていた背番号が打席に向かう姿が、スクリーンに大きく映っていた。

ピッチャーを見つめる真っ直ぐな眼差しが画面越しに伝わってくるようで、私は思わずごくりと唾を飲む。

彼は数球見逃した後、バッターボックスを離れてから、肩をストンと落とし呼吸を整えた。

そしてもう一度、背筋を伸ばして構えると、球場の空気がなんだかピン、と張り詰めるのがわかった。

ピッチャーが投げた球が吸い付くようにバットに近づく。

カン、と音がした。

画面からはみ出したボールの行方を追うように、急いでスクリーンから前に体を捻らせる。

小さな白い粒が、広い屋根に向かってびゅん、とのぼる。

ぐんぐん伸びる白球は、ライトスタンドーー
私たちのすぐ近くに飛び込んできた。



一瞬、周りの音が聞こえなくなった。



「ホーーーーーーーーームラン!!」




地面が割れるような大歓声が、遠ざかる意識を現実に引き戻す。

震えるほどの感動を全身で体験したのは、この時が初めてだった。

「す、すごい……」

小さな胸に宿ったばかりの感情に相反するように、 ベースを回る彼の背中はまるで歴史の教科書に出てくる武将のように、とても冷静に見えた。

「ほら、言ったでしょう」
母はニヤリと笑いながら私を見下ろして、ハイタッチをした。

これが、野球……?
たった数秒で、空気ががらりと変わった。
ため息ばかりついていた前の席のおじさんも、後ろの席のカップルも、隣にいる母も、みんな笑顔で飛び跳ねながら、タオルを回している。
それに、地響きみたいな、この音。声。熱気。
これは一体、なんなのだろう。
胸のドキドキが、おさまらない。

お祭り騒ぎのライトスタンドの中、ゆっくり顔を上げて振り返ってみると、彼はチームの仲間に出迎えられながら、さっきとは別人のような少年の笑顔を見せていた。



私はこの日から、野球の虜になった。

そして、彼は、私にとってヒーローになった。



グッズもたくさん買った。プロ野球カードを集めたり、初めて買ってもらった携帯の裏側には、背番号のシールを貼った。同じクラスで、私が野球好きということを知らない人はいなかっただろう。
彼は頭のいい高校と大学の出身なんだよ、という話を聞いてから、より一層勉強にも励んだ。

小学校を卒業し、中学生になり受験勉強で忙しくなってからも、高校生になって部活を始めてからも、何度も何度も、私は母と球場に足を運んだ。

華麗なダイビングキャッチ、ここぞというときのタイムリーヒット、ヒーローインタビュー、オリンピックの緊張感の中の、あのホームラン。

彼は、本当に、いつだってかっこよかった。


プレーしているときだけでなく、そうでないときも、彼の全力な姿を思い出すと、辛い時も頑張れた。インタビューの受け答えを見ながら、謙虚にひたむきに努力することの大切さを学んだ。「今、頑張らないで、いつ、頑張る」という手書きのメッセージを見て、苦しい時に踏ん張れたことが何度もあった。

私は、彼を応援するようになってから、自分自身を奮い立たせることができるようになった。何事にも、前向きに挑戦するという勇気を学んだ。


そして、初めて野球を観たあの日から、球場に足を運ぶことが増えるにつれ、"この場所で働いてみたい"と小さな夢を持つようになっていた。

大学生になり、私はビールの売り子のアルバイトを始めることで、この小さな夢を1つ、叶えることができた。
売り子のアルバイトは肉体的にも精神的にも、想像の100倍以上大変で、試合をゆっくり観ることなんてできなかったけれど、その反面、学ぶことも多かった。

毎日汗だくになりながら、大好きな球場にいられること。野球を通して生まれる感動をたくさんの人と分かち合えることが、何よりも嬉しかった。
尊敬する先輩、同期、後輩たちに出会えたことも、今では大きな誇りの1つになっている。

売り子として働き始めてから、大勢のお客さんと出会った。忘れられない出会いもあった。悔し涙だけでなく、嬉し涙が出る日もあった。

仕事後に1杯のビールを幸せそうに飲むサラリーマン。初めて観戦にきた大学生2人組。おつまみをたくさん買ってくれるおばさま。一緒に記念写真を撮った東北のファミリー。いつも私を探して買いに来てくれた常連さん。

自分が満足するために、楽しむために始めた仕事だったけれど、気がつくと、お客さんから大きな感動や優しさをもらっていた。

そうしているうちに、今度は「与えられたことだけでなく、自分のアイデアや企画で、こんな風に誰かを笑顔にできる、感動させられる仕事をしたい」という夢を抱くようになっていた。

あの日球場に行かなかったら。
ライトスタンドにいなかったら。
彼のホームランを見ていなかったら。
私は、ビールの売り子になることも、夢を抱くことも、今の仕事に就くこともなかっただろう。

ずっと心に秘めてきた、私の夢。

「あの日のホームランのような大きな感動を、多くの人に届けたい」

私は野球選手ではないから、ホームランを打つことはできない。だから、私は私なりの得意分野で、やり方で。あの全身が震えるほどの感動を、パワーを、生きる力になるほどの何かを、届けたい。

たった一人でもいい。誰かの心を動かすほどの感動を創り出すこと。これこそが、私が働く意味になる。

あの日から、私の人生は導かれるように、全てがまるで運命の1本の線で繋がっているようにも感じている。


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2015年11月。
ヒーローは、18年間の現役生活に幕を下ろした。

引退スピーチの中で、彼はこんなことを言っていた。
来る日も来る日も野球と向き合い、戦いの場にいたこと。そして、楽しかったより苦しかったことの方が多かったこと。

ヒーローには、悪役がつきものだ。
時には私たちファンの歓声や期待が、彼にとっての"悪役"になった日も、あったのだろうか。
18年間、どれだけの重圧を背負ってきたのだろう。
バッターボックスに立ったことすらない私には、考えても考えても、想像することができない。

彼はスピーチの最後に、こんな言葉を残した。

"最後に、皆さまに誓います。どんな逆境にも立ち向かい、覚悟を持って邁進します。"

真面目で、まっすぐな野球人の彼らしい言葉だな、と思った。

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高橋由伸選手。


昔も今も、私にとっての唯一無二のヒーローだ。


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毎年、春になると、心が疼く。

初めて球場に足を踏み入れたあの日にも似た高揚感を感じる。

我慢して、踏ん張って、頑張っている人が多い今だからこそ、ヒーローたちはきっと、いつも以上に白熱した試合で私たちをワクワクさせてくれるに違いない。

一人でも多くの人が、球場で野球を観られる日が来てほしい、と願う。
テレビだけでは伝わらない、あの緊張感。球場が割れそうになるくらいの大歓声の中、全身で野球を楽しんでみてほしい。

もしかしたら、人生が変わるようなドラマが起きるかもしれない。
たった1人の、ヒーローに出会えるかもしれない。



私にとって「野球」というスポーツは、高橋由伸選手は、人生の道標であり、心の支えであり、そして憧れだ。

昔も、そしてこれから先も変わらない、唯一無二の存在だ。


今年も、そしてこれからも、嬉しい時も、楽しい時も、悲しい時も、苦しい時も、例え歳をとっても、
私は何度だって、球場へ足を運ぼうと思う。


ここに来れば、幼い時から変わらない、本物のヒーローに出会えるから。

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