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学年1位の女の子が「勉強なんてやめてしまえ!」と言われて


気づいたら、30歳になっていた。

子どもの頃想像していた「30歳」はもっとはるかに大人で、しっかりしていて、強いイメージだったけれど、今も私はあの頃と同じように日々悩み、もがき、時に悲しみ、笑いながら生きている。

この年齢になると、結婚・出産をする友人が増える。
FacebookやInatagramの幸せな「ご報告」は、私がまさに想像していた大人の姿の1つで、自分の人生を次のステージに進めていることが、純粋にかっこいいと思う。子育てに奮闘する彼女らと話をすると、仕事に明け暮れる自分とは全く異なる生活を送りながら、それでもやはり日々悩み、もがきながら前向きに生きる姿に、パワーをもらえるのだ。

最近、彼女たちから聞かれることがある。

「学生の頃、どうやって学年1位になってたの?」
「両親は、勉強に厳しかった?」
「頭の良い子に育てるにはどうしたらいいかな?」
「子どもの頃は、どんな勉強をしてた?」

中学・高校時代、私はいわゆる『学年1位の女の子』だった。
(もちろん1位でなかったこともあるが)
決して自慢ではないのだけれど、友人達はこの順位を理由に、私のことを"頭がいい子"だと思っているのだと思う。

唯一残っていた成績表の一部。
(理数科含めたら2位だった)
亡くなった祖父のアルバムから出てきた。


当時、教師や友人たちからかけられる言葉から感じていたのは、
『小さい頃から英才教育を受けてきたはずだ』
『頭の良い家系であるに違いない』
といったように、決めつけて接してくる人が多いことだった。

特に得意なのは数学だった。初めは解けなかった問題が、少しずつ解けるようになる。暗号みたいな数字が、計算式にするするとはまっていく。ドリルの端に申し訳程度に書かれた少し難しい問題が解けると嬉しかった。

中には、私がまるで生まれた時から勉強ができたかのように接してくる人もいたけれど、高校時代、数学嫌いな友人達がひぃひぃ言いながら1周するチャートのドリルを、私は最低5周はしていた。平均点が15点のテストで73点だった理由は、おそらくそこにあったはずだ。(進学校とはいえ、平均15点のテストって一体どうなんだ…)
当時の友人が知ったら「そんなにやってたの? 気持ち悪っ!」って言うだろうし、自分でもよくやるなぁと感心するけれど、当時の私にとっては、そこまで大したことではなかったのだと思う。

幼い頃から英才教育を受けてきたわけでもなく、特に頭の良い家系というわけでもない。
有名大出身の両親がいて、裕福で何不自由なく勉強させてもらえて、私立の良い学校に進学して……なんて漫画みたいなストーリーは存在しない。
父は香港人で大学は出ていないし、母は大学を出ているけれど高学歴というわけでもない。小さい頃から「うちは貧乏だからね」と言われて育ち、高校は県立だ。
(母の後日談では「うちは貧乏だから」と子どもにすり込めば、贅沢を言わないと思っていたらしい。多分、効果はあった)

ただ1つ言えるのは、ある時、ある言葉をきっかけに、「勉強との向き合い方が変わった」ということだけだ。

***


2つ歳上の兄がいる。

幼い頃は、兄の行動が全ての手本だった。良いことも、もちろん悪いことも。例え些細なことでも「ああ、これをやったら叱られるのか。こうするとやりやすいんだな」と理解しながら育ったように思う。(ありがとう、兄貴)

勉強に関しては、兄はほどほどに頑張るマイペースな性格で、小学生の頃は一緒に勉強机でドリルをやるくらい。早く終わらせて外で遊ぼう!といって、2人で巻末の答えを丸写ししたこともある。そんな小学生だった。

自分がいつから勉強するようになったかは覚えていない。同じように育ったはずの兄は人並みだったと思うけれど、私は気づけばどんどん勉強にのめり込んでいた。

私の母を知る人なら想像できると思うが、生まれてから一度も「勉強しなさい」と言われたことがない。
「それは、言わなくても率先して勉強するタイプだったからでしょ」と言われる。確かにそれもあったかもしれないが、それ以上に、母は”勉強のできる・できないがその子の価値を決める”と思っていなかった、というのが1番の理由だと思う。

 
テストで学年1位になったからと言って、何か豪華な賞品や賞金をもらえるわけではない。
それでも、この称号にはなにやら不思議な魔法がかかっているようで、一度手にすると、周りからの大きな期待も相まって、手放すのが惜しく、時には怖くなってしまう。

「りりちゃんは頭がいいから次も1位でしょう」
「学年1位の子のお母さんなんて羨ましいわ」
「うちの子がどれだけ頑張ってもりりちゃんには叶わないわよ」

当時流行っていた「前略プロフィール」のりある(今のTwitterのような機能)に『今回のテスト勉強進んでないな~』と呟くと、『あなたが勉強進んでなかったら他の人はどうなるんですか。馬鹿にしないでください』『嫌味な投稿して楽しいですか』『次こそ順位が落ちるといいですね』といった匿名メッセージがポロポロ届くようになった。

 確かその頃だったと思う。

 事件は、突然起きた。


いつも通り部活を終えて帰宅し、翌週の定期テストに備えて数学の教材をリビングに広げていた。横では、母がげらげら笑いながらバラエティ番組を見ている。
真っ新なノートを前に、頭の隅っこに追いやったはずの刺々しい言葉がちくちくと頭を刺激してくる。ああ、数学は昨日までに終わらせて今日は古文の勉強をしようと思ったのに。どうしてこんなに進んでないんだ。このままじゃダメじゃないか。ああ、気が散る。いつもみたいに集中できない……

「ねえ、見てよこれ! はっはっはっ」
テレビを指さしながら笑い続ける母に向かって、私は大声で怒鳴ってしまった。

「もう! 勉強してるんだから、静かにしてよ!」

言った後すぐに、まずい、と思った。ここはリビングだ。私だけの場所じゃない。どうしよう、怒られる。

母は動揺することなく、少しだけ息を吐いてから、私にこう言った。

こんなに面白いテレビも楽しめないなら、勉強なんて、やめなさい!!!!

勉強しろと言われたことはないけれど、勉強を辞めろと言われるのも初めてだった。
ポカンとした。

「なんで勉強してるの? 1位になるため? それとも、褒められたいから?」
母は床にごろんと寝そべったまま、質問を投げかけてくる。

「将来のためにいいことかなって…」
「将来のため、ただそれだけ? 昔はもう少し違ったように見えたけど」
すぐに答えを探すことができず、下を向いたまま私は黙ってしまった。

「勉強するのは、悪いことじゃない。知識は、あんたの武器にもなるから。でも、勉強してる人、できる人は偉い、っていう考え方は間違ってる」
「偉いなんて、思って、ない……」
「最近のあんたを見てると、そう見えるけどな。まるで1位を取ることが使命みたいになってる。別にいいじゃない、1位じゃなくたって。楽しくないなら、やめちゃえばいいのよ」

勉強しなさい、順位を上げなさい、内申点を上げなさい。昔からまるでこの世の当たり前であるかのように植えつけられた考え方。
純粋にわからない問題が解けるのが楽しかった自分を、どこに置いてきてしまったんだろう。

「自分でわかってるだろうけど、あんたは、元々頭が良い天才じゃないよ。あんたにとって勉強は、1つの特技みたいなもんでしょう。これまでずーっと、周りの誰よりも勉強してきて、得られたものは何かなかった?」
「順位以外で得られたもの?」
「そう。順位なんて、どうだっていいのよ。あんたが努力して勉強してきて得られたのは、誰にもわからない、わかるはずもない、確固たる"自信"だった。違う?」

 
ハッとした。

テストで1位になる。表彰される。先生や友人たちに褒められる。

そんなことより、私は誰より「自分が頑張ってきた」ことを知っているじゃないか。
自分はここまで頑張れるんだという大きな自信を、努力で得られたんじゃないのか。
他人に決められる数字や評価より、自分が自分を評価できなくてどうするんだ。

自分らしさや自信を、スポーツや他のことで得られる人もいる。でも、私にとってはその1つの手段が「勉強」だったはずだ。

「母さん、1つ質問していい?」
「ん?」
「私が学年1位になったら、嬉しい?」
「うーん……よくやるなとは思うけど、努力したのも1位になったのもあんただから、私は別に嬉しくないね」
「友達は、30位以内に入ると両親がすごく褒めてくれるんだって」
「褒められたいの?」
「いや、別に」
「自分の頑張りは自分が1番わかってればいいのよ。それが1位だろうと、そうじゃなかったとしてもね。それに、褒められて伸びるタイプでもないでしょ」

そういえば、成績が良くて褒められたことは一度もない。嬉しいより悔しい時の方が燃えるタイプだというのも、自分でよくわかっている。
それに、テストの成績が良くても悪くても、それは私という人間の一つの側面であって、勉強以外に大切なことは山ほどあるのだと教えてくれていたのも、家族だった。

「それより、もっと伸ばして欲しい大切なことがあるな」
「勉強以外に?」
「そう。なんだと思う?」
「うーん。服をすぐ片付けるとか、料理できるようになるとか?」
「まあ、あんたは勉強が得意なだけで、家事もできないし頑固で意地っ張りだし、直した方がいいのはもちろんだけど。イマジネーションよ、イマジネーション!」
「イマジネーション…?」
「想像力。勉強にしろスポーツにしろ人間関係にしろ、一番大事なのは想像力よ。この人はどうしてこんなことを言ったんだろう?最近疲れてそうだし、何かあったのかな。とか。スポーツだって何にも考えないでやる人と、相手の思考や動きを想像しながらやる人じゃだいぶ違うからね。勉強もそう。山をはったりするでしょ?」
「いや、私は山はらない。むしろ誰もわからない問題を出してくれと思うこともあるよ。誰も解けなくても私だけは解けるぞ!ってね」
「それだけの自信があるなら、どうにか他にも生かしなさいよね…。とにかく、想像力を養いなさい。ただの頭でっかちな人間は、つまんないよ。色々な人と接して、たくさんの景色を見て、知らない価値観に出会って、人は成長していくの。そのためには、気持ちにも時間にも余裕がないと! 余裕がないと、楽しいことも見逃して、人生損するからね」

そう言って、母はもう一度テレビに向き直った。


***


私は少しずつ昔のように勉強を楽しめるようになった。

順位が上がるのは成果としてもちろん嬉しいけれど、他人軸ではなく自分軸で物を考えられるようになった。ただ方程式を暗記するより、なぜそうなるか、を想像するようになった。

そうすると、なぜだか肩の力が抜けた。空気が吸いやすくなった。

高校3年生の時、指定校推薦で早稲田大学へ進学したいと進路指導の先生に伝えたとき、
「東大を受験しないなんてもったいない」
「落ちてもいいから挑戦してみようよ」
「早稲田は推薦じゃなくても普通に受験すれば君なら受かる」
と言われ、部活の途中で職員室に呼ばれて説得されたこともある。
同じ学部の推薦を取ろうとしていた女の子からは、「りりがいたら私無理じゃん」と言われたけれど、自分の軸は変えなかった。

昔の私なら、もしかすると周りの意見に流されて、推薦を手放していたかもしれない。
今となっては、あの時挑戦しても良かったな、なんて思うけれど、私は早稲田の文構に進学したかったのだから、これは1つの正解だったと信じたい。

 

クラスメイトが受験勉強をする中、部活も引退し、私は暇を持て余していた。ある日、日直日誌を提出しに職員室の前を通ったとき、ふと、見たことのない箱が置かれているのに気がついた。

東大をはじめとした国立大を受験する人に向けて作られた、特別問題。わら半紙が数枚、透明な箱に入っていた。週に1度、用紙を持ち帰り問題を解いたら、また職員室前の箱に提出する。すると翌週、赤を入れた用紙が返ってくる、そんなシステム。
添削してくれるのは、数学の先生。もちろん参加は強制ではない。

指定校推薦が決まっている、東大を受験するわけでもない、かつ理系ではなく文系クラスにいる私。

数分迷ったけれど、持ち帰ることにした。

 
東大の過去問を見慣れていない私にとって、全てが新鮮で、こんなに面白い問題があるのかとわくわくした。答えは導き出せても、その途中の証明がうまくできない。いや、こうするのか?あ、違うな。やっぱりわからない、いや、こう解いてみる手もあるのか?うわー、なるほど、そういうことか!の連続だった。

鉛筆で書いては消し、書いては消しを繰り返し、薄汚れてしまったわら半紙。数日かけて解いたそれを、本気で受験する人たちに紛れて提出するのは申し訳ない気もしたけれど、余白に質問を書き足し、こっそり提出した。
「東大は受験しませんが、添削していただけますか? もしよければ、来週以降も提出したいです」

翌週返ってきた答案には、赤ペンで細かな解説と、返事が書かれていた。
「勉強する意欲、大歓迎です。来週も頑張ろう!」

放課後、人が少ない教室で問題を解くのが、習慣になった。
高校までの学生生活の中で、1番楽しい学びの時間だった。
その時、私は知らぬ間に受験という決められた枠組みの中で勉強していただけなんだな、と思った。

本当の「学びたい」は、きっと、その先にある。


余裕がないと、楽しいことも見逃して人生損するからね――
母の言葉が頭をよぎった。


***

Imagination is more important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world.
空想は知識より重要である。知識には限界がある。想像力は世界を包み込む。

アインシュタインの名言である。

後日、母に「あれって、アインシュタインの名言だったの?」と聞いてみると、「んー?何のこと?」とのこと。
私は意図せずして、埼玉のアインシュタインの言葉に影響されていたようだ。

 

頭がいい子に育てたい!という気持ちで私に質問してくれる友人たちには、大したアドバイスはできないし、「学年1位でも私みたいな大人になるからおすすめできない」としか言えないけれど。

でも、もし何か言えるとしたら……
勉強は、他人から評価されるためにやるべきじゃない、ってことだろうか。勉強したからいい大人になれるとか、いい職に就けるとか、立派な人間になれるかは別問題だけれど。でも、学生時代にきちんと取り組めば、心は鍛えられるし、間違いなく大きな自信になると思う。

例え知識がそのあと生きなかったとしても、何か壁にぶち当たった時、挫けそうになった時、自分の鎧や盾になってくれる。

「あれだけ勉強してきたんだから大丈夫っしょ!」
「こんなことでへこたれてたまるか!あの時に比べたら楽勝楽勝」
「私ができなくて誰ができるっていうの。よっしゃ、やってやろ!」
っていうぐあいに。

"自信"は、誰かに与えられるものじゃない。自分で勝ち取るものだ。数字や順位になって表れることもあれば、そうでない時もある。
自分がわかっていればそれで良いと思うけれど、「お母さんが自分を信じてくれている」って感じられたら、更に強くなれるんじゃないかな。

私も、そうだったから。
……多分ね。


ちなみに、我が家には家訓がある。
たしか私が小学生だった頃。
母の字で書かれたペラペラの紙が壁に貼られていた。

自分を信じて 自分らしく生きろ

私にとっては、学年1位を取ることよりはるかに難しい。

子どもの頃はもちろん、大人になった今でも。

  

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