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記憶の塩むすび

「おかかと、もちチーズ。味噌汁セットで」

キャンパスの裏にあるおにぎり屋に初めて行ったのは、大学一年の秋。私はその日まで、おにぎりをそこまでおいしい、と思ったことが正直なかった。

美容室で何気なく手渡された雑誌の、"まごころが決め手!おにぎり特集"と書かれた1頁を見たときも、論理的でないことに納得できず、最後の晩餐に食べたいのはどちらかといえばパンだな、と思った。

しかし、ここのおにぎりは農薬や化学肥料を一切使わないふわっふわのお米に、丁寧に味付けされた手作りの具材。季節の野菜がゴロゴロ入った味噌汁とも相性抜群で、初日から虜になってしまった。

大学の周りには洒落たカフェやチェーンの飲み屋が山ほどあった。飲んだくれの学生で騒がしいくすんだキャンパスロードの中で、この店の看板だけは、月明かりのように光って見えた。月に三度くらい通ったと思う。無機質な教室や騒がしいサークルの飲み会とは少し違う、秘密基地のような場所だった。

忙しい日や元気が出ない日は、テイクアウトもした。
バイト前に食べる麦おにぎり。慣れないヒールで靴擦れを起こしたインターンの帰り道に食べた鮭おにぎり。彼氏をフった日に食べた梅おにぎり。
どの味も、一つずつ、しっかりと記憶している。



大学四年、本格的に就職活動が始まり、校門の大きな桜が色づき始めた頃。
私にとって、とても、とても悲しい出来事があった。涙が一生枯れ果ててしまうのではないかと思うくらい、毎日泣いた。

「どうしたらいいの」
大きな絶望を前に、自分に何ができるかわからず、ただその場に立ち尽くすしかない。体重はみるみる落ちていく。しばらく、何も考えられなかった。考えたくもなかった。この世には神様なんていないじゃないか、と。

ソファで寝落ちした怠い体を起こしながらカーテンを開けると、窓が真っ白に曇るほど冷たい雨が降っていた。
適当にニュース番組をつけ、ルーティーンのホットレモンティーを飲んでも、味はしない。頭がずっとぼうっとしていた気がする。

15時頃。気づいたら私は、教室ではなく、面接会場でもなく、おにぎり屋の前に立っていた。
ランチタイムは、もう終わっていた。

「だ、大丈夫……? このままだと、濡れちゃうから。とりあえず、中へ入って」

看板を下げようと外へ出てきた女将さんが、誰もいない静かな店内、窓際の席へ案内してくれた。

「お姉さん、平気? 顔色が悪いみたいよ」

華奢なウッドチェアを手前に少し引いた途端に力尽きた私は、ドスンと音を立て、まだ定位置に動かせていないままの椅子に座ってしまった。

「これから…どうしたら良いんでしょう私……」

腫れた目元を隠すように少し俯いたまま、言葉が口から溢れていた。自分でも、驚いた。
テーブルの木目に、ぽたりと涙が染みた。

「……ん、よし。うん、わかった。少し待っていて」
女将さんは一瞬驚いたようだったが、明るい声を残し、すぐに席を離れてしまった。

就活の疲れと知らせのショックで、ろくに食事もとれていなかった。今思い出しても情けないが、私は何も言えぬまま、出されたお茶を少しずつ口に運び、渦巻く木目の流れを見つめるのが精一杯だった。
それから、15分くらい経っただろうか。

「お待たせ!」
目の前のテーブルに、見慣れた薄い木製のトレーがカタンと置かれた。

「塩むすびに、今日の味噌汁。ランチの小鉢とヨーグルトもつけたよ」
馴染みの香りだが、見たことのない組み合わせだ。

「いつもうちのおにぎり食べてくれてるよね。今日は、私の奢りだから。ゆっくりして行ってね」

「こんな……いいんですか……でも……」

女将さんはにこっと微笑むと、夜の仕込みをはじめたばかりのキッチンへ戻ってしまった。

私は申し訳ない気持ちを消せないまま、一人残されたテーブルで、小さくひとくち、塩むすびをかじる。

手が震えた。


ーーーーおいしい。


人生で食べたどの食べ物より、あたたかい。

本当だ。これは、あの味だ。

気づくと私は、おにぎりを両手で貪っていた。
声を上げ、赤ん坊のように泣いた。
カウンターの向こうから、女将さんが覗いているのが見えた。化粧も落ち、コンタクトも外れかけ、私はきっと、ひどい顔をしていただろう。
ぼんやり滲んだ女将さんの微笑みを視界に捉えながら、そうか、私はただ泣きたかったのか、と気づいた。

強がりな心を解放する魔法がかかっているかのように、咀嚼する度にぬるい涙が溢れ、それに比例して、柔らかな安心感に包まれていった。

______

あれから五年以上が経った。

先日、仕事で大学へ行く用があり、散歩がてら久しぶりに店へ寄ってみた。

角を曲がったあたりからなんとなく気配は感じていた。

店は、なくなっていた。

見慣れた木の引き戸に、A4くらいの藁半紙が1枚。閉店の文字と、感謝の気持ちが丁寧に綴られている。おそらく、女将さんの手書きだろう。
別の場所へ移転したのか、人手が足りなかったのか、それとも未知のウイルスによる業績不振か。
本当の理由は、わからない。

悲しかった。
虚無感に押しつぶされそうになりながら、一方で、仕方ない、とも思った。どこかで、心の準備ができていたのかもしれない。

馴染みの店の、あの味。
思い出すだけで唾液が出るような記憶の味。
いつでも食べられるだろうと信じていたあの味が、突然、なくなってしまう。
この気持ちを、今世界中でどれくらいの人が味わっているのだろう。
悔しい、悲しい、切ない、でも、どこにもぶつけることのできない感情を。

その晩、私は塩むすびを握ろう、と思った。
帰り道、百貨店の食品売り場で高い米と塩を買った。
ネットで「お米 おいしい 炊き方」と検索して出てきた動画の調理法を、片っ端から真似してみた。

10個は握っただろう。
握り方を変えた。調味料を変えた。
初めに炊いたご飯がなくなり、次は炊き方も変えた。
でも、あの味を再現することは、とうとうできなかった。


緊急事態宣言が明け、久々に会う親友と、奮発して都内のホテルランチを予約した。
ツヤツヤで鮮やかな食材に、見慣れない洒落た名前のメニュー。うまく説明できないけれど、どれも唸るくらいおいしかった。

「ねえ、りりは最後の晩餐に食べたいものってある?」
苺の限定デザートを食べながら、ふと尋ねられた。

「私は、塩むすびって決めてるんだ」

親友は、口に運びかけたフォークを止め、私をじっと見ながら大きな目をぱちくりと動かしている。
「あれ、どっちかというと、りりはパン派じゃなかった? 珍しいこと言うね」

「うん。変わったんだ。私の価値観を変えたおにぎりの話、聞く?」

「えー、気になる。聞く聞く!」

おいしい、は嬉しい。
おいしい、は優しい。
こんな感じのコピーを、テレビや広告で見たことがある。
でも、私はもう2つ付け加えたい。

おいしい、は心だ。
おいしい、は記憶だ。
たとえ無くなったとしても、思い出せる。
そしてその思い出で、きっと私は、またもう少しだけ、踏ん張れる。

あの日の塩むすびの味。誰もいない店内の空気。窓に当たる雨の音。カウンターの奥に見える仕込みの湯気。テーブルの木目。女将さんの言葉。苦しかった記憶さえも、全部ひっくるめて、心の中で、それはおいしい記憶になっていた。

私はあの場所で、初めて本当のおいしいを、知ったのかもしれない。
あの店のような場所は、今、世界のどこかに存在しているのだろうか。


「いい?おいしいっていうのはね、本当は、まごころがこもってる、って意味なんだよ」

目の前に高く積まれた苺を一粒、白いホイップにディップしたまま、もう一度目をぱちくりさせている親友を見ながら、私の心は、数年ぶりにあの優しい味で満たされていた。


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