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自分だけじゃなくて、世界の余命がわずかとしたら


どう生きたいか?
そして、その“生きたい”を叶えることが難しいとき、生きることを諦めるか?

この問いを深く考えた理由は、とある2人の作家さんの作品を読んだからである。

先日、凪良ゆうさんの「滅びの前のシャングリラ」という小説を読んだ。
1ヶ月後に小惑星が衝突し、地球が滅びるという舞台。その中でうまく人生を生きることが出来なかった4人の登場人物が、最期に向かう中でどう生き、なにを思うか。幸せとは。
“生き方”など哲学的部分を深く考えさせられる作品であることと、小惑星が衝突し地球が滅びるという、ファンタジーでもなければ、現実味もない、というより現実で起こって欲しくないけど起こりうる世界の話に惹かれた。

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そして、同じような作品をまた読みたいと思い、次は伊坂幸太郎さんの「終末のフール」を読んだ。
こちらは8年後に小惑星が衝突し、地球が滅びるという舞台。6人の登場人物の視点から終末に向かって幸せや、今日をどう生きるかを問う物語だ。


どちらも共通するのは
・“小惑星が衝突し、地球が滅びる”=“人類みな同時に死ぬ”ということ
・地球が壊れる前に人間たちが壊れるということ
・人間がそれぞれ人生を歩んできた中で、地球滅亡を迎えるにあたって残された期間の生き方や心情も異なるということ
である。

私が、着目したこと1つが2つ目の「地球が壊れる前に人間たちが壊れるということ」だ。
一般的に“生き方”を問われる際、「1年後死ぬとしたら?」「明日死ぬとしたら?」など命の期限を問われることがある。しかし、あくまでも私以外の世界は当たり前に続く前提で考えられていることが多い。
では、命の期限がみな同じ場合は?小惑星が衝突するということに対する恐怖、死を意識する恐怖に怯え、狂い、食糧の奪い合いはおろか、暴行や殺人が当たり前になり、生きたい生き方をできる状況とはとても言えなくなる。
例えば、死ぬ前に海外一周したいとしても、そもそも飛行機を操縦するパイロットが仕事をしているとも限らない。
会いたい人に会いたいと思っても、行くこと自体に命の危険も伴うし、相手はすでに死んでいるかもしれない。
私は大切な家族と共に穏やかに過ごしたいと思うが、食糧も奪い合いで命の危険もあるし、家にいても襲われるかもしれない状況。ましてや、私は一緒に過ごしたいと思っていても、その家族が同じ気持ちで、正気でいてくれるとは限らない。作中でも、家族が自死したり食糧調達の際に死んでしまっている。

そこまでして、生き延びなければならないのか?
生きたい生き方を無くしてもまた探して、無くしてを繰り返して生きる理由を見つけなければならないのか?
私は正直この状況になってしまったら、与えられた命を粗末にせず一生懸命生きろなんて綺麗事だと思うかもしれない。1番生きたい生き方ができなくなってしまった時点で私は生きることを諦めるだろう。私の場合、家族が先にいってしまった場合である。
すぐに全て終わる世界で、その前に常に死と隣り合わせであるかのようになってしまっている世界で、最後まで生きてやろうと思える気がしない。

「どう生きたいか?」そんな漠然としたと問いを、極限の状況にあてはめて考えることによってより深く、リアルに考えるきっかけにもなった。今の私たちは、もしその状況になった時に、叶えられる叶えられないを考えずに出てきた「こう生きたい」が自分の生きたい生き方の芯となるのではないだろうか。

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