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【美術ブックリスト】マティラ・ギカ『黄金比原論: 美といのちの幾何学』

黄金比とは、黄金分割の比率のことで、現代では1.618…や、もっとざっくりと約5:8と呼ばれているもの。人間が美しいと感じる幾何学的基準であると、漠然と流布している。

本書は20世紀初めに、美学に興味をもちながらパリで電気工学を学んだあと、ルーマニアを代表する文化使節として世界各国をまわりながら数学と美学の両方の面から美について研究しつづけたマティラ・ギカの講義資料。植物や動物、鉱物といった自然界の事物やギリシアやローマの伝統的造形物がなぜ美しいのかについて、幾何学を援用して考察した世界初の入門書でもある。

現在では「ひまわりの葉の生え方はフィボナッチ数列になっている」とか、雪の結晶やシダの葉のように自己相似する「フラクタル図形」など、自然の中に現れる幾何学的規則性について言及されることが多いが、そうした本の源流に位置する。

さて話は古代ギリシアにまで遡る。「万物は数によって秩序立てられている」というのはピタゴラス主義。それを美学に発展させたプラトンは人間の心と宇宙のリズムとの間の調和を論じている。一般には宇宙と人間とはいずれも秩序(コスモス)を本質としていて、それぞれマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙)と呼ばれ、そこには黄金比を含むいくつかの特別な比例関係がある。その間に相似的に位置するのが神殿だったため、神殿建築にとってもこうした黄金比が大切だったことになる。

さて1章から5章までは黄金比の意味を線分、多角形、多面体といった幾何学的に説明し、いかに黄金比が特別で有意味な比であるかを説明する。特に黄金比から導かれる五角形や五角形で作られる正20面体の特異性が語られる。第6章「いのちの幾何学」は、鉱物などの結晶が無機物が立方体、正六面体などの「安定」した形になるのに対して、植物の葉や山羊のツノなどの有機物は黄金比に基づいた形状をなし、典型的にはヒトデやウニの五角形に表れているという。また人体や顔も分析すると黄金比が成り立つ。8章では建築の美しい規範について、9章ではスーラなどの例をひいて黄金比が実際の絵画制作で生かされたことを論じている。原著からとられたという図版、図形が多く、数学が得意な人は直感的にその意味が理解できるはず。

これまで美学や美論が、美や芸術について客観性を排除し、体験や感性といった主観性にのみ立脚していたのに対して、法則や基準を求める科学的なアプローチは古くて新しい。

ところで本書は数学、物理学、生物学、建築、美術、音楽といった多ジャンルの高度な内容を、フランス語、ドイツ語、ギリシア語、ラテン語が登場する多国籍語で記述してあるため、長らく翻訳されず、ただ図版だけが一人歩きしていたという。今回、原著者と同じルーマニア生まれで多国語に通じ、数学と美術の天童といわれたものの日本文化に憧れて留学してきたパウロ・パトラシュク氏によって、語学の高い壁が超えられて翻訳にいたったという。この翻訳者の日本語の正確さも驚くが、原著者ギカが1911年に来日して京都と名古屋を探訪し、日本文化に対する驚嘆と賛辞を送っていることを丁寧に綴った「訳者あとがき」は異国の文化を学ぶ人に一読を薦めたい。また100年前の日本人の美的感覚に驚く西洋人の姿は、現代でも同じだろうかと日本人として反省すべきとも思った。

パウロ パトラシュク (翻訳), 宮崎 興二 (翻訳, 監修)
171ページ、A5版、6380円、、丸善出版

第1章 空間と時間における比例
第2章 黄金比
第3章 多角形
第4章 多面体
第5章 タイル貼りとブロック積み
第6章 いのちの幾何学
第7章 かたちの伝統
第8章 黄金比の広がり
第9章 美の協奏曲


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