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【美術ブックリスト】『禅の教室 坐禅でつかむ仏教の真髄』 藤田一照、伊藤比呂美

2016年の出版。
藤田は東京大学大学院教育学研究科博士課程を中途退学した曹洞宗僧侶。87年渡米してアメリカ人に禅の指導をしていた。2005年に帰国してからは曹洞宗国際センター所長として禅の普及活動をしている。
伊藤は現代詩の詩人。女の性を歌ったかなり過激な詩を書く人だったが、『日本霊異記』の現代語訳など仏教に関わる仕事もしている。
本書は伊藤が素人を代表して、僧侶である藤田に、仏とは、仏教とは、禅とは、坐禅とは、と専門用語を使わないで説明を求めていく三日間に渡る対談を収録したもの。ときどき難しくなるとストップをかけつつ、自分が分かるまで質問しつづける詩人・伊藤比呂美の言葉に対する細かさが見て取れる。

第1章で禅の概念と歴史を話したあと、第2章では実際に坐って、体をどう納めるかを学ぶ。第3章「坐禅の効用」、第4章「日本の禅、海外のZEN」は社会や世界と禅との関係を、やや引いた立場で語る。
ここまでが概要。

ここからが感想。
前回のみうらじゅん「マイ仏教」に続き、やはりここでも仏教と美術と関連づけて読んでしまった。
藤田さんはアメリカ人に禅を教えていただけあって、頭が柔軟で、英語やいまどきの言葉を駆使して説明してくれる。
「坐禅と詩を書くのと同じ」という話題になったとき(106ページ)、詩をギリシア語のポイエーシスとテクネーの概念で説明する。ギリシアでは制作一般とくに詩作のことをポイエーシスといったのだけど、これは自然が自分の中に隠しているものを自発的に外に持ち出す働きことと捉える。対して技と訳されるテクネーは、人間が自然を挑発して自然に内在するものを無理矢理外に引っ張り出すことで、その典型が原子力技術と捉える。詩は後者の自分が作り出すものではなくて、前者の自然が分け与えてくれるものであると。このポイエーシスとテクネーの考え方はハイデガーの技術論を読んだ藤田さんが、坐禅と同じではないかとコンセプトを援用しているわけで、さらに道元の「強為と云為」に近づけて語っている。すると今度は伊藤さんが、親鸞の「他力と自力」ではないかと話は深まり、さらに「坐禅と習禅」という禅の二種があることを藤田さんが教えてくれる。
(ハイデガーはモノづくりの際の見通しという意味での「知」であったテクネーが、現代では挑発的なテクノロジーとしての「技術」へと先鋭化したと考えたのだけどもここでは深入りしない)

もう1つ。禅には「調身・調息・調心」といって、3つを「調える」がある。心と体を橋渡しするのが息というのは、アートの文脈でも考えるに値すると思った次第。

詩人というと日本では仙人のような、あるいは世間はなれした変人のように思われがちだが、言葉の芸術家をあなどってはいけない。友人、知人に詩人の一人はいたほうがいいと思う。俳人、歌人でもいいけど。

276ページ 946円 中公新書


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