高校3年間振り返ってみる

前置き

受験も終わり、少し落ち着いてきたので高校3年間を軽く振り返ってまったりしたいと思います。進学先は慶應義塾大学環境情報学部(通称SFC)に行くことになりました。他に総合政策学部も受かっていたのですが学部長に引かれて進学を決めました。高校受験で慶應義塾高等学校を受験するも不合格に。今回はリベンジを果たせて、そして今まで僕をサポートしてくれた友達や先生方に恩返しができたようで嬉しく思います。

高校1年とき

第一志望に落ちた私は某偏差値詐欺大学の附属高校に進学した。冒頭から話が逸れるが偏差値詐欺大学とは「実際に公表されている偏差値と実際の偏差値が異なって、それを意図的に行なっている大学のことです」実際この大学は某大手では偏差値55-65となっていました。しかし、実際は偏差値40代となかなかの結果。このように書くと、「大学は偏差値だけじゃない!」と言われる方が一定数いますが、私が指摘したいのは偏差値どうこうではありません。偏差値を意図的に改変(内部進学や推薦で人数を確保して一般受験での倍率を釣り上げてボーダー偏差値を上げる)して人を集めようとする大学側の方針です。と、話を戻すとそんな高校で私の学校生活は始まったわけです。その時の私は確かに哲学書などを読んでいて思想系の考えや知識については同年代よりも身につけていたと思います。しかし、経済学などといった比較的実践的な学問には弱かったのです。(おそらく今も弱いです)
学校には一定数意識高い系のような方々がいて意識の高い活動をよく行なっていました。一方の私はというと、哲学書を流し読み、小難しいことをぶつぶついっているような感じでした。母親からも「言葉じゃなくて実際に行動しなさい、外に出なさい」と言われていたのもって意識高い系には一定の苦手意識というかそれに近いものを持っていました。別に母親の言っていることが間違っていたとは特に感じませんが的を得ていて、いい気はしませんでした。詳しく書くと長くなるので手短に書くのですが、SDGsといった世間で話題になっているコトに対して脳死的に「解決しないと!」みたいな人たちが苦手です。私はもっと世の中に問題として提示されていることを一旦俯瞰的視点で見てより本質的な、もしくは面白そうな問題を発見するのが好きです。個人的には前者のような人が意識高い系の中では大半のように感じます。この学校の人たちも例外ではありませんでした。(全員ではないですがね)学校の大半の生徒、同級生たちはゲームやドラマの話ばかりでそれらに馴染みがない私からすれば全く面白くもない話で、表面上は友人として接していましたが正直いって「こんな奴ら」と見下していました。と、いうように最初の一年は自分に適した環境にいかなかったばかりに楽しい生活とは言える状況ではありませんでした。

高校2年のとき

不幸か幸運かコロナによって学校は全てオンラインに、自分にとって願ってもない状況に。その頃に私が長年お世話になっている先生に「君みたいな人があっている大学はICUかSFCしか合わないだろうね」そんなわけで夏ごろからSFCを意識した高校生活が始まります。いうなれば再起動です。一年生の頃に完全に腐っていた自分からの脱却です。まずは数学をなんとかしようと思い青チャートを夏休みにかなりやり込みました。と同時に学校に行く意味を見失いました。話す友達もいない、好きな人がいるわけでもない、授業が楽しいわけでもない。行く理由があるはずもないです。私は中学の頃不登校の子のロッカーを勝手に使用し担任と相当にやりあった(今から振り返ればアホです)ことがあったので、不登校には謎の嫌悪があります。そして今自分も同じ立場になろうとしている。自己嫌悪に陥りました。オンラインが一時的に終わった9月から12月まで(記憶が定かでない)は週に3回ぐらいしか登校していませんでした。当時の担任は特にそのことに関して家に家に連絡をするわけでもなく放任でした。しかも二日連続で休んで時も時に理由を追求するわけでもなく
先生「どうして学校来なかったんだ?」
私「いや、気分が乗らなくて、、、」
先生「なんでだよ!学校こいよーw」
といった感じで重くなく軽いノリで接してくれたのがすごく楽でした。その先生に2者面談で志望校について話した時も「お前にあってるよ」と肯定的でした。と高校2年時は受験を意識するようになり、若干不登校になるものの担任に救われたそんな1年でした。

高校3年のとき

受験期に突入。高校受験で失敗してる私はあまりいい思い出がないです。それでもその精神的な壁に立ち向かっていく必要がありました。個人的に今までの人生で最も大きい壁だったかもしれません。さらに私は鬱と躁を周期的に繰り返す躁鬱持ちであった。これをコントロールするために決めたことは以下のようなことでした
1. 辛くなったら無理にやらない
2. 勉強をやろうという感覚にならないようにする

この二つだ。
具体的な勉強法についてはまた別途書きたいと思っているが、英語に関しても小論文に関しても、今まで自分が逃げてきた弱い分野。英語に関しては単語力。そして小論に関しては読解力でした。この二つの私にとっての強大な敵に立ち向かうため私は腹を括ったのだと思います。しかし、それは誰かに言われたわけでもなかったため、精神的な負担ではありませんでした。


高校三年生後半

書いていたら意外と文章が長くなっていることに気が付き、後半と前半で区切ろうかなと、、、、、、
さてさて、受験も10月半ばに突入と同時に、学校生活もそろそろ終わりに近づいてきました。そうしたときに、「自分の高校生活はどんなものであったか。」と、ふと振り返るのです。はっきり言うと何もなかったのです。別に僕は学校でしゃべる人がいないわけでもありませんでした。にもかかわらずなにも振り返るものがなかったのです。というのも、端的に言えば、彼らのことを見下していたのかもしれません。自分が上であって彼らが下である。そう思いたかった。しかし、それを証明するすべは何もありません。虚構によって自身が作り上げたヒエラルキーを探し求めていたのです。それをやめました。端的に言えば、他人を意識することをやめたのです。そうあらためた翌日から「なんか変わったね」と友人から言われました。やはり前の僕はつまらない人間だったらしいです。以前の自分は言葉の論理的正当性を盾にして内にこもっている、そういう人間だったのです。後半はこれが大きな出来事でした。自分の負を見つめ自身の皮を破る。これがなかなかに難しいことのように思います。

これが僕の簡単な高校三年間の振り返りです。と文章を閉めようとしましたが、すこしここで僕と仲良くしてくれた友人について触れておこうと思います。

番外編

二人に共通している点といえば、高校最初の二年間は何も接点がなかったということです。僕自身、内向的ではないもののあまりガツガツいかないタイプなので話しかけたは二人だったような気がします。(覚えていません)
それぞれの印象を軽く書いてみると、一人は最初は僕が持っていた見た目への偏見によりあまり印象が良くありませんでした。今となってみれば大変失礼な話です。その人には人を寄せ付けないオーラを放ちつつも、近くにいる人を笑顔にするという普通の人では持てないよう魅力があるのです。高校3年生の初めのころ話す人がいなかった僕にとって非常にありがたい存在なのです。余談ですが、その人は休み時間ごとに何かを食べるある種の習性のようなものがあるのですが、本人曰く「体調管理のため」だそうですが個人的には常時消化器が働いていることによる臓器の負担のほうが心配です。
そして、もう一人。この人もある種変わっている人です。はじめは、おとなしくマジメな人だと思っています。実際話してみると、なかなか一般的な高校生より興味を持っているモノコトのレベルが高いように思えました。しかし、実際にこの人がいるべき場所とその場所の学力レベルと本人のレベルに少しばかり乖離があるように思えました。もったいない。この人ならもっと高みを目指せると僕は信じています。

終わりに

ここまで僕の3年間を読んでくださって本当にありがとうございます。
「終わり良ければすべて良し」という言葉があります。僕自身安直にこの言葉を全肯定することはできないのですが、こう解釈するのはどうでしょうか。どんな結果を迎えたとしても、そしてその過程が良いものであれ悪いものであれ、そういうものであると受けいれ肯定する。とすれば、僕のこの3年間は良いものだったのでしょうか。僕自身このことに対して言及するなら良いものであったといいましょう。


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