乖離による苦しみ

人はみな生きていれば何かと苦しいことはあるはずである。ないという人がいれば本でも書けばたいそう売れることだろう。僕たちはいったいどのようなときに苦しむのか。筆者が今考えうる限りでは理想の自分と本来の自分の不一致によるものではないかと考えた。たとえば「お金持ちになりたい」という理想の自分と現実のそうではない自分である。たいていの場合両者が可視化されていれば、苦しむことはないだろう。
というのも、今の立ち位置と目指すべき場所が決まれば、どのようになしていけばいいかを考えればよいからである。これがなかなかに難しいものななのだ。今回はこの乖離による苦しみについて少し触れていこうかと思う。

さて、理想の自分と今の自分の乖離が「苦しみ」を生み出しているのではないかと述べたわけだが、この苦しみというものは虚構であるといえるのではないだろうか?
そもそも苦しみ自体が想像上のものであるのが、それについてはいったん置いておこう。話を戻して、私が着目したのは理想と今の前者の方だ。理想の自分と呼ばれるのがどのように形成されるのか。おそらく、僕らの意識は常に外的環境に大きく依存しているわけだから、その意識によって生成される「理想」とやらも例外ではないだろう。
その外的環境とは育ってきた環境であろう。もう少し細かく言えば、親、友達や先生といったその環境の中にいる人間が大きく関係していると考える。
理想の自分というのは知らぬ間に他者によって想像されたガンのようなものなのではないだろうか。しかし、ある程度の他者の干渉とは避けられないものである。(無人島に暮らしているなら話は別であるが)
ここでふと思ったのだが、人が向上していくうえで、乖離がないと始まらない。そして目標となるべき「理想」は大抵は他者の影響がある。乖離自体が苦しみを生み出すわけでもないし、他者の干渉があったからと言ってそれが生み出されるわけではない。ではなにか。
おそらくは自己にせよ他者にせよが作った「理想」の自分が現実の自分とあまりにも異なっている、かつその道筋が見えないときに苦しむのではないだろうか?
しかしこのテーマはあまりにも多様すぎる。感情というのは言葉は一つであってもそれ受け取る側によってその定義は異なってしまう。あくまで私の中での苦しみを細分化してその一例を考察したに過ぎないと思う。もう少し時間があればもう少し分析したいと思う、、、、、、という理想、それを分析する自分という理想は私を苦しめないだろうか。



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