自分の生き方と短所

自分のことがどう思われてるかとかって、だれしも考えるわけでありますが、なんぼ考えたって所詮は自分の世界ですから本当のことがわからないわけであります。


これはずっと変わらないことなのですが、私は他人に興味があります。どれくらい興味があるかというと、例えば、自分の隣の教室や部屋で楽しそうな声が聞こえたとして、何をしてるかを窓から見れるとしましょう。普通の人は、見ないあるいは少し見ればそれで終わるのでしょうが、私の場合はその4倍ぐらい見てしまいます。ひいてはその人が知り合いならば、その空間に入り込むことがあります。

おそらく私は人より、人の距離が近いと思います。これは私の生き方でもあります。このおかげでいくつかの友人を得ました。中にはそう簡単に自分が出だせない人もいましたが、そんな人にも同様にクラスメイトだなんだということを皮切りにずっと話しかけることにより、相手の心が開け、次第に私に話しかけてくれるようになりました。

こうした関係は大学生になった今でも続いていて、帰省すれば時間が合えばたまに会ってお話ししたり、相手の大学まで行ってお泊りしたこともありました。


さて、これは長所というか生き方ですが、短所にもなりえます。人には自分のテリトリーや距離感を侵されると防御しようとする力が働くでしょう。これが起こりうるのです。私の感覚的には「人が一般に自分のテリトリー(距離感)だなあ。」というところの2段後ろぐらいにテリトリーラインを引いています。

いわば、2段ほど相手のテリトリーに踏み入れているのです。なぜ踏み入れるのか、それはただ一つの理由です。「その人に興味があるから」です。「誰にでも興味があるのか?」と思われるかもしれませんが、私はあった人なら誰にだって興味があります。その人にしか経験できなかったことがたくさんあって、その中で自分の記憶に残った面白い話は私が知りえる唯一のチャンスかもしれないからです。


しかし、これは友達ならまだしも、そうでない人にされるといやな気持ちになる人もたくさんいるわけです。「なぜ、知りもしない人に私のことを教えなければならない」のだと。さらに、私は自分の趣味嗜好そのもので楽しそうに話しかけているわけなので、さらに薄気味悪いかもしれません。

私からすれば「知りもしないのだから話しかけているのだ」という理論ですが、そもそも「この空間にいる人間のことを興味すらない」という人もいて自然です。そう思うとあるいはそう思われる人からすれば、私の短所でしかありません。人との距離感が近すぎる、あるいは一方的に早く相手の距離を近づようとする傾向があるようです。

人を無視できない性格にいつごろかなってしまったようです。すべては、どんな人の話でも「笑いたく」自分の話でどんなひとも「笑わせたい」と思ってしまったことに端を発してしまったのかもしれません。


はた迷惑な話ですが、これを私は生き方にしてしまった以上どうすることもできません。

しかしやはり社会に迎合して、空気を読む練習をして、相手のテリトリーに触れないようにするのがいいのか。


つい先日そんなことを悩んでいるんだと後輩に話しました。


すると後輩はこういってくれました。

「僕はそんなところが好きなので、変わってほしくないです。」と。

私はこの言葉でふと思い出しました。

この後輩はまさしくそういう風に接してできた友人ではないか、単なる同じ学部でたまたま数学で悩んでいたから声をかけただけではないか、と。


自分の長所や生き方は、短所になりえることは大いにありえます。

しかしそれでも、

それを糧にして得たものはやはり、それ以外の方法では得られなったはずです。



自分の生き方に自信をもって前に進むこと

そして

自分が得てきたものの中には、

自分の考えの糸口があることを忘れてはならないと、思わされました。

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