ゲームを競技化すること

 私はいわゆる「競技〇〇」といわれる言葉が嫌いである。○○にはいろいろ入るであろう、たとえば【かるた、麻雀、クイズ】などである。本来はどれもゲームであった。一部の熱狂的なものが「ゲームを競技化」させようとしてるあるいはさせたことによって、このような概念は形成させた。もちろんこう言ったものは、昔からあって、スポーツなんていうものはみんなこの類なのであろう。が先にも言った通りこれらは本来遊びつまり”ゲーム”に過ぎない。最近は「競技としての○○か、ゲームとしての○○か」この乖離を無視した考えが横行しているような気がしている。よく見るのは競技側がゲーム側をけなす・認めないといったことである。これはあまりにもおかしい。本来ゲームというものは”プレイヤー間で何のためにプレーしてるか”で決まるはずなのに。


ここではあえて身近に起きたであろう、競技化したゲームについて検証して考えよう。

 大乱闘スマッシュブラザーズを思い出してみてほしい。友達のお家で一度はやったことがあるであろう「スマブラ」。このゲームは相手をフィールド外に出せば勝ちというシンプルなゲーム性ながらも、さまざまな技を駆使し相手にダメージを与えないとなかなか外には出せないという面白さがある。また<さまざまなアイテムやフィールドのギミックを駆使することで形成を逆転できる。>というのが特徴である。    

この< >の部分が世の子供たちが意見が分かれてきた部分である。なぜかスマブラの強者は< >がないルールとされてきたのである。私はいつも異を唱えていた。「アイテムやギミックを駆使してこそ真のスマブラの強者である」と。たしかに、そうしたものがない(つまり、アイテムなし・終点)といった方が技量での勝負になるだろう。しかし、このゲームはそう言ったゲームではない。このゲームは「みんなでわいわい楽しむパーティゲーム」に過ぎない。そんなに技量が競いたいならストリートファイターでもしておけ。と子供ながらに思ったのである。それだけではない、この遊び方にすると大体所有者が勝ってしまう。せっかく友達が遊びに来てくれたのそう勝てないのである。モンスターボールから伝説ポケモンが出て逆転であるとか、ハンマーを取得しよくわからないけど、相手に近づいたら勝ってたとか、みんなステージ変化についていけず落下したとか、ドラマがうまれない。一筋の光が見えない。そうした遊びを私は認めたくなかった。(注意しておくが、みんなが< >なしのルールがいいといえばそれで楽しめばいいと思う。私はアイテムがある方が好きであるし、本来はそちらのルールなので私がスマブラするときは絶対にしない)                    

しかし、残念ながら大学生になった後にスマブラをやろうといわれると、< >なしルールばかりであった。私の考えの方がマイナーなのかと思ってしまったが、こうした考えの差はいわば宗教のようなものであろう。最初にどうしたルールで育ってきたかであろう。「スマブラの真の楽しみ方は < >なしでしょ」とまで植え付けられ、その中で必死に努力し勝てるようになった人間たちはそこの世界にいるのだろう。しかし、それはその世界にたどり着いた人間の遊びなのであって、庶民に押し付けるものではないし、押し付けは「パーティゲーム」であるという本質を乖離してしまう。ゲームをする人間は勝ちたいのである。誰も負けたくはないはずだ。にもかかわらずゲームの実力差が明白なものを何のハンディもなくして勝負するのはあまりに勝ち目がないではないか。それで楽しめるのだろうか。初心者にも勝ちの望みがあるゲーム。それが「パーティゲーム」の最低条件である。


いかがであろうか、私はゲームは「みんなで楽しむ」が絶対条件だとおもう。とくに勝敗があるものであるならば、だれでも勝利の可能性の持てることが条件に加わる。無理やり運の要素やねじれを排除したりすることで、競技性を上げようとするのがわかるが、そうしたものを追うあまり本質を見失ってはならない。あくまでももともとは遊びなのである。競技化されたものを押し付けたりするのはナンセンスである。競技は競技化されたことに合意した者同士で行うものである。


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