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建築の生まれるところ.恩師への謝辞.

僕には建築の恩師と呼べる人が3人いる.大学の時のゼミの先生,大学院の研究室の先生,そして設計を学んだ建築家.いずれも建築にまつわる哲学と歴史とデザイン/設計.それらを横断してきた自分は幸せである.恩師たちの期待に応えることが出来ているかは怪しいものの,今の自分は彼らの存在なしにはあり得ない.そしてある日突然,大学の恩師が昨年帰らぬ人となったことを知る.思い出を語る会が催された.いろんな想いが去来することを書き留めておく.

建築学科に進もう,と決めたのは高校生の時.人並みに受験を避けて通れない時期にある種の妥協的な(そこに微かな希望は確かに感じていたのだけど)産物としての進路決定だった.芸大を密かに志していたものの親からも自分の内面からも現実的な将来が見えて来ないことに怯み,創造への想いと現実的な職業とが比較的堅実に出会う場所としての建築家という存在に自分の将来を賭けてみようと考えてのことだった.ただ,その時に建築家の名前を聞かれても答えられなかったと思う.その程度の認識だった.

当時は共通一次の時代.ここで志望校に行くための点数を稼がないと進路変更か浪人が待っている.そして僕は失敗した.第一志望にも第二志望にも願書を出すことが許されない点数に甘んじた僕に残った選択肢は,志望していた国立の建築学科でなく国立の教育学部の教育美術か,地元広島の私立大学の工学部建築学科かの2択だった.最終的には教育美術にも合格したのだが,高校の美術の先生になるより建築家になる方を選んだ.私立の大学の建築学科のパンフレットには,緑輝く芝生の広場に佇む彫刻的なフォルムの不思議に魅力的な建築の写真が見開きで載っていた.こんなところで勉強できるなら素敵だと思ったこともその大学を最終的に選んだポイントだった.あとでその建築が大学のものではなく,遠く離れたフランスの片田舎にある偉大な建築家の作品だったことを知るのだが.

当時,その大学には,現役の建築家は教授陣には実際のところ居なかった.それでも,設計の授業が始まると,かつて建築家であった教授や,非常勤講師としてやってくる建築家の指導に心が動いた.当時,CMで広く知られた,アントニオ・ガウディの建築に心酔し,オーガニックでヘンテコな彫刻的で造形的な案をこしらえては提出していた.良い評価のこともあれば,そうでもないこともあった.そして毎回自分ではベストを尽くしたつもりが,いろんなところが不整合ながら力技の造形力で誤魔化しながら進めていたとも言える.それでも楽しかった.工学部だけど,設計の授業は実験するでもなく,ひたすら課題として与えられたテーマに沿う建築がどういうものかを考えて図面やスケッチに表現する.当時は模型もほぼ誰も作らなかった.そういう校風だったし時代だった(今のように模型がもてはやされるようになったのは90年代後半からだと思う.卒業設計でもほぼ全員図面のみだった.後に進学した広島大学の大学院にいるときも学部生も院生もそうだったから、地方大学としてはそれが普通だったのだと思う)いずれにしても、自分の考えが空間を生み出す作業に没頭できた.想像するしかないお絵描きの作業に飽きることがなかった.

大学のいいところは,自分の好きな科目がある程度の自由度で選択できることだ.哲学が好きなのは,自分の名前に哲の字があるからなのか.高校の哲学の授業が面白かったからか.そして,科学と哲学が交わるところも面白かった.幾つか忘れられない授業がある.授業名も講師名も忘れたが,トマス・クーンの「科学革命の構造」をテキストとして展開された非常勤講師の座学は世界の見方を教えてくれた.そして,もうひとつ,ある大柄な男が語る建築の在り方についての講義に魅了された.若い頃に留学して過ごしたドイツを第2の故郷と語るその人から出てくる言葉には,他の講師にはない切実さが宿っていた.建築の概論なんだが,教科書的な知識の表面をなぞるような話は一切なく,時には建築とはかけ離れた社会や人間の認識の話題に触れた.ハイデガーやメルロ・ポンティに言及し,何が本当かを語る.「道路にロープが落ちていた.それを見て君は蛇だと思ってゾッとした.程なくそれがロープだと気づいた君にとって,それはロープであったか?」そんなことはそれまで考えてもみなかった.彼は建築を人間のなかに捉えていた.「生きられる人間」の拠り所としての建築.工学的に物理的に在ると同時に,人間の中に起きる建築があるのだ.存在論的建築,それが哲学者であり建築家であった彼のテーマだった.それ故,当時の彼はもはや自分では設計をしないと宣言していた.その本当の理由は尋ねることができなかった.時に思考が偉大すぎると現実はそれを超えることができない.先生はそういう地平に当時いらしゃったのかもしれないと,今になって思う.

よって、設計の授業では先生の教えを乞う機会はなかったものの,先生のゼミに入り,クリスチャン・ノルベルグ・シュルツの原著を輪読しながら,建築とは何かについて考え続ける時間を共有した.卒業設計のテーマについて語り合い,ふらっとゼミ室にやって来ては「(ルイス・)カーン”風“だな」と形だけ真似ても仕方ないぞと言いたげにボソっと呟いて出ていく先生.そういうやりとりを何度となく繰り返しながら,いつか認められたいという願いを秘めながら設計と格闘した.就職せずに大学院に行くと決めて,当時はその大学には院がなかったから,候補の進路を相談しに行ったりもした.ポストモダン隆盛の時代.東京の大学の院を志望した時「私の好みではないな」と言いながら助言をいただいた.最終的には広島大学の建築史の先生の扉を叩いた.卒業設計ではいい評価を貰い,先生から普段使っておられたクロスのボールペンをいただいた.それは今でも目の前の筆立てに鎮座している.

よくよく振り返ると,先生から具体的に設計を教わったことはない.常に問うことだけ教えられたように思う.おそらく、その建築がどのようなものであれ,そこに関心がなかったのではないかと思う.どういう想いでつくられたのか,だけ問われていたのかもしれない.でもそれこそが建築の本質ではないか?その想いのない建物に建築は宿らないのではないか.僕が学んだのはそういうことだと思う.

卒業後は年賀状だけのやり取りが随分続いたが,ある時からお返事が来なくなった.退館されて何年も経つし,ご高齢になられたのは明らかだった.身近に同じゼミの先輩や後輩がいるものの,おそらく同じように心のどこかに不安を感じつつお互いその不安について口にすることはなかった.そして昨年冬,その年のちょうど半年前に先生が亡くなられたこと,ご家族の意向でそれについて特に広く周知することがなかったのだと聞いた.それでも,先生の思い出を語る会,というかたちでゼミ生が集まる機会が設けられたのだった.先生が亡くなってほぼ一年後,2024年の6月の初めだった.

いつかはそんな日が来ることは分かっていながら,実に大きな欠損である.僕が認識するこの世界のどこかに居るべき人が居ない.生前,何かの授業で先生は「これからの日本で大事なのはデザインと教育だ」と言われた.そして,僕は結局のところ,紆余曲折がありながらも,デザイン教育に長く携わることとなった.先生のようになりたい,と思ったことがないといえば嘘になるが,それは余りにその存在が遠くにありすぎるために叶わぬことを最初から分かっている故避けているのだ.自分にできる方法で,自分の建築を追い求めること.それは自分が作りたい建築という文字通りの建築家の我儘の結果ではなく,建築がどうあるべきかを社会に問いかけることに他ならない.さらに,敬愛するルイス・カーンが言ったように「建築は存在しない」ならば,建物を作ることだけが建築することではない.先生は「築く」という言葉について触れられている.家族で晩御飯を囲むひとときを「築く」ことが建築の根源だと.だとすれば、人の居場所を,真に生き生きと生きられる場所や状況を生み出すこととて建築ではないのか.その想いで毎日を過ごしている.

先生の,常にどこか憂いを帯びた目で社会を深く鋭く見つめ,捨てきれない「あり得た豊かな世界」への思いをニヒリズムで包むそのシニカルな態度の残像が,途切れることのない北極星の光のように僕らを照らす.先生、ありがとうございました.どうぞ安らかにおやすみください.

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