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わたし,と,わたしたち.についての考察

2021年7月某日

この週末から週初めにかけて,偶然,交わりのない(と思っている)場所で「わたし から わたしたちへ」という見出しをふたつ目にした.

はじめに見つけたのは,JAGDA(日本グラフィックデザイン協会)の年鑑の巻頭鼎談の最初の見出し.日本を代表するグラフィックデザイナーである現JAGDA会長の佐藤卓氏,副会長の原研哉氏,同じく副会長の永井一史氏というその分野の人にとっては豪華メンバーだと分かる組み合わせの鼎談を記事にしたもの.そこには,

「わたし」から「わたしたち」へ変わりつつある世界の意識,と見出しにある.その内容に共感したから,その見出しの言葉が意識に強く残っていた.

そして今朝,月曜日.毎週届くメールマグ「Lobstarr」の見出しにも.

「わたし」から「わたしたち」の喜びへ,とある.

いずれも,新型コロナウィルスのパンデミックが加速させたネット社会に良くも悪くも左右される現代の空気というものを掬い取っているなかに,これからの社会は「わたし」から「わたしたち」へという公共性のようなものが必然的に主流になっていくはずだという展望が示されていた.

2021年9月某日

そのまま,ぼんやりと「わたしたち」についての考察を頭の隅に置いておきながら時間が過ぎ,この原稿も放置したままになっていたところに,「新建築」誌の最新号からこのキーワードが再び目に飛び込んできた.「人のためでない,人びとのための建築」と副題が付けられた平田晃久氏の論考である.ここでは,公共建築を作る設計者の視点から,意思決定のプロセスやクライアントとしての公共性だけでなく,プラクティカルに使われる機能を持った日常的な空間以外のところに,本質的な公共性の磁場が宿っていることを示唆している.

辛うじて個人的な想いや思想の発露としての存在が許されているアートの世界と異なり,一般的な建築にはもはや個人的な「建築家」の美意識が入り込む余地が(良し悪しは問わず)これからさらに少なくなるだろう.実際には,それは決して無くなることが無いとも言えるが,どこかで意匠や意思決定の場面で「客観的であること」が必要とされる世の中になっているのは間違いない.そんな風に僕は先の論考とは少し違う視点で,クライアント,という存在に思いを巡らせていた.

日本に民主主義は存在しなかった?

最近,日本語の由来を調べていたら,いわゆる昔から日本に存在する言葉と,明治維新以降欧米の言葉や概念を輸入する中で作られた日本語があるという話が面白いと思った.考えてみれば当たり前だが,専門分野が遠すぎたせいか,あまり日常で意識したことが無かった.その中で,民主主義という言葉も,デモクラシーという言葉を無理矢理日本語にしたものだという話が出てきた.どうりで日本が遅れているわけだ.その反面,いまや世界中で民主主義が危機に瀕しているという実感もある.なんとなく頭の中にあるのは,民主主義という概念は「みんなの最大公約数的な幸福」を前提としているということ.それは「公共」とか「パブリック」というものの役割を前提としていること.つまり「わたしたち」を前提としているということなのではないか,ということ.

おそらく,インターネットという産物が,世界を凄まじいスピードでオープンにしていって,それは,別の言葉に言い換えると権力の解体が加速しているということであって,ある程度のレベルまでは,ちいさな既得権益は「みんなのメリット」のために明け渡されるプロセスにあると言える.

日本というのは,民主主義といいながら,随分とまだ戦前の島国根性や村社会の延長線上で日々の生活が営まれていると言える.その中でインターネットネイティブの世代が,今の社会に違和感を感じないはずがない.民主主義や公共という意識が高い海外でさえ,BLMやLGBTQ+が「マター」となるのは,こういったインターネットの社会をオープンにしていく力が加速させていることに異論はないだろう.その動きが日本にも変化を強いている,ということなのだろうと思う.

失われたチャンス

その意味で,TOKYO2020は,日本社会を大きく変える重要な変革点になるはずだった.個人的にはそこに一番オリンピックを再び日本で開催する意義があると思っていた.日本もその準備が出来ていたと思う.笑い話のようなtatooを温泉でどうするか問題というような,膨大な数の「どうするどうする?」案件が押し寄せてきて日本の世界「感覚」を刷新するチャンスになるはずだった.ひとことで言えば「多様性」への理解.多様性で「思うようにならない」ことを前提とする社会で,そこで怒るのではなく,お互いを尊重し,その中でどう物事を落とし込んでいくかという新しいフェーズに移行する一世一代の機会だったはずなのだ.好きか嫌いかではなく,もう「そうなるしかないね」という諦念にも似た感情からでもいいから,それを受け入れて変化していくしかないシナリオだった.

しかし,逆説的だが,新型コロナウィルスで世界中が閉塞したこの1年半以上にわたる状況の中で,Solidarity(連帯) という言葉を毎日のように見聞きする.そこには,お祭り騒ぎとしての変化の切っ掛けになるはずだったオリンピックとは違うアプローチで,意識の変革を促しているという構図になっている.少し矛先は違うが,大きなうねりとして,古い感覚が更新されていく機会として捉えるならば,これもまたひとつの切っ掛けであることは確かだろう.デジタル化やハンコレスという大小さまざまな変化がもたらす意識の変化は意外と侮れない.それらはビジネスや教育の現場から少し緩い自由な空気を醸し出すだろう.そういう空気が,社会全体に波及するかもしれない.そう,まだ整理できていないが,一言でいえば僕は「緩さ」が日本を変える大きなキーワードではないかと考えている.

イマココ

わたし,から,わたしたち,という眼差しの変化は,イデオロギーを超えた「全体が豊かであること」への合意形成のプロセスを見出そうとするヒントとして分かりやすい言葉だと思う.先に述べたように,無理矢理にでもオリンピックがもたらすはずだった「わたしたち」という言葉の裏にある「多様性」「公共性」への変化を,クリエイティブな分野がそれでも率先して問題にし始めていることは注目に値する.多くの場合,コミュニケーションの問題のような気もする.ナラティブ,というべきか.プロセスを開示して,全体で合意形成をすること.それは決して政治に限ったことではないのだ.デザイン思考とかデザイン経営とかが話題になるのも,デザイナーの職域が変化しているのも,良く言えば期待されているのも,そういう「プロセス」を含めたデザインであり,ますます,社会をどう見ているか,が最終的な成果物へ導くための必要不可欠な要素になっているんだなと感じている.

(随時アップデート予定)


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