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交信としてのデザイン、形のないものをつくるアーキテクト

四国の玄関口、高松市で暮らし始めてあっという間に一年が経ちました。

異動してしばらくは環境に慣れていないことによる無知をいいことに、のんびり仕事できていたのもつかの間、5月にはカリフォルニアへのいくつかの先進的な教育機関への視察、その後はその視察をテコにしてゼロイチで新しいプロジェクトを立ち上げたり、そのプロジェクトのドライランのマネジメントで存外忙しくなった昨年でした。でもその忙しいことは決して悪いことではなかった。というのは、そのプロジェクトは敢えて社外の人たちと意見交換していくことで、関わる人の輪が大きくなっていき、その場がいろんなアイデアや考えを吸収するコミュニティになっていったからです。

これまでの拠点だった広島や、紹介で愛媛や静岡、はたまた海外、面白そうな人に声をかけ、あるいは、その人たちから紹介された人と、ぼんやりとした枠組みをあるパーパスの下にまとめ上げていくことは、実は初めてのことだけど、不思議とすでに経験していることの集合体のような作業でした。それは、建築やデザインをチームでつくりあげるプロセスと学科や授業の組み立てのプロセスがジョイントした、僕にとってのこれまでの経験の統合的なミッションだということがだんだん分かってきたからです。

そういうことに意識的になってくると、これまで自分の中に深く沈殿していた、建築家(作家としての建築家)への憧れというか執着のようなものからフワリと軽くなって、建築家あるいは空間づくりの素養を持つコミュニティマネジャー、ネゴシエイター、モデレーター、コーディネーターのような立ち位置でいろんな分野と共創的に何かをつくりだす、make というより provide していく、もっといえば、考えながら作り続ける、ことが自分にとって最も快適なポジションかもしれないという感覚が強くなっていて、自分のアドレスを再確認したり、これから何をしたいのか(それは何ができそうなのか、というフィージビリティに密接に紐づいている)についてよく考えるようになりました。

一方で、自分ひとりで建築をスケッチしたりすることは日々の瞑想的なアクティビティとして没頭できる楽しいことであることは変わりません。何が言いたいかというと、究極的に自分にとって満足のいく感覚的な到達点というものがあり、それに到達したいというアーティスティックあるいはエゴイスティックでおそらくナルシシズムでもある欲求も、これはもう生理的にあるんだと思います。そこには誰にも邪魔されたくない不可侵の領域なのだけど、どこかいつも満たされない。その理由は、逆説的に、本来やはり建築やデザインというのはリアクションとしての営みだということにあると思うわけです。つまり、誰かとの対話をしなければデザインとして「浮かばれない」という感覚かもしれません。

建築やデザインとアートの違いは何か、という問いはよくあるものだし、人の数だけ答えがあっていいと思います。僕自身としては、それらの言葉をさらに分解して解像度を上げると、お互い浸透しあっている部分もあるし、そもそも違いを定義づけることがそれぞれの自由さを奪うことになる気がして、だからそれは受け取る側の感覚でどっちでもいいと思っています。敢えて、敢えて言うなら、建築やデザインの本質はそのプロセスにあるような気がしていて、アートは生み出されたものに対する鑑賞的な評価なのかもしれない、と今は思っています。だからこそ、美しい建築やプロダクトがアートとして扱われ得るし、最近ではアート作品も生み出される過程はコレクティブだったり共創的だったりするから、そのプロセスにおいてはデザイン的であるとも言えます。

つまり、デザインとは対話、ダイアローグだったり、カンバセーションだったり、なんでもいいのだけれど、交信:コレスポンデンス、の一形態なのだ、というのが今の僕の理解です。そして、その意味でデザインは何もモノを生み出すだけの手法ではない。建築:アーキテクチャーも、本来の建物としてのアーキテクチャーではなく、プログラミングの意味で使われる頻度の方が多くなっていると言われます。形のないものを生み出すうえで、デザイナーや建築家がその力を有効に活用できるフィールドはあらゆる領域にまだほぼ手付かずで残っている気がします。

場所づくり、仕組みづくり。これからの数年は、ここを軸足として自分に巡ってきた機会の全てを、関わる皆さんと、かたちのないものでさえ一緒に楽しみながら作っていければと思っています。

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