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最近考えるゲームについてのあれこれ

 就職もあるのでなんかこういうこと書きたいなーと思ったからこそまとめておきます。

「ゲームのためのシナリオとは」

 いかんせんゲームというものには「名作」と呼ばれるソフトが数多く存在します。ゲームを個人的に総合芸術に近いモノだと考えている私にとっては名作の基準というものは多岐に渡ると考えてはいますが、シナリオ、ストーリーの重要性は必然的に存在すると思っています。ただ最近分かったのが「いい話、いいストーリーの小説」と「ゲームで使われるいいシナリオ」はちょっと違うんだなということです。

 大学の課題の際にゲームを取り上げて課題解決を目論むという形式で発表させていただいたのですが、その際にゲームとしてシナリオを組むだけでなく、注目したのが「ゲームでの体験を現実に還元する、絡めていく」ことだったので、ただ読ませるだけでないゲームのプレイ体験の価値、自分で操作することでの生むより強い意識をさせるシナリオの展開、自分の取り上げるゲームシステムとの深い連動(チュートリアルをどう説明するか、謎を解くことをどう誘導するのか)を考慮しなければならないということがわかってきました。

 極論を言えばゲーム自体にシナリオなんて必要ない可能性すらあります。ギミックの開発とコントローラーの割り振りとそれらを制御するプログラムさえあればゲームとして成立はするわけです。それでも一部のジャンルを除いて多くのゲームでシナリオがあって、ストーリーモードがあるのは何故なのか。

それはゲームの中にあるストーリーが強い示唆と擬似的な体験を生み出すからです。

 ゲームをプレイをすることと読書という決められた一本の道を辿ることとは違います。ゲームプレイの中にはまがりみちもUターンもスキップもはっきり言って自由自在に存在するような世界です。ある程度のプログラム制御ができたとしても、ゲームをプレイするということにある程度の操作性と自由度が伴うのはある意味必然のようなもので、そしてゲームのクリアへと進むという行動は意思表示であり、読書のページを進めることと同程度の手軽さで、よりインパクトを持って我々に帰ってきます。ゲーム特有の分岐によるマルチエンディングは人生を選択するかのような自主的な選択と行動を取ることがゲームの体験を倍増するものだのだと示しているはずです。


 その自由度と引き換えにある種の無駄のようなもの、小説などに存在しない他愛のない誰かの言葉やストーリー上寄らなくてもいい街、ギミックなどなどが存在します。(FC,SFC,GBAの名作「MOTHER」シリーズでは全てのキャラクター、NPCなどの発する言葉、テキストを全てまとめた本のプロジェクトも始動している。)これを無駄だと形容し、削ぎ落とすのが小説だとすれば、それを許容し、楽しむ方向に持ち込むべきなのがゲームなのでしょう。100人プレイヤーが居れば100通り近くのプレイ体験を編み出せるのがゲームの強みのような気がします。

 どの順番で街を回る、どの順番でアイテムを手に入れる、どこで躓き、どこでレベルを上げて、どこでお金を稼いで、どの人に話しかけるか。スタートとゴールを最短ルートで突っ切るのみがゲームではないことは我々的にもよく知ってるでしょう。
 「FE風花雪月」で素手格闘のみで最高難易度をクリアするだとか、「パワプロ」の栄冠ナインでわざわざ扱いにくいキャラを使って甲子園で優勝するだとか、「ポケモン」の6体の手持ちにタイプの縛りを入れるかなんてわざわざエンドに向かうだけならやらなくてもいいのです。

でもそんな人間の思考を叶えてくれる余白と機能がゲームにはたくさんある。あえてここでは無駄ではなく余白と形容し、この余白をうまくデザインすることが良いゲームだとすれば、その際に働く良いストーリーとはなんだと考えるべきなのでしょうか?

「ノベルゲー最強説?」

 ゲームという体験は自由度があることこそ強みだと考えましたが、それが同時に弱点になります。シナリオを楽しんで欲しいのに別の部分で弱くなるとそれが引っかかってゲーム全体の体験の質の低下につながりかねないという欠点もあります。
基本的にゲームのシステムとシナリオは元々かなりそれぞれがサイロ的に独立しやすいものであるという感覚を私自身が経験しており、あまり連動する印象はありません。「ファイナルファンタジー」や「ドラゴンクエスト」などのRPGでもナンバリングやリメイク作品ごとに戦闘システムなどは細かく違い、その評価は異なっており、それが作品ごとの評価につながります。
 レベル上げの推移や敵の強さ、システムの複雑さや全体の難易度は古くからゲームとしての印象に反映されることがわかっていますし、最近は基本無料のスマホ向けソーシャルゲームの周回要素の強さ、運営のバグや不具合の対応、UIの調整やプレイアブルキャラクターのバランス調整、実装キャラの別バージョン比率、ガチャの排出率だとかでゲーム全体の評価に繋がる要素が年々細かくなっていると考えます。やることのコンテンツの多さは一長一短になりかねないということも暗に示しています。
 自由度を変に増やしてしまい、逆に粗が目立ってしまうと伝えたいシナリオ、押し出したいものが結局伝わらずコンテンツとして寿命が縮まることも考えなければなりません。
 そう考えるとシステムとして単純なノベルゲーを出すことはプレイヤーの体験的にも「ゲームとしての自由度は足りないけど、ストーリーを知るのみなら心地良いもの」という仮説が出てきます。これが体験と自由度のバランスを反映すると「ノベルゲー最強説」に落ち着くかもしれないということです。

 実際にサービス終了後のいくつかのゲームが完結したストーリーをいつでも読むことができる「メモリアルアプリ化」したものを読んだことファンになったコンテンツも僕にはあります。元々のサービス自体をプレイしていないことに後悔なども少しありますが、実際のゲームのプレイによっては体験の質は今と異なっていたかもしれません。


「入り口は広く、話は深く」

まあそのとあるメモリアルアプリ、名前を言うと「あんさんぶるガールズ!」なのですが、そのことについても少しだけ。
最初はよくある美少女系ゲームのように女子校だったとある高校に共学化の移行のために転校してきた主人公。
幼馴染のクラスメイトやその友人たちに受け入れられつつ、生徒会長に巻き込まれて学園のあちこちで人助けをしていきます。
しかし話が続くにつれ、彼女たちの事情、裏側、関係性と少しずつ彼女たちの世界の現実に渦巻く異常さに気づくことになります。
特にメインの最初の軸である「生徒会長再任選挙」からの「帰宅部争奪戦」の流れはこのゲームが単なる美少女ゲームでないことを誰もが実感するのでしょう。
この「多彩で美麗なビジュアルの美少女、美男子たち」からは想像もつかないほどの「綿密さのあるシナリオ」と「人間関係」と「ちょっと特殊な世界設定」で深くプレイヤーを引き込んでいく構造は考えてみると様々なゲームやマルチメディア作品で使われています。

一例としてあるのは魔法少女を取り上げたスマホゲーム「グリモアA 
-私立グリモワール魔法学園-」(これもサービス終了後にオフライン版としてストーリーが配信されている)や私がハマっている「ブルーアーカイブ」、ストーリーを読ませるスマホゲーム筆頭の「Fate/Grand Order」「グランブルーファンタジー」などなど。

裏を返せばこれぐらいしないとプレイヤーを掴んで離さないものが作れないということなのでしょうが、外見からは想像もつかないほどの政治劇や暗い話を展開することでの「いい意味での裏切り方」、いわゆるオタク向けのビジュアルで多くを取り込んでから自分のやりたいこと、伝えたい事への深みにハマらせていくやり方としては手法の一つに上がるのでしょう。


「ゲームか、ゲームエンタメか」

ゲームを作る以外にゲームをやる場所やゲームを使ったエンタメもゲームの発展と同時に増えてきました。ゲーム発作品の多数のメディア展開やリアルイベント、最近ではゲームシステムの競技性を利用した「e-Sports」もその一例です。

「e-Sports」と言われても一部のプロ選手のみが活躍する場だけはなく、最近はネットの配信者(ストリーマー)の活動が多くの展開を占めています。
「プレイのうまさ」を競うものもあれば同規模内での「エンジョイの雰囲気から入る大会」も多く、こうした活動が多くの経済的利潤やムーヴメントを生む可能性も秘めていたりいなかったり。
「APEX」や「Fortnite」などは多人数のバトルロイヤルのシステムを利用した多数の大会やイベントの開催によって、もはやゲーム以上の繋がりを生み出しているといえます。
それだけでなく多数の配信者、インフルエンサーの登場が予期していなかった様々なゲームでのイベントを起こしていると言える例もあります。
大手Vtuber事務所として有名になりつつあるANYCOLOR株式会社の「にじさんじ」はすでに日本のみで100名以上のVtuberが所属し、その中でのイベントでは様々なゲームでの大会が開催されそのたびに盛況となります。
昨年は77名のライバーが参加したマリオカート大会「にじさんじマリカ杯」、100名以上のライバーの擬似アバターを「実況パワフルプロ野球」内を作成したのちに育成して、チームを組んで試合を行う「にじさんじ甲子園」や他にも「にじさんじ麻雀杯」や「にじさんじスプラトゥーン大会」などなど、多数のゲームにて大会を行った実績があります。
こういう形で大会を行うことにはイベントの成立から当日の運営まで様々な難しさを伴いますが、同時に様々なゲームの面白さを体感することができることや独自のストーリー、歴史を生み出すことができるなどの新たな側面もあります。
 こういった「ゲームを扱ったエンタメ」を生み出しやすいゲームの条件として「参加しやすいパーティーゲーム性」を含みながらも、極めるとテクニックや練習量やゲームセンスの光る場所のある高度な戦いになることが挙げられます。これもまた一種の「入り口の広さと世界の奥深さ」と言えなくもないでしょうか。
大会を比較的開きやすいとされる「マリオカート」はビジュアルの万人への受け入れやすさ、操作性の理解しやすさやルールのある程度の単純さを入り口の広さとしてデザインしつつ、レースコースの走り方や作戦、ショートカットやアイテムを扱うテクニックなどを極めることで奥の深い高度な戦いを可能としています。

 しかし、そこにどれだけ運やコンピューターの判断に任される幅を持たせ、練習やゲームセンスでは及ばないところを作る「理不尽さ」の調整が大会を開ける「ゲームバランス」を構築する難しさだと思います。
「にじさんじ甲子園」では育成する前の初期の選手のステータスの数値は運ですし、試合の操作は基本オートでのコンピューター操作で、ある程度守備や打撃の強さは調整されます。(バカ試合になることの対策のようなもの)

 これが多ければいわゆる「運ゲー」に近いものができ、誰にとっても勝つことの面白さはありますが、練習することやゲームを考えるセンスが必要にならないので、あんまり練習しても報われないことや事前に立てた作戦が通用しないという現象にもなります。いまいち情熱を持ったプレイヤーが逆に冷めてしまいやすいということも可能性としてあるわけです。
 少ないと逆にシビアな実力勝負で、練習量などがものを言う環境になりますが、逆にテクニックが必要になると回数を重ねるごとに代わり映えしない人が決勝に集まったり勝負が見え見えになるなどがあり、ちょっと面白みに欠けると言うこともあったりします。

ゲームを使ったエンタメ、またはそれを狙ったゲームの作成をする場合、消化試合や歴然とした差を失くして、勝ちの目をどんな場面でも、それが少ない比率であったとしても与えさせるようなゲームバランスのデザインが考えられるということなのでしょうか。

今のところこんな感じのことを考えてます。ということを記録できたのではないでしょうか。
卒制、卒論は「ゲームでの体験を社会に応用させるための全体的なプロセスとそのためのゲームの構築」(3年の時にやったことの更なる発展)を取り上げるか、「ゲーム大会を使用したエンタメを広く流布させることの効果とそのためのプロジェクトやゲームの構築」(e-sportsの敷居を低くしたり、地域活性化やコミュニティの構築なんかに一役買う方法的な。)かなと考えてます。
どっちも面白そうだなーと考えててそれをうまくできる方法とか応用できる現場を現実に見出せればより良いものができるのではと思考している最中です。




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